第38話 臨界値
姫野は目を閉じ、深く息を吐くと、再び端末に向かって指を動かし始めた。
徹夜で集めたデータ、連絡先、予備の手段。
報道関係者、旧知の官僚、SNS上の協力者たちへ、彼女は矢継ぎ早に情報と指示を送信していく。
内容は精査され、すでに訴求効果まで計算済み。
危険も大きいが、それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。
――選挙に勝ちさえすれば。
同時に、姫野はある小規模なテレビ局の特集枠を買い取った。
出口調査直前、選挙の空気が最も不安定なその瞬間を狙って放送される、15分だけの真実。
その数時間後。
蓮見の端末が振動し、速報が映し出される。
「民政革新党優勢:62.4%」の表示。
蓮見はその数字を見つめたまま、小さく息をついた。
「……やはり、まだ足りないか」
静かな口調に、焦りはなかったが、確かな危機感がにじんでいる。
出雲が一歩前に出る。
「――以前に頼まれていたものだ。選挙不正の決定的な証拠が、ここにある」
そう言って、出雲は蓮見にSSDを差し出した。
蓮見の顔が明るくなる。
「今出せば、ひっくり返る可能性はある」
出雲が短く頷く。
「そうだな。ただし、話すのは君だ。君でなければ意味がない」
「……なぜ、僕が」
「君はこの運動の中で、ただの一度も扇動に手を染めなかった。常に数値と論理で語り、私情を持ち込まなかった。だからこそ、君が語るなら『信頼できるデータが語った』と受け取られる」
出雲は、無言のまま端末を見つめた。
そのとき、蓮見の端末が震えた。
表示された着信名は『山﨑晃』。
蓮見が少し驚いた顔をして応答すると、電話口からは予想外に若い女性の声が聞こえた。
『……蓮見さん、私、妹の沙耶です。……処分命令を止めてくれて、皆を救ってくれて……ありがとうございます』
蓮見は驚いたように目を細める。
「君こそ……命を懸けたのを、俺は見ていた。……それで今日は」
『……はい。私、何か……選挙で手伝えることがないかと思って』
蓮見は静かに頷いた。
「……ありがとう。君がそう言ってくれるのは、心強い」
一度だけ息を整えて、話題を切り替える。
「ところで、晃君は?」
電話の向こうで、かすかに息を呑む音がした。
それは、抑えようとした動揺の漏れだった。
「突入で……撃たれて…かなりひどくて……出血も多くて、意識も混濁してるんです」
その場にいた出雲の肩が揺れた。
まるで見えない衝撃が、真正面から胸を打ち抜いたかのように。
「でも、それでも、『投票率が』って……そればかり、何度も、何度も……」
語っているうちに、沙耶の声がかすれ、途切れがちになった。
電話越しにも、息を押し殺すような嗚咽が伝わってくる。
言葉の最後は、かすかに震える呼吸音に変わっていた。
しばし沈黙が続いたのち、沙耶のほうからそっと通話が切れた。
通話の切断音の余韻が消える中、蓮見は静かに出雲を見た。
その表情を確かめるように、ゆっくりと問いかけた。
「君は、ずっと見ているのか。それとも──踏み出すのか?」
出雲の目が、ゆっくりと蓮見の方へと向けられた。
それは、心の奥底で何かが決壊し、理性と感情がぶつかりあった痕跡だった。
その表情に、もはや迷いはなかった。




