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第3話 『灰翼』へようこそ

『カフェ・アーカイブ』


――奏が開いた店の名前だ。


南市の北端、古いレンガ造りの地下にあるその店は、まるで時代に置き去りにされた図書館のようだった。

本棚とレコードが並ぶその空間に、彼女がいると聞いた。

だからこそ、ここを選んだ。

数年前、この近くには、よく通っていた喫茶店があった。政治サークル時代の仲間と、くだらない理想を語っていた場所だ。 もう店も変わってるかもしれない。そう思いながらも、扉を押した。


「……いらっしゃい」


カウンターの奥から出てきた女性は、年季の入ったエプロンをつけていた。 肩までの髪はふんわりと落ち着いていて、細縁の眼鏡の奥に、昔と変わらない知性が揺れていた。


「小野寺……奏?」

彼女は静かに頷いた。


「まあ……珍しい顔。何年ぶりかしら?」

「十年……くらいですかね」

「そんなに経った? でも、目は変わってないわね」

そう言って、彼女は小さく笑った。

俺は一歩中へ入りながら、ふと店内の天井隅に設置されたカメラに視線をやった。

年代物のカメラだが、赤いランプが点滅している。

録画中、か。

「監視カメラ……動いてますね」

「ダミーよ。中身は空っぽ。『監視しているフリ』をしないとね」

悪戯っぽく微笑む。

その表情に、昔の教室を思い出した。

俺が学級新聞で『民政革新党の偏向報道』を書いたときも、真っ先に「面白いじゃない」と笑ってくれた人だ。


「今日は……どうしたの?」

「妹が……連れていかれて、仕事も……クビになって」

そこまで言いかけて、口をつぐんだ。

言葉にするには、あまりに全部が急すぎた。


「……なんて言うか、全部が音を立てて崩れていく気がして」

奏は頷いた。

その瞳は、何も詮索しないやさしさと、何かを試すような静けさを併せ持っていた。


「ただ、昔のことを思い出して。気づいたら足が向いてました」


奏は頷くと、俺をカウンター席に促し、ゆっくりとコーヒーを淹れ始めた。

カップを置き、ふと口元に笑みを浮かべる。


「そう…ちょうどよかった。今日は良い豆が入ってるわ」

俺がカウンターに腰を下ろすと、奏はコーヒーを差し出した。

一口含むと、焦げた豆の香りが鼻を抜けた。


「昔より苦いな」

「そっちが大人になったのかもよ」

笑った彼女の頬には、目立たないけれど深い皺が刻まれていた。

けれど、その表情はどこか、隠しているものがあるように見えた。


「それで、あなたはどうしたいの?」

「俺は…」

「もう正義はまっぴらって…あなたは昔言ってたわね」

「そう…思いました。あの時は、俺のせいでサークルも潰れて…だけど…」


―――だけど、誰よりも大切な沙耶は黙ってみていられることなのか?


「何かしたい。だけど、俺に何ができるのわからない…」


古ぼけたテーブルの上の手をきつく握る。

顔をあげなくても、奏の視線が注がれているのを感じた。


「それでも、あなたはもう一度動こうとしてる」


問いかけに、迷いながら無言で頷く。

できることならなんでもしたい。

ただ、それが沙耶を追いつめることになるのが怖かった。

昔のように。


会話が途切れて短い沈黙が落ちる。

そのとき、奏は一枚のコースターをそっと滑らせた。

灰色の両翼が印刷されたそれを、意味ありげに指先でトンと示す。


「……え?これは……」


何かと問いかけようとしたその瞬間、晃の脳裏にふと、数日前に親友と交わした会話がよみがえった。


——あのとき、仁科佑真は、いつもの缶コーヒーを片手に、何気ない口調で言ったのだった。

「最近、【灰翼】とかいうレジスタンスの噂、聞いたことある?」

唐突な話題に、晃は思わず聞き返していた。

「……はいよく?」

「ああ、灰色の『灰』に翼って書いて灰翼。夜の公園でビラ配ってるとか、旧校舎に隠れ家があるとか。まあ……都市伝説だよ。中二病の延長ってやつ」

「くだらねぇ」

「だよな」

缶を開ける音が、小さく響いた。

二人でコーヒーを口に運んだが、佑真の目だけは、どこか俺を試すような色をしていた。

「それ、誰から聞いたんだよ」

「知り合いだよ。昔、学校の先生やってた人。『まだこの街には希望があるかもしれない』って、そんなこと言ってたよ。笑っちゃうけどな」

「なんか証拠とかあるのか」

「あるわけないだろ」

「……都市伝説って、そういうもんか」

そのときは、他愛もない雑談の一つだと思っていた。

でも今になって、あの目が――あの言葉が、じわりと意味を持ち始めていた。


「晃くん。あんたの正義、まだ死んでないんでしょ?」

「…」


長い沈黙のあと。

小さく、そして二度目はもう少し強く頷く。

黒く塗りつぶされていた胸の中に淡い光が差し込み、少し力が湧くのを感じた。


それを見定めるように、奏は、一枚の紙を差し出した。

そこには、手描きの地図と、日付だけが書かれていた。


晃は紙を受け取り、地図に記された一点を見つめた。

見慣れた街の中に、ぽつんと――まるで誰かの忘れ物のように、その場所は印がつけられている。


「ここは……旧港の倉庫群?」


「そう。『灰翼』の一部が動いてる。けど、そこにたどり着けるのは、覚悟を決めた人間だけ」

「……行けば、何か変えられるのか」

「それは、あなた次第よ」


時計の針が、夕暮れの光の中で静かに音を刻む。

「時間は、あまりない。次の『転送』はおそらく4月8日。3日後よ」

「……転送?」

晃はその言葉にひっかかった。

「何の話だ?」

「ある時点を越えると、特定の子たちは『矯正施設』から別の場所に送られる。正式には『適応支援課程・第二段階』って呼ばれてるけど、内部では『転送』って言うの」

「別の場所って……どこに?」

奏が表情を曇らせ、無言で首を振る。


「わからない…。ただ、戻ってきた子を私は知らない」


静かな店内で、その言葉だけがやけに重たく響いた。

晃は、目を閉じて深く息を吸った。

そして――立ち上がった。


カウンターに置かれた空のカップが、わずかに揺れた。

「じゃあ……俺は行く」

足音を響かせて扉へ向かう。

その背に、奏の声が届く。


「晃くん」

振り返ると、彼女はまっすぐにこちらを見ていた。

「もしその場所で、『昔の自分』にもう一度出会えたなら――どうか、今度は一人にしないであげて」


晃は何も言わず、わずかに頷いた。

ドアが開き、冷たい風が頬をかすめる。

その先には、変わってしまった街が広がっている。

けれどそのどこかに、まだ取り戻せるものがあると信じたくて、晃は歩き出した。


手の中には、小さな地図。

そして、心の奥には――まだ名前のついていない『決意』があった。


扉を閉じて歩き出した時、ふと、誰かの視線を感じた。

振り返っても、路地は静まり返っていた。


(……気のせい、か)


そう思いながらも、晃の背筋には、かすかな緊張が残っていた。


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