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第23話 朝焼けは、まだ遠く

夜、薄暗い部屋の中。静まり返った空間に、SNSの通知音だけが虚しく響いていた。


晃は、画面に映る罵声の数々をただ見つめていた。

討論会での完敗。

それは単なる敗北ではなかった。

言葉を詰まらせた瞬間を切り取られ、編集され、拡散された動画が燃え広がる。


「#売国奴」「#感情論の極み」「#結局なにも言えない奴」


頬の傷が、じくじくと疼いた。

あのとき殴られた場所。

まるで言葉が、また拳となって彼を叩いているようだった。


──燃やされるのは、過去の失敗ではなく、いまの存在そのもの。


『甲斐総理に論破される少年』、そんなタイトルがつけられた切り抜き動画は、数時間で何十万再生を超えていた。


「……」


画面を閉じても、まぶたの裏にまで突き刺さる言葉の残滓。


そのとき、端末が震えた。灰翼の暗号通信アプリ〈Whisperline〉が、シゲルからのメッセージを表示する。


《突入は……失敗。阿久津さんが……戦死した。タイミングが、向こうに読まれてたみたいだ》


一瞬、理解が追いつかなかった。

現実のほうが、先に進んでしまっていた。


呼吸が浅くなる。何かを言わなければと思ったが、喉が動かない。

目の前の空間が、音もなく崩れていくようだった。


同じ部屋にいた沙耶が、晃の様子に気づき、顔を上げた。


「……どうしたの、お兄ちゃん」


声の調子が、いつもと違った。恐れと、確かめたい気持ちがにじんでいた。


晃は、端末を伏せ、ようやく声を絞り出した。


「阿久津さんが……死んだ」


その言葉を聞いた沙耶は、一瞬だけ硬直した。

手を口元に当て、そのまま目を見開いたまま、動けなくなる。


やがて、大粒の涙が、静かに頬を伝った。

声もなく、ただ震えるように肩が上下していた。


晃は何も言えなかった。その痛みを、沈黙のまま共有するしかなかった。


そのとき、晃の端末が再び震えた。


《全部話す。通信つなぐ》


シゲルからの続報だった。


晃は深く息を吐き、沙耶の方をそっと見やった。

沙耶は、黙ってうなずいた。


──画面の先に現れるのは、闇に揺れる記憶。


阿久津の、最後の戦いだった。


***


――13時間前。


灰色に煙る夜明け前の街──ここは南市の外縁、特別管理区域に指定された無人地帯。

現在も「南市」として存在してはいるが、この区域は地図からも削除され、立ち入りが禁じられている。


その一角、高架道路の下にひっそりと佇む旧貨物ヤード跡地。

鉄柵をかいくぐった先には、錆びついた搬送用トンネルが地下へと続いている。

ここが、矯正センターから搬送センターへと子どもたちが移送されるルートのひとつだと、椎名の情報は示していた。


矯正センターとは、国家の更生政策の名のもとに一般人を「問題個体」として収容・矯正する施設であり、その中でも見込みのない者や特定の条件を満たした者は、臓器移植や国外養子縁組といった名目で別施設──搬送センターへと移される。今回の作戦は、その搬送の最中を狙ったものである。


彼らがいま立っているのは、旧南市インフラ網の名残──かつての貨物ヤードをくぐる高架下の空洞部だった。

上部には、補修されることのなかった旧式の排気口があり、通気ダクトが内部構造に組み込まれている。


「……排気口はこの真上。旧通風ダクト。構造上、爆破すれば、天井が抜ける可能性がある」


低くそう言ったのは柿沼だった。顔を覆うマスク越しでも、その声には緊張がにじんでいた。


柿沼が差し出した古びた構造図に、阿久津は目を落とす。


「築三十年以上か……鉄骨梁は厚いが、継ぎ目と排気口周辺ならいける」


短く言って、手元の時計を確かめる。「準備。爆破は予定通り、四時三十分」


シゲルともう一人のメンバーが、慎重に排気口の周囲に装薬を仕込んでいく。天井の真上に位置する排気口の外側──つまり高架橋の下から突入する作戦だった。


この通気ダクトは、かつて南市の避難経路の一部と接続しており、今も微弱ながら空気の流れが残っている。上部には搬送用の車両が通過する専用レーンがあり、タイミングが合えば、爆破によって直接車両を狙える位置に出られる。


構造的にも老朽化が進んでおり、わずかでも爆薬の威力と角度が正確なら、破孔を生じさせるには十分だ──それが、阿久津の冷静な判断だった。


***


時刻は四時二十九分。


阿久津の指示で、全員が耳栓とゴーグルを装着する。シゲルがカウントを始め、柿沼が起爆装置に指をかけた。


「……3、2、1──」


地鳴りのような爆音が、闇の静寂を裂いた。


粉塵と破片が舞う中、破孔から内部への突入が開始される。


爆破で崩れた高架の床から、灰翼の突入班──六人──が、静かに搬送車両のルートへと滑り降りた。高架橋の下、道路の側面に突き出た排気口の真上が狙いだった。


施設の一部が見える位置に、白い無窓の車両が一台、沈黙の中に佇んでいた。


「警備はいない……?」


そう思った瞬間だった。


「来たぞ! 二時方向、車両の陰だ!」


銃声。


シゲルが叫び、阿久津が即座に遮蔽物の裏へ部隊を誘導する。


──待ち伏せだった。


車両周辺に潜んでいた武装兵が姿を現し、一斉に火線を浴びせてくる。柿沼がすかさず反撃に回るが、応戦に徹せざるを得ない。


「情報が漏れてた……? 椎名の……」


シゲルが顔をしかめるが、それを考える暇もない。


「優先は子どもたちの確保! 車両を確認しろ!」


阿久津の声に、シゲルともう一人が突進し、搬送車の扉をこじ開ける。中には数名の少女と少年──まだ小学生ほどの年齢の子どもたちが縮こまっていた。


「大丈夫、今すぐ助ける!」


声をかけ、一人ずつ抱きかかえて外に運び出す。


しかし、次の瞬間──


「狙撃手! 高架の上段、車両の真上からだ!」


柿沼の警告とともに、仲間の一人が肩を撃ち抜かれ、地面に倒れる。


敵の配置は予想を遥かに超えていた。


阿久津は瞬時に退路の確保に移る。破孔から撤退用のロープを展開し、シゲルに叫ぶ。


「子どもを優先しろ! お前らは先に行け!」

「でも、阿久津さん──」

「命令だ!」


野田と柿沼が子どもたちと負傷者を次々とロープで下へ送る。その背中を覆うように、阿久津が銃を構え、時間を稼ぎ続ける。


そして最後、すべての仲間と子どもたちを送り出した阿久津は、銃声が交錯する高架の上段へと身を翻した。


「……ここまでだな」


小さく、誰にも聞こえないように呟くようにして。


左手には、起爆装置のついた簡易爆薬。右手には、まだ弾の残る拳銃。


野田が振り返ったときには、阿久津はもう──敵の集まる排気口付近へと駆け出していた。


狙撃手が再び姿を現した刹那、閃光が炸裂した。


爆風が吹き抜けた高架の縁で、野田は目を閉じた。音が遠ざかっていく。銃声も、叫びも、すべてが静まり返る。


──その後、無線は沈黙したままだった。


***


長い話を終えたシゲルが、大きくため息をつくのが端末越しに聞こえた。


『突入は……失敗だった。椎名の情報をもとに準備して、最初は順調だった。でも、途中から待ち伏せされた。……子どもは数人、救えた。でも……阿久津さんが、最後に……』


言葉が詰まる。

晃も、沈黙のままその言葉を受け止めるしかなかった。


『椎名さんが裏切ったとは……思えない。でも、一応、これを見てくれ。あとで送る。……柿沼が現場で拾ってきた、廃棄された監視カメラのログ。搬送ルートの近くだ』


晃は、じっと前を見つめたまま、眉をひそめたが、その場ではそれ以上言葉を返さなかった。


「……それで、これからどうするつもりだ?」


一拍の間を置いて、野田が答える。


『まずは、沙織さんと協力して、救出した子どもたちを保護する。それが最優先だ。……それから先は…どうするか…組織も動揺してるし…攻撃手段も…』

『あのSSDの解析は?』

『…進んでるが、肝心な部分がまだ抜けない。カナン語の暗号、クセ強すぎて……こっちの解読ツールが通用しない…マジで詰みか』


晃は頷きながらも、ふと脳裏に別の名前が浮かんだ。


「……そういえば、奏さん。あの人も……裏切ってるかもしれない」

『……くそっ。どいつもこいつも……』


言葉の最後は、呻くようだった。

通話が切れ、端末の画面が再び暗転する。


晃は、重い気持ちのままソファにもたれかかる。


信じたかった。

椎名も、奏も、そしてこの国のどこかにあるはずの『希望』も。

だが、現実はどこまでも容赦がなかった。


迷いと疑念が胸を締めつける。そのとき──


端末にひとつのファイルが届いた。

先ほど野口が言っていた、監視カメラのログだろう。

晃が端末を手に取り、映像を再生しようとしたそのとき。


「私も、一緒に見てもいい?」


少し意外に思いながら、沙耶の声に、晃は軽くうなずいた。


映像が始まる。

画質は粗く、夜明け前の薄暗い時間帯。搬送ルート付近の高架橋の側道。

画面の隅に、椎名の姿が映っていた。


椎名は今回の突入作戦には参加していないはずだ。

だが、映像のタイムスタンプは──襲撃の前日。


「下見か…」

椎名は、突入ルートの選定を支援する立場だった。

だから、下見に来ている自体はおかしいことではない。


晃が黙って画面を見つめていると、沙耶がぽつりと言った。


「……動き方が、変じゃない?」

「え?」

「普通、下見って……もっと慎重に、周囲を確認しながら動くと思うんだけど……。椎名さん、まっすぐ来て、何か確認して、そのまま通信機に触れて……」


沙耶は、迷いながらも言葉を選んでいた。

「なんだろう……『確認』というより、『合図』に見えたの。誰かに……何かを伝えるみたいな」


晃は目を細め、もう一度そのシーンを見直す。


確かに、椎名は人気のない高架下に現れ、数秒間だけ静止し、通信機に手を当てていた。 それは『記録』というより、『連絡』の動きに近かった。


「……そうか。言われてみれば、確かに……」


沙耶の声は以前より落ち着いていた。 だが、その目には明確な『疑い』が宿っていた。


晃は、ふと胸の内に微かなざらつきを覚える。

椎名──あのとき討論会で会った人好きのする男。だがそれも演技だとしたら。


「……もう一度、最初から見よう」


画面が暗転し、再生が始まる。


「あっ…ここ」


沙耶が声を上げ、晃が画面を停止する。

ざらついた画面の中、椎名は高架の柱の陰に入り、周囲を見回しながら通信機に手を伸ばしていた。そして──柱の向こう、視界の外に、わずかに警備兵の影が覗いていた。


椎名の視線がその方向へ向いていたのは、偶然ではない。


――裏切りの証拠。


部屋には再び沈黙が満ちていった。


そのとき──


端末にメッセージが届いた。

差出人は……阿久津だった。


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