第7話 信頼を手に入れた夜
路地裏に飛び出した瞬間、晃は壁に手をついて息をついた。
肩に背負ったバッグの中には、あのフォルダーとSSDユニット。
背後では、どこかでサイレンのような音が遠く鳴り始めていた。
建物の裏手、資材置き場だった空き地に、一台の黒いバンが停まっていた。
エンジン音はすでに切られているが、荷台の扉は開け放たれ、車内には折りたたまれた通信機材や非常用の医療キット、簡易ポータブル電源、工具類が整然と積み込まれている。
「ログアウト、お疲れ~」
そのバンから――あのフード姿の男が、ひょいと顔を出した。薄暗い中でも、胸のアニメプリントは妙に鮮やかに映えていた。
「いや~マジで帰ってくると思ってなかった!主人公補正ってあるんだ、やっぱ」
男は拳を突き出してきた。
晃は無言のまま、それを軽く合わせる。
「それにしても……」
その時、背後から別の声がした。低く、落ち着いた声だった。
「……ちゃんと戻ってきたか」
振り返ると、路地の向こうに立っていたのは、厚手のジャケットに身を包んだ中年の男。足音すら立てずに現れたその姿は、まるで最初からそこにいたかのようだった。
晃の胸に、ふっと熱いものが差し込んだ。
「……見ててくれたんですね」
男は、手にした小さな無線機をしまいながら、目を逸らすように言った。
「ガキが無茶すんの、見過ごせるほど若くねえんでな」
「あ、渋ッ……」
フードの男がつぶやいた。
少し空気が緩む。
「じゃあ――戻りますか。姐さんのとこに」
晃がそう言うと、二人は無言で頷いた。
夕暮れが夜へと染まる中、三人の影がゆっくりと動き出した。
アジトへ。再び戦いの火が灯る、その始まりの地へと――。
***
夜の帳が下りた頃、三人は地下の会議室へと戻ってきた。
灰翼の中枢――かつて工場だった空間の奥にあるこの場所で、晃はバッグを開き、フォルダーとSSDをテーブルの上に置いた。
晃が持ち込んだ紙とSSDをテーブルに置くと、メンバーたちの視点が集まった。
作戦を担う男、薬の知識に長けた女、そして情報の亡霊のような存在――NT-404。
それぞれが、目を丸くする。
「民政革新党が裏でカナンと繋がってるのは想定内だったけど……」
沙織が呆れたように言いかけ、言葉を失う。
「──まさか、一国のトップそのものが『カナン人』だったなんて……」
「まじかよ、それ……国そのものが乗っ取られてるじゃん」
シゲルは一瞬、目を伏せ、肩で笑った。
阿久津が、低く唸るように続けた。
「……民政革新党は日昇国の政権与党。 表向きは『国民の代表』を名乗ってるが、実態はカナンの完全な操り人形だ。 政策も人事もメディア操作も、全部『あちら側』が握ってる。 でも、その中心に『支配国の人間』がいたと明記された協定が出てきたなら──話は別だ」
数秒の沈黙ののち、シゲルがふっと顔を上げ、晃に視線を向ける。
「──ビギナーズラックかもだけど……やるねぇ」
片眉を上げながら、軽口の奥に本気の評価が滲んでいた。
「それで…沙耶を助けるのを手伝ってくれるのか?」
晃の言葉に、戦術担当の男が少し顔をほころばせ、ごつごつした手を差し出す。
「俺は阿久津 剛。元自衛官だ」
「野田シゲル。解析と情報収集は俺のジョブ。スキルLvはそこそこ高いと自負してるよ。通信傍受、ドローンのログ取得、地下ネットの情報整理。あとは『ShadowNet』に上がるスレッドの火種チェックとか、まぁ色々」
シゲルは軽い調子で握手を交わす。
「私は戸川 沙織」
沙織が優しく微笑みながら言った。
「医療支援を担当している。君が必要とする薬や治療があれば、すぐにでも力になる」
「ありがとう」
沙耶が連れ去れてから初めて、暗闇に明るい光が見えた気がした。
「さて、救出計画を立てたいのはわかるが…その前にあんたの土産について話したい」
阿久津の言葉に、沙織とシゲルが頷く。
晃も、焦る気持ちを抑えて頷いた。
「そうね、この協定の内容、『蒼風』に確認してもらいましょうか?」
「蒼風?」
「我々の外部支援者で、政治活動家。政治に関する情報に詳しいの」
「それはいいかもしれないな」
「おふたりがOKなら、こっちから『蒼風さん』にコンタクト取っとくよ。政治系はあの人のフィールドだしね。それと、SSDの中身は俺が全力で掘る。『解析モードLv.99』で挑むんで、お楽しみに」
まるで実況配信でもしているかのような軽口だが、その目はすでに情報の海に潜るダイバーのように真剣だった。仲間に見せるのは冗談混じりの仮面だが、その裏にある集中力と執念を、晃は少しだけ感じ取った。
阿久津が静かに口を開いた。
「……一つ言いたい。扉の奥に入るなとは言わなかったが、あの状況で引かなかったのは……判断としては、危うい」
「……でも、だからこそ手に入ったんです。これは――」
「うまくいったから結果オーライ、じゃ命は守れない。次は死ぬぞ」
晃が言葉に詰まったその瞬間、沙織が椅子を引く音とともに、阿久津をまっすぐ見つめた。
「それでも、彼は戻ってきた。誰かが踏み込まなきゃ、何も動かなかった」
「だからって、命を張って正義を通せってか?」
「『正しさ』じゃなくて、『希望』よ」
沙織の声には、普段にはない熱がこもっていた。
「晃くんが無茶をしたのは、正義のためじゃない。妹を、助けたかっただけよ」
「……俺たちは戦争ごっこをしてるんじゃない。現実には、失敗すれば終わりだ」
「わかってる。だけど、だからって、手を出さなければ『失敗しない』なんて思いたくない」
「おーいおーい、PvP禁止ってルールなかったっけ?」
シゲルが両手をクロスさせて、アニメポーズで割って入る。
「仲間が増えたばっかりで初手ケンカって、バッドイベントのフラグだよ?ここはひとまずセーブポイント的に落ち着こうぜ」
笑いながらも、その声には場の緊張を緩める不思議な説得力があった。
「意見の分岐はRPGじゃ日常茶飯事。分岐後のベストルート、ちゃんと探してこうぜ」
緊張感を茶化すようなその声に、場がすこしだけ緩んだ。
晃は静かに頷いた。
「……俺、次はちゃんと相談します」
阿久津は無言でうなずき、沙織はその手をそっと背中に添えた。
「そうだな、今さら言っても仕方がない。いよいよ、救出計画に移ろうか」
阿久津の言葉に、部屋の空気が締まった気がした。
晃がふと、疑問を口にした。
「……そういえば『転送』って、具体的にどうなるんですか?」
会議室の空気がわずかに張り詰める。
沙織は口をつぐみ、一度だけ目を閉じた。
「……受け入れ先とされるのは、主に南市中央医療センター。私の元職場」
言いにくそうに、しかし目は逸らさず、沙織は言葉を続けた。
「このセンターの実態は――臓器移植用のスクリーニング施設。『優良個体』は生かされたまま、順番待ちのリストに入れられる。残りは……何らかの研究か、廃棄」
わずかに言葉を切って、沙織は小さく息を吸った。
「……だから、我々の間では、ここを『白の裂界』て呼んでるわ」
晃の表情が固まった。
「……じゃあ、沙耶も」
沙織が、苦しそうな顔で頷く。
「…あと48時間か」
晃はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がり、言葉を絞り出す。
「……必ず、助け出します」
頭の奥に浮かんだのは、まだ幼かった頃の沙耶の泣き顔だった。
あの日から、守れなかったまま止まっていた時間が、ようやく動き出す――。
晃の言葉に、3人が大きく頷いた。