第5話 試金石ミッション
灯りのほとんどない路地裏に、風と、古びた看板が軋む金属音だけが流れている。
晃は灰翼から渡された地図と、手のひらに刻まれるような緊張感を胸に、第四補助施設を目指していた。
今回の任務は、『この施設が今も使われているか』の確認だった。
晃がかつて再開発計画に関わった廃施設。正式名称は「南市第四補助行政管理棟」。
災害時の代替庁舎として設計され、行政データのバックアップや緊急通信拠点として機能するはずだった。廃棄されたとされるこの施設は、しかし最近、その周辺で『稼働中の信号』が複数回検出されていた。
「まあ、単なるデータの残骸なら、それはそれでノイズ処理ってことで完了」
「けどさ――もし今も『誰か』があの空間を使ってるなら、それってつまり、システムがまだ稼働中ってこと。ログが動いてる限り、『この街が支配されてる』って証明になるんだよね」
通信班のNT-404は、そう告げた。
晃はその言葉を反芻しながら歩いていた。
街灯のない旧市街を進みながら、記憶の奥から浮かび上がる光景があった。
四年前。まだ都市開発ベンチャーで右も左も分からなかった頃、晃は「南市再開発プロジェクト」の一環として、行政と民間企業の調整役を任されていた。
とくにこの第四補助施設の設計では、災害対策部門と警備システム業者の間を繋ぎ、配線図や動線設計の修正案を何度も提出した。
だが、その過程でたびたび遭遇した『奇妙な口頭依頼』や『未記録の構造変更』。
裏配線のやり取り、帳尻合わせの図面修正……あの頃の『違和感』が、今になって輪郭を持ちはじめていた。
(あれは、計画の一部だったんだな)
南市の再開発。
そういえば、当時の資料の片隅に、『モデル統制都市』という単語が書かれていた気がする。
表向きは「災害に強い街づくり」「スマートシティ構想」。だが──
どこまで人間の行動を管理・誘導できるかを測る『装置』だった可能性がある。通信網、電力網、避難導線。すべてが『管理する側』に都合よく最適化されていた。記録に残らない構造も、『見せないこと』を前提に設計されていたとしたら──
(……俺は、その一部に加担していたのか?)
施設の外観が見えたとき、晃はふと足を止めた。
(あの頃、再開発の現場でこっそり使われていた経路がある――搬入口、通用階段、そして配電盤裏の隠し通路)
晃は北側へと回り込んだ。裏口の搬入口は錆びていたが、鍵はかかっていなかった。
思ったよりも、あっさりと扉が動く。
(……軽すぎる。こんな簡単に開くなんて)
背筋に冷たいものが走った。
だが、これは「建材搬入用の仮設入口」として設計され、完成後には塞がれるはずだった経路。それが今も残っているということは──
(誰かが『残した』か、『気づかれずに捨てられた』か)
どちらにしても、今の晃にはこのルートしか選べなかった。
晃は緊張したまま、ゆっくりと足を踏み入れた。
『マジでひとりで潜入ルート選ぶとは……やるじゃん初期主人公。RPGならこのあと唐突に仲間増えるパターンなやつ』
軽い口調のNT-404の声が、イヤホン越しに届いた。
この通話は、数百メートルほど離れた通信拠点からの送信だ。
晃が施設から出るまで、彼はずっとモニターの前に張りついているらしい。
(……何言ってるのか、半分は意味わかんないけど)
不思議と、その声があるだけで、少しだけ心が落ち着いた。
(……いいやつなのかもな、あいつ)
裏口の先は物置のような空間だった。
埃をかぶったラック、外れかけた電灯。廃棄された施設の『顔』としては申し分ない。
階段を降り、かつて設計した「配電盤裏の隠し通路」を進む。
非常扉を抜けた瞬間、空気が変わった。
……そして、空間の端に、奇妙な『整頓』があるのに気づいた。
他の場所は埃に覆われているのに、その一角だけが、まるで最近まで誰かが使っていたかのように整っている。
資材ラックの下の床には、靴跡のような擦れ。
古びた棚には、やけに新しい段ボール箱が一つだけ置かれていた。
(……ここ、まだ『気配』が残ってる)
晃の目が、壁の一点に留まる。
避難経路として扉が設けられていたはずの場所が、白い壁に『塗り潰されて』いた。
図面では、確かにそこに直線が走っていた。
だが今は何もない。扉も、表示も、痕跡すら──
(わざと消された。記録に残すことを避けたんだ)
この施設――まだ、使われている。
『進捗どうっすかー?そろそろ怖くなってきた頃じゃね?』
NT-404の声が、イヤホンの奥から届く。
晃は静かに口を開いた。
「いや……たぶん、まだ使われてる。整頓されたスペース、新しい段ボール。
他の場所は埃だらけなのに、そこだけ動きがあった。明らかに『使われてる』空気がある」
『へえ……マジか。それ、ただの放置物って線は?』
「違う。動線が変なんだ。裏口から配電盤、非常扉を経由して――『見つからないように』通ってる。しかも、一方通行じゃない。何度か、出入りしてる形跡がある。
設計段階で作られた『記録に残らない構造』と、現場の状態が一致してる」
短い沈黙のあと、NT-404がぽつりと漏らす。
『……意外とやるじゃん。チュートリアルとしては満点だよ。
もう帰ってきな。今のデータだけでも『使われてる』って言える』
晃は一度、息を吐いた。
それだけで、張りつめていた肩の力が少しだけ抜けた。
けれど。
「……まだ、あるかもしれない」
『え?何が?』
「もし今も使われているなら、記録データの保管場所もそのまま残ってる可能性がある」
『マジか……ってことはつまり、やつらのやり口の証拠が見つかるかもってこと?』
NT-404の声が、一瞬だけ低くなった。
「ああ。沙耶を取り戻すには……やれることをやる」
『……チャンネルは開いたままにしとくよ』
通信が静かになった。
足音だけが、旧市街の地下に溶けていく。
晃は足を止めたまま、息をついた。
暗がりに沈んだその場所で、ほんの数秒、目を閉じる。
(……本当に俺にできるのか?)
(もし失敗して捕まったら、沙耶を、あの子を……もう一度助ける機会すら失うかもしれない)
心臓が鳴る。震えているのは、手じゃない。心の奥底だった。
(……俺は、誰かを救う力なんて、本当は持ってないかもしれない)
その思考の淵に、一つの言葉がよみがえる。
「『誰もが完璧じゃない。でも、誰かが立たなきゃいけない』って、それだけの話よ」
―――レジスタンスには不似合いな優しい微笑を持つ女性の言葉だ。
晃は静かに目を開け、深く息を吸った。
(立たなきゃいけないときがある。今が、それだ)
晃は再び歩き出した。
その瞬間、ポケットのスマホが震えた。
心臓を、冷たい手でぎゅっと掴まれたような気がした。
着信表示には、見慣れた名前。
「……黒江?」
晃の脳裏に、あの薄笑いと冷たい目が浮かぶ。
『仕事を奪った男』――それ以上に、『すでにこちらの動きを知っているかもしれない相手』。
(まさか――なんで、今……)
画面を睨んだまま、晃の指は動かなかった。