第30話 火種と代償
──指定された公民館の裏手には、黒い車が一台だけ停まっていた。
車から降りたのは、薄手のスーツに身を包んだ出雲だった。
出雲は腕時計をちらりと見てから、ため息まじりに言った。
「……あまり時間がない。10分が限界だ」
「出雲、悪かった」
「全くだ。君の要望で、蓮見の行程を調整して南市に来ざるを得なかった。
この一分一秒が惜しい時に」
「必要だから頼んだ」
「……君は、段々と厚かましくなってきたな。
昔は『一人でなんとかする』ばかりだったくせに」
眉をひそめながら、それでも出雲の表情に怒りは感じられなかった。
「……そうだな。だから、うまくいかなかったと思う」
晃はわずかに目を伏せて、息をついた。
その声には、後悔ではなく、確かな手応えがあった。
出雲は目を細めると、わずかに口元を緩めた。
だが、それ以上は何も言わなかった。
他にやることがあると言って、出雲は携帯端末を手にしながら背を向け、忙しげに立ち去っていった。
──車の中には、ひとりの男が静かに腰かけていた。
白いシャツの袖をまくり、革製の書類鞄を脇に置いた蓮見瑛士。
選挙戦の合間、ほんの数分の隙間に割かれた時間。
それでも、その視線には確かな重みが宿っていた。
「来てくれたんですね」
晃の声に、蓮見は小さく笑った。
「出雲から聞いた。君が『どうしても直接話したい』と」
「はい。YAK-001──あの『処分命令』についてです」
蓮見は軽く頷いた。その表情に驚きはなかった。
「やはり、君がそれに触れると思っていた」
「止めてほしいんです。あれが実行されれば、
三千人以上の命が奪われることになる」
蓮見は一瞬だけ視線を落とした。だが、次の瞬間には、静かに晃を見返していた。
「私一人では止められない。あれを発令したのは、行政のもっと奥──選挙では動かない領域にいる者たちだ」
「……でも、あなたなら何かできると思った」
蓮見の目が細くなる。
「何かをするには、『代償』が要る。止めるには、それなりの火種が必要だ。君はそれを持っているのか?」
晃はしばし黙し、やがて静かにうなずいた。
「SSDがあります。カナンの関係者と医療センターの内部通信。医療データや名簿」
「それだけでは足りない。
──医療センターの実態も、カナンの関与も、確かに不穏ではある。
だが、それだけでは『命令を止めるに足る必然性』とは見なされない。
あくまで『異論』に過ぎない」
蓮見の声は、どこまでも冷静だった。
「そんなに…簡単に諦めていいんですか!?
多くの人の命がかかっている時に。
なんでもいい、方法を考えないと」
晃の気迫に押されたように無言でいた蓮見が、目を閉じ、やがて開いた。
「内側からは難しい。
──だが、日本の政治は、外からの『正義』には極端に弱い。
人権団体、国際監視機関、メディア……。
彼らが反応すれば、処分命令は凍結されるかもしれない」
「では」
「だが、そのためには『無視できない証拠』が必要だ。
君たちの持つSSDも悪くはない。だが……」
彼はそこで一息置き、晃の瞳をまっすぐに見つめた。
「──決定的な証拠が欲しい。
目を背けられない、誰もが見てしまうような。
たとえば──難民の少年の遺体が海に打ち上げられたとき、
世界は一瞬でその現実を直視せざるを得なくなった。
戦争で泣き叫ぶ少女、焼けただれた病院、そういう映像が人の良心を揺らす。
そして、その波が政治を動かす」
晃は息を呑み、そして言葉を紡いだ。
「……それなら、生の中継とかどうです。
あの南市中央医療センター…『白の裂界』で、
今まさに何が行われているかを、世界に見せるとか」
蓮見の眉がわずかに動いた。
「君は……本気で言っているのか?」
晃はわずかに視線を伏せた。
自分が何を言ったのか──今ようやく、その重みに気づく。
「……正気じゃないかもしれません。
でも、誰かがやらなきゃいけないと思ったんです」
蓮見はしばらく無言で、晃の顔を見つめていた。
やがて、口の端をほんのわずかに持ち上げる。
「……その覚悟があるなら、私も応えよう」
静かだが、確かな約束だった。
***
南市から東都に向かう車内は、淡い夕暮れの光に包まれていた。
蓮見は少し黙ったまま、窓の外の景色に目をやる。そしてぽつりと呟いた。
「彼を見ていると、昔の自分を思い出す」
微笑を浮かべながらも、その目はどこか遠くを見ていた。
「理想を掲げて、ただ真っ直ぐに突き進んでいた頃の自分をね」
「それを……捨てたんですか」
出雲の問いに、蓮見は首を横に振る。
「捨てたんじゃない。『形を変えて、守った』だけだ」
車の中を、信号機の色がゆっくりと流れていった。
***
──その頃、南市のとある庁舎跡地の地下室。
蛍光灯のちらつく狭い空間に、二人の男がいた。
ひとりは黒江。南市中央医療センターの実務責任者で、かつては晃の直属の上司だった男。無表情の奥に、冷ややかな計算を隠し持つ。
もうひとりは椎名。表向きは灰翼の一員として行動していたが、今は密かに敵へ情報を流す裏切り者である。
「で?『あれ』は処理されたはずだよね」
黒江が組んだ腕のまま、投げるように言った。言葉には余裕があるが、その眼差しは一貫して冷めていた。
「はい。命令は完了しています。ただ……SNS上では拡散が止まっていません。
スクリーンショットが回っています」
「まあ、当然だな。あの女は、死んでも言葉を撒く。そういうタチだ」
椎名は黙ってうつむいていた。唇の内側を噛む癖が出ていることに、本人だけが気づいていない。
「……君の報告には、正直がっかりしてる」
「申し訳ありません」
黒江はふっとため息をついた。
「小野寺奏──いや、『朱霞』が残したもの。それを止めるには、まだ足りていない」
それは報告というより独白に近く、椎名は思わず顔を上げた。
「灰翼の連中も動き始めた。そろそろ潮時だな。次の『整理』に入ろう」
しばし沈黙。椎名の指が微かに震える。
「……『整理』とは、誰を、ですか」
黒江は初めて、真正面から椎名を見た。その目は、観察者というより外科医のように冷たかった。
「君が報告していない範囲に、答えはあるんじゃないか?」
椎名は何も言えなかった。
ただ、小さくうなずくその目の奥に、言いようのない揺らぎがあった。
黒江はその様子を見て、わずかに目を細める。
「……正直、期待外れだったよ。だが──まだチャンスはやる」
「……え?」
「灰翼に潜れ。あいつらが何をしようとしているのか、探れ。
正直、今の俺にも全貌が見えていない」
黒江はわずかに声を潜め、低く続けた。
「いいか、奴らは何かを仕掛けようとしている。
だが、詳細がつかめない。突入なのか、暴露なのか、ただの陽動なのか
──それを見極めろ。
そして、かき回せ。動揺させ、判断を狂わせるんだ」
椎名は眉をひそめた。
「……疑われています。あいつら、気づいてるかもしれない」
「知ってるさ。だが、それでも『信じたい奴』はいる。そこにつけ込め」
黒江の声には、乾いた笑みが混じっていた。
「──任せたぞ、椎名」
その言葉が、地下室の空気に静かに沈んでいった。
──そしてその数時間後──
灰翼の作戦本部に、一つの報告が届いた。
『拠点周辺で、監視網に引っかかった微弱な信号を検知』
『一部通信が傍受された可能性あり。
暗号化はされていたが、位置情報の一部が解析された』
報告は簡潔だった。
だが、問題はその『漏れた位置情報』が、記録にも通信ログにも残っていない──
作戦本部のごく一部のメンバーだけに、口頭で共有されていた情報と一致していたことだった。
本来なら、その情報を知っているのは、灰翼の中枢だけだ。
偶然や盗聴では説明できない。
内部に裏切り者がいる──それ以外、考えられなかった。
疑念が、じわりと組織を浸食し始めた。




