第4話 灰翼の影たち
旧港エリアは、夕暮れになると人影がまばらになる。
海風と錆びたシャッターの音だけが響き、かつての物流拠点だった賑わいは、今や軍の倉庫と化していた。
奏が渡してくれた手書きの地図には、「No.4倉庫 南側搬入口から入れ」とだけ書かれている。
さらに、その裏面には、幹線道路や巡回監視ルートを避けたルートが細かく示されていた。
かつて港湾労働者が使っていた裏道や、現在は物流用にしか使われていない歩道橋など、
誰がどこで見ているのかを逆算した『抜け道』だ。
「このルート通ったなら、監視記録にはまず残らない」
奏の言葉がよみがえる。
まるで、来ることを最初から決められていたかのようだった。
晃は迷いながらも、その倉庫の前に立っていた。
鉄扉はわずかに開いていて、奥から薄い明かりが漏れている。
「……ここでいいのか?」
不安と緊張の入り混じったまま、ゆっくりと扉を押した。
軋む音とともに、中の光が広がる。
「動かないで。――名前」
不意に、鋭い声。
胸に赤いレーザーの点が浮かぶ。心臓が跳ねた。
「おい、やめとけ。あれは本物の緊張で来てる目だ。撃つな」
別の声がして、足音が響く。鉄骨の陰から長身の男が姿を現す。
「……あんたが『晃』か?」
頷くと、レーザーがふっと消えた。
その瞬間、晃は自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
「ようこそ――って言っても、歓迎ムードはねえけどな」
男は色褪せたTシャツに、汚れたジャケットを無造作に羽織っていた。
腕には火傷の痕、指には油の染み。現場の匂いが抜けない手だ。
無精髭に刻まれた皺と、研ぎ澄まされた目つき――明らかに、ただの市民ではない。
「処理班だった。爆破系。お前の立ち位置は、まだ半分ってとこだな」
「……処理班……?」
(なんだ、この空気は……)
さらに奥から、まるで空気を変えるような軽い声が響いた。
「初期イベントで『威圧』選ぶの、フラグ立てるには早すぎってば。せめてチュートリアル終わってからにしよ?」
フードをかぶった男が現れる。
着古された衣服の胸元には、可憐なアニメキャラのフルカラーイラストが大胆にプリントされている。その鮮やかさが、場違いなほど目を引いた。
「通信班所属、コードネーム『NT-404』。情報収集、解析、偽情報のばら撒き、あとビラ制作は……まあ、広報担当スキルLv.12ってとこかな」
「……ああ、うん……」
言葉が追いつかない。
一歩踏み出した女性は、白いワイシャツにジーンズという、場の空気とは不釣り合いなほど清潔な出で立ちだった。
裾は少しだけ乱れているのに、どこか「整っている」印象を残す。
長く柔らかい髪が肩に流れ、その奥の瞳は、何かを確かめるように晃を見つめていた。
――どこかで、この目を見たことがある。確かに。
「久しぶり。……南市中央医療センターで、会ったことがあると思う」
晃は、はっとした。
***
母が倒れて亡くなったのは、晃が18歳の冬だった。
過労による突然の死だった。まだ10歳の沙耶は、情緒不安定になり、ほとんどしゃべらなくなった。大学進学を目前に控え、混乱する中で、晃は沙耶を連れて南市中央医療センターに通った。ある日、診察を待つ待合室で、不安そうにうつむく沙耶の前に、一人の若い女性がしゃがみ込んだ。
「こんにちは」
白衣の上から名札をぶら下げたその人は、薬学部の実習生だった。まだ学生ながら、患者ひとりひとりに目線を合わせ、言葉を選んでいた。
「ここでは、誰も置いてかないから。大丈夫、あなたの声もちゃんと届くよ」
小さい沙耶にも目線を合わせ、優しく話しかける姿に、晃は思わず目を見張った。
あの日の沙耶が、初めて自分の言葉で「喉が痛い」と口にしたのを覚えている。
帰り際、その学生は晃にそっと言った。
「妹さんのこと、本当に大切にしてるんですね。……あの子、あなたのこと『絶対助けに来てくれるヒーロー』だって言ってましたよ」
***
晃の視線が、倉庫の中で落ち着いた声の主へと戻る。
「……あの時、沙耶がしゃべらなくなって……俺が、連れて行ったときの……」
「ここに来てくれてよかった。今、あなたが本気で動こうとしているなら――その意志は、たしかに必要」
倉庫の中央には、ホワイトボードに書かれた作戦図。
紙の地図、タブレット端末、無線機、そしてわずかな灯り。
晃は立ち尽くしたまま、それらを見渡した。
「……俺に、何ができるんですか?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
作業着の男が手を止めた。
「今すぐ何かやれって話じゃねえ。ただな、ここに来たってことは――黙って見てる側じゃもういられねぇってことだ」
通信班の男がフォローするように笑った。
「安心して。いきなり爆弾持って突っ込めとか言わないから。たぶんね。いやまあ、最終的には派手に『ドカン』ってなるかもだけど、それは演出ってことで」
「……それ、フォローになってない」
かつて医療センターで会った女性が苦笑する。
晃の口から、ほんの少しだけ笑いが漏れた。
完璧に馴染めたわけじゃない。
まだ疑いも、不安もある。
でも、今この空気の中にいることは、確かだった。
その時だった。
処理班の男が、ふと目を細めて言った。
「――行政系の案件、やってたんだろ?」
「……え?」
「南市の再開発、民政革新党が絡んだプロジェクトの下請けに、あんたの名前があった。都市開発ベンチャー……営業担当だったか」
晃は息を呑む。
「俺たちには見えない『構造』を、あんたは見てきた。建物の隙間、隠し扉、通路の裏――そういう『抜け道』を知ってんだろ?」
「……だから俺を?」
通信班のNT-404が頷いた。
「ただの『お兄ちゃん属性MAX』なら、ここまで引っ張ったりしないってば」
晃は少し眉をひそめた。
「……調べたのか、俺のこと」
「当然でしょ?」
NT-404はさらっと言い放つ。
「君が来るってログが入った瞬間、アクセス履歴からSNSの下書き、クラウドのゴミ箱までプロファイリング済み。まあ……何というか、来るべくして来たって感じ。脚本的にも、ここで主人公覚醒ルート入らなきゃ物語止まるからね」
「物語……」
呆れとも苦笑ともつかない息を漏らす晃に、NT-404は肩をすくめた。
「こっちも命かかってるから、判断はシビアにしてるつもり。でも、君はたぶん『フラグ立ってる側』だと思うよ」
「フラグ…?」
晃が困惑を口にすると、NT-404がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、沙耶さんの『転送』――タイムリミット、4日後だったよね?」
NT-404が淡々と口にした。だが、その声の奥には、明らかに別の意味が含まれていた。
晃は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸って顔を上げた。
「……それまでに何とかしたい。何か手があるなら――」
「あるにはある。でも、ただじゃ動けない。こっちも命張ってんでね」
処理班の男の静かな言葉が、室内の空気をぴんと張り詰めさせた。
『知っている』者の言い回しだった。ただの提案でも忠告でもない。
これは、交渉の始まりだ。
処理班の男が低く唸るように言った。
「お前の事情は聞いた。でも俺たちは情じゃ動かねぇ。……動機は認める、が、それだけじゃ仲間にはなれない」
NT-404が続ける。
「だからね、今のあんたは『観察対象A-01』。このイベントをクリアできたら、初めて交渉ルートが開放されるってわけ。いわば『試金石イベント』、メインクエ突入前のフラグ立て。わかるでしょ、晃くん?」
晃は一瞬だけ唇を噛み、深く頷いた。
「……わかりました」
そのやりとりの後、処理班の男がにやりと笑った。
「ひとつ、やってもらう」
「……何を?」
「旧市街の第四補助施設。――あんたが4年前、開発計画に関わった場所だ、知ってるだろ?」
「……はい」
「表向きは『コスト超過で運用停止』ってことになってる。でもな、あそこ、まだ動いてるかもしれない。しかも統制の中枢に関わってる可能性がある」
「俺が、そこを?」
「そう。裏口も、配電盤も、監視の死角も……お前しか知らないルートがある。これはお前にしかできない仕事だ」
「……それをやったら?」
「その時は、正式に『同志』ってことだ」
晃はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと頷いた。
「やります」
誰も拍手はしなかった。
ただ、処理班の男が小さく呟いた。
「最初に動いたやつのことなんて、誰も覚えちゃくれねぇ。
……でも、その一歩がなきゃ何も始まらない」
静かに、試金石の夜が始まった。