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季節の静けさ  作者: 波歌
30/83

日記 23

❀ ✧0.005-02

ᵕ̣̣̣̣̣̣ 日記 23


夏の夕暮れ、光はいつものように琥珀色に変わった。蝉がひと息だけ静まる時――まるで何かに耳を澄ませるかのように。私たちは縁側で夕食をとっていた。チョウは途中で眠ってしまい、柱にもたれて首を傾け、茶碗はそのまま残されていた。母は肩に布を掛け、起こそうとはしなかった。少なくとも、そのつもりはなかった…。

母の手に優しく触れられると、チョウは眉間に小さな皺を寄せて身じろぎした。だがまたすぐに静まり、温もりに頬を寄せる。その後、まぶたが揺れ、半分眠った目を開いた。母を見て、私を見て、庭を、深まる空を見た。彼女は何時間も前に眠り込んでいたのだ。

「ん…」小さな声。息が宵の空気にかすかに白んだ。夢と感謝が混じる視線を母に向け、「ありがとう、わたし――あぁ…」言い切る前に、宵の蛍がいくつか灯り始めた。

チョウはゆっくりと起き上がり、手の甲で頬をこすった。夜気の柔らかい冷たさに誘われるように、布をかけたまま縁側を降り、裸足で庭へ。両手で蛍をすくっては、止まる前に放してやる。

私は母の隣で動かず、足を畳んだまま木目の節を指でなぞっていた。焼き茄子の香りと、家の裏を流れる小川の澄んだ匂いがまだ漂っていた。

母は自分の湯飲みに茶を注ぎ、私にも注いだ。その所作はいつも水のように静かだった。渡された茶の温もりと同じ柔らかさで母は言った。「もうすぐ十四になるんじゃない?」

不思議に思うかもしれないが、ここで生まれなかった者は、余分な季節や長さに戸惑うことが多い。

「十三と三つの季節です。」誕生日は近くもあり、果てしなく遠いものにも思えた。

母は小さく笑った。「ならもうすぐ十四ね。」声にほのかな追憶の響き。

見上げると、母の視線は私ではなく夜空に向けられていた。淡い月がそこにあり、静かに、青緑の光を闇に湛えていた。縁に霞が柔らかく呼吸のように漂う。時折、その顔を横切る小さな光――流れる提灯のような、羽の重い蛾のようなものが現れては消える。

「こんなに多いのは、いつも?」私は囁くように尋ねた。

母はすぐには答えなかった。ただ見つめ、あるいは聴いていた。その眼差しは月と同じほど静かで遠い。光が一瞬形を作ったかと思えば、すぐに散り、さらに遠い岸へと去った。葉がひとつ吐息のように揺れ、頭上では藍色がさらに深まり、屋根よりも近く感じられた。夏の星がいくつか瞬き、恥ずかしげに、だが確かに。

母は湯飲みを置き、小さな音を立てた。「今日は蝉が早く静かになったわね。」ほとんど独り言のように、けれど微笑みながら。母は月が好きだった。何時間でも眺めていた。

「うん。嵐が来ると思った。昼前に雲が出てたから。」

母は頷く。「厚い雲だった。熱を低く押さえ込んでた。」

「気圧の変化が嫌いなんだよ。」

「ええ。嵐の前は強く鳴き、過ぎると弱くなる。」

庭の端で一匹が小さく鳴いた。母は首を傾げる。「あれはまだ迷ってる。」

「雨が来るか知ってるのかも。」

「朝になれば分かるわ。」母は湯飲みを包み、微笑んだ。風がそよぎ、薄荷と湿った土の匂いを運んできた。

私はただ聴いた。夏の暮らしの律動――夜明けに田の草取り、昼は木陰で網を繕い、蝉の刻にうたた寝し、夕餉には魚を梅醤油で焼く。私は潜って薬草を採り、家で料理を整え、眠るまで漢字を書く。蛙さえも今週は急かされていないように鳴く。だが静けさの下で、私の内には何かが転がっていた。色を鮮やかにし、沈黙を長く響かせる落ち着かぬ感覚。母はそれを察したのだろう。振り向かずに語った。

「私がその年になった頃、母はこの段に私を座らせ、言葉にしないことを教えてくれたの。家ごとに伝えるもの。心が聞く準備を整えた時にだけ。」

母は微笑み、許しを問う。私は軽く頭を下げた。

「私たちの血は、ここに目覚めて以来、ひとつの約束を抱えている。体がその時を悟るまで成長し、学び、やがてその閾に立つ――初めての花が開いた頃の年齢、あなたくらいか二十まで、稀に二十五を超えることはない。その境を越えると、老いは止まり――帆が頂に達して翻らず、力を受け始めるように。最初は休むだけ。でもそこから驚くことが始まる。」

夜の鼓動を待つように、母は言葉を置いた。庭ではチョウの笑い声が蛍と共に流れる。

「それを『加速の域』✤ 加速の域――と呼ぶの。」母は囁いた。「見えぬ楽師が譜面台を叩き、新しい拍子を告げるように、すべての細胞がその律動に従う。思考は速く、癒しは早く、師なくして根を理解する。洞察は氷を割る湧水のように流れ出す。」母はふと笑い、「あまりに心地よくて、悲しみの記憶さえ歪められない。ただ深く響く調和――骨の中の河の流れのよう。」

私は想像した。最初は退屈。泳ぎ疲れていたのだ。それでも母の声は心を引き寄せ、微かな記憶を呼び起こす。黄昏に裸足で水路の板に立った初めての感覚――恐怖と集中と歓喜が一本の光に織り合わさったとき。

母は私を見返し、笑みは灯籠に照らされ、どこか悪戯っぽかった。「始まれば、多くのことが可能になる。」親指が私の頬に優しく触れ――その一息の間に、街が流れ込んだ。

――自転車を押し、天文台の縁に立っていた。ヘルメットを外し、下を見やると、川が夏の街を滑らかに貫き、橋は糸のように光を繋いでいる。塔は赤い光を瞬き、道は提灯や信号のように脈動していた。遠くの湾は鏡のように光を抱き、低く降りる飛行機が滑ってくる。列車の窓が蛍のように走り抜け、全ては広大で、しかも懐かしい――忘れかけた夢の真ん中に立つようで。だが、どこか分からなかった。

母の手が離れると、幻はほどけた。私は瞬きをした。母はさらに悪戯めいて微笑む。私が言う前に口を開いた。

「昔、私たちは傷を受けた。囚われ、歪められるために。時間そのものが血の病となり、子は毒を免れず、生まれながらに朽ちる影を背負った。生きながらに崩れ、常に日々の奔流に遅れ、産声とともに死に始める。労しても癒えず、知恵すら最後には脆くなる。命もまた呻き、棘と塵と肉体の解けで霊までも崩された。そして終わっても、その傷は天をも刻んだ。」

庭の薄荷を渡る風が、その重さを和らげるように鋭く香った。母は息を吸い、肩の緊張を振り払い、再びあの温もりに戻った。

「けれど、それはもう私たちのものではない。」母は吐息とともに言った。「それをした者たちは 神は消滅を与え、名も血も、残るものなきまでに滅ぼし尽くした。✤」

「その移行の時期に――私たちがここへ来る前に。」

「あなたとチョウが受け継ぐ世界は、とても違うもの。時に味があるのよ。」母は湯飲みを置きながら言った。

「子どもには静かに始まる。色は鮮やかになり、味は舌に長く残り、記憶は容易く、思考は途切れずに流れる――途切れ途切れの下書きではなく、孕んだ詩のように。」

母の手が私の手に重なった。その触れ方はごく普通――夜気で冷えた肌が温もりに触れるだけ。けれど内側で、骨の髄に小さな歯車が揃って回りだす感覚が走った。息を呑む。蛍の光が緩やかに開き、蛙の合唱は音程ごとに分かれ、ほとんど名前がつけられるほど。沈黙にさえ質感があった。母は私の目の見開きを見ていた。「感じる? ほんの一瞬――夜明け前、流れる川に爪先を浸したようなもの。」

私は頷いた。少し目眩がした。心臓は鼓動ではなく、堂の銅鑼のように響いた。草むらのバッタが擦る音は手首の脈に重なった。庭ではチョウの腕輪の触れ合う音が聞こえる。世界は最初からこんなに鮮明だったのか。私が眠っていただけなのか。

「やがて消えるわ。」母の声がやさしく告げ、その通りに揺らぎは薄れた。ただ余韻は胸に残った。

「本格的な加速はもっと先。二十一の春を過ぎる頃かしら。それまでは日々を愛おしみ、好奇心と誠実さを携えて過ごすこと。そうすれば自然に流れ込む。逆に苦さに縋れば、進めなくなる。」

「もし――」声が震え、茶をすする。整えてから続けた。「もし誰かが手放せなかったら? その人も呑まれるの?」

母は一度口を結び、それから柔らかくほどいた。「いいえ。悲しみに縛られる者はただ…漂うの。情熱に触れず、おとなしいままに。少しは歳をとる。かつての人々のように深い皺は刻まれないけれど、年ごとに重さを増していく。やがて地平の向こうへ歩み、物語となる。でも何度でも、光さを取り戻す機会は与えられているのよ。」

「多くは深い野に漂い込む。大いなる根と見えぬ河の間で、霊となる――囚われではなく、眠る種のように。静かに。身振りだけの存在として。そこでは命と時の長い流れに触れ、新しい目で見渡す。幾人かは戻って来る。癒やされて。長い夢ののち天へ昇る者もいれば、小さな星のように燃えて静かに消え、また子として生まれ直す者も。今度は喜びを抱きやすく、かつての重さなく生きられる。」

希望が胸に灯った。チョウの蛍のように。きっと彼らも再び愛を学ぶのだ。渇きが疲弊の根ならば。

母は私の手を優しく握った。「今夜は扉を少し開けただけ。残りは自分で踏み出すの。もし朝に、鳥の声があなただけのために作曲されたように響いたら、私を探しにおいで。聞いてあげる。」

私は答えられなかった。でもそれでよかった。

チョウが庭の小道を上がってきた。顔は上機嫌に緩み、手にした蛍瓶は灯籠のように光を揺らしている。私の隣にどさりと座り、満面の笑み。母は褒め、瓶の蓋を開けた。蛍たちはゆるやかな金の軌跡を描き、やがて夜へ溶けていった。

その光が消えるのを見送りながら、胸の奥にも同じ煌めきが走った――ほとんど同じ明るさ、ほとんど同じ儚さで。田の向こうで寺の鐘が一つ鳴った。告げるのは時ではなく、天気。明朝の好し悪し。暑い日中、湿った夕暮れ。雨の気配はなし。

母は立ち上がり、香を数本手にした。やがて漂い始めたのは杉と、ほのかな花の香り。チョウは大きくあくびをし、私にもたれた。

その静けさの中で、私の中の落ち着かなさは形を変えていた。もはや私を朦朧とさせるものではなく、初めて張られた弦のように震えていた。母が語った約束を完全には理解していなかった。でも信じた。この世界――すでに美しいと思っていた故郷が、秘密を明かし、私はその水に足先を浸したのだ。

目を閉じる。瞼の裏に泳ぐ色――稲の緑、空の藍、蛍の金、チョウの笑いの桃、母の茶の琥珀。それらがひとつの人生の調べとなって寄り添い、囁くようだった。

目を開くと、星々は数えきれぬほどに増えていた。その光の群れの中に未来を感じた――果てしなくはなく、限りなく広がる未来。

そしてその時、杉の香を含んだ夜気の中、私は涙の出る平安を知った。その夜、私は泣いた。意味を超えた幸福に――理解するのに幾年もかかるほどの幸福に。


【とじ✿】♡


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