第10話 猛吹雪の密室と、とろけるビーフシチュー
ヒューーーッ、ゴオオオオオオオ……!!
世界の終わりかと思うような轟音が、山小屋の壁を叩いている。
視界はゼロ。窓の外は、上も下もない白一色の闇だ。
「……最悪ですわ」
暖炉の前で、ピンク色のドレスを毛布でぐるぐる巻きにした聖女リリアナが、ガタガタと震えながら毒づいた。
「なんでわたくしが、お姉様なんかと遭難しなければなりませんの……!?」
「こっちの台詞よ。勝手についてきたのはそっちでしょ」
私は溜息をつきながら、暖炉に薪をくべた。
今日は、新メニューのための「幻のキノコ」を仕入れに、北の山へ来ていたのだ。
そこへなぜか、「お姉様だけズルいですわ!」とリリアナが馬車で追走してきて、二人揃って季節外れの猛吹雪に巻き込まれたというわけだ。
幸い、近くにあった狩人用の避難小屋に逃げ込めたが、外は氷点下の地獄。
救助が来るまで、ここで耐えるしかない。
「お腹……空きましたわ……」
「そうね」
小屋の備蓄食料棚を漁る。
あったのは、カチカチに乾燥した黒パンと、赤ワインの残りが一本。
そして、冬越しの保存食として吊るされていた、干し肉のように硬い「牛のスネ肉」の塊だけだった。
「……石ですの? これ」
「スネ肉よ。普通に煮込んだら3時間はかかるわね」
リリアナが絶望的な顔をする。
この極寒の中、3時間も待っていたら凍え死んでしまう。かといって、硬いままでは歯が立たない。
短時間で、この筋張った肉を「飲める」レベルまで柔らかくする方法……。
(……あるわね。魔法を使えば)
私はニヤリと笑い、棚の奥から分厚い鋳鉄の鍋を取り出した。
「リリアナ。あんた、風魔法は得意?」
「愚問ですわね。わたくしは聖女ですのよ? 空気の密度操作くらい、赤子の手をひねるようなものですわ」
「よし。なら、協力しなさい。あんたの魔法と私の料理で、この肉を『とろけるご馳走』に変えるわよ」
◇◇◇
まず、鍋に油を熱し、一口大に切ったスネ肉を投入する。
ジュワアアアッ!
肉の表面を一気に焼き固める。メイラード反応による香ばしい匂いが立ち上り、リリアナが鼻をクンクンさせる。
「そこに赤ワインをドバっと!」
ジューッ!!
紫色の蒸気が上がり、鍋底の旨味(焦げ)を溶かし出していく。
水と香味野菜を加え、蓋を閉める。
ここからが勝負だ。
「リリアナ、蓋を押さえて! 鍋の中の気圧を上げるの!」
「はあ!? 何の意味が……」
「いいから! 鍋と蓋の隙間を風の結界で密閉して! 蒸気を一滴も逃がすな!」
リリアナは文句を言いながらも、杖を振るった。
鍋の周囲を、圧縮された空気が覆う。
私は火力を最大にする。
グツグツ……シュゴオオオオ……。
鍋の中で液体が沸騰する。しかし、蒸気は逃げ場を失い、内部の圧力は限界まで高まっていく。
通常、水は100度で沸騰するが、気圧を上げれば沸点は120度近くまで上昇する。
これこそが「圧力鍋」の原理。
高温高圧の環境下では、肉の結合組織は急速に崩壊し、ゼラチン質へと変化するのだ。
「ちょ、お姉様!? 鍋が……鍋が唸ってますわよ!?」
「抑えろ! 今手を離したら爆発するわよ!」
「ひいいいいっ! わたくしを殺す気ですのーッ!?」
リリアナが涙目になりながら魔力を込める。
鍋からは、キーンという金属の悲鳴のような音が響く。
まさに、一触即発。
死と隣り合わせの調理。
「今だ、火を止めて! 蒸気を逃がすわよ!」
「えいっ!」
リリアナが結界を一部解除する。
プシューーーーーーーーーッ!!!!!
猛烈な勢いで白い蒸気が噴き出し、小屋の中が真っ白な霧に包まれた。
ワインと肉の、濃厚で甘美な香りが爆発的に広がる。
「……で、できた」
私は蓋を開けた。
そこには、艶やかな暗褐色(マホガニー色)のソースの海と、その中でゆらりと揺れる肉塊があった。
「……これが、あの石のような肉?」
リリアナがゴクリと喉を鳴らす。
私は皿に盛り付け、彼女に渡した。
ブッフ・ブルギニョン(牛肉の赤ワイン煮込み)の完成だ。
リリアナはスプーンで肉に触れた。
抵抗がない。
ホロリ、と繊維がほどけ、スプーンが沈んでいく。
「……嘘」
彼女は肉を口に運んだ。
「ん……ッ!」
リリアナの目が大きく見開かれた。
──溶けた。
噛む必要すらない。舌の上で、肉が雪のように解けていく。
ゼラチン質に変わった筋が、濃厚な肉汁となって口いっぱいに溢れ出す。
赤ワインの酸味が脂っこさを切り、凝縮された野菜の甘みが、冷え切った身体の芯まで染み渡っていく。
「……あたたかい」
リリアナの目から、ポロリと涙がこぼれた。
演技の涙ではない。本物の涙だ。
「悔しい……悔しいですけれど……美味しいですわ……」
「……そう」
「こんな……こんな乱暴なやり方で、どうしてこんなに優しい味がしますの……」
彼女は夢中でシチューを口に運ぶ。
外の吹雪の音は、もう聞こえない。
ただ、スプーンが皿に当たるカチカチという音と、二人の吐息だけが響く。
食べ終わる頃には、リリアナの顔色は薔薇色に戻り、強張っていた肩の力が抜けていた。
満腹感と暖かさで、うとうとし始めている。
「……勘違いしないでくださいね」
リリアナは、眠そうな目をこすりながら言った。
「今回は、お姉様の『魔力制御』が未熟だから、わたくしが手伝ってあげただけですわ。……次は、わたくしがもっと美味しいものを作って……」
言い終わる前に、彼女は私の肩にもたれかかって寝息を立て始めた。
無防備な寝顔。
起きている時はあんなに騒がしいのに、寝ている時は天使のようだ。
私は彼女に毛布を掛け直し、残ったシチューを鍋のままかき込んだ。
圧力鍋の中で肉の繊維がほどけ、一つに溶け合ったように。
私たちの間の氷の壁も、少しだけ溶けたのかもしれない。
翌朝、嘘のような快晴の下、私たちは救助された。
リリアナは目覚めた瞬間から「肩を貸したのは貸しですわよ!」と通常運転に戻ったが、その声には以前のような刺々しさはなかった。




