第2話 退職理由:一身上の都合を編集
気づけば、足はいつもの職場へ向かっていた。
デスクに座り、PCを立ち上げたその瞬間、胸に妙な違和感が走った。
ログイン画面の隅に、普段は表示されないメッセージが浮かんでいた。
『ログ記録:前回アクセス時間 03:12』
(……俺、こんな時間にログインした覚えなんてない)
背中に、誰かの視線が刺さる気がした。
頭が働かないまま画面を閉じたそのとき、ようやく周囲の様子が目に入ってきた。
いつも使っていたデスクには、すでに他の社員が座っていた。
俺の名前プレートは外され、隣の同僚は目を合わせようとしない。
「おーっす、山崎。話あるから、ちょっとこっち来れる?」
声をかけてきたのは、上司にあたる営業マネージャーの黒江だった。
スーツではなく、撥水ジャケットにスニーカー。抜きすぎた感じすらない。
ただの『ラフ』ではなかった。何かを隠し、何かを試している――そう思わされた。
会議室に連れられ、俺は無言で座った。
「いやー、悪いな。ちょっとウチの組織体制、いろいろ流動的になっててさ」
黒江はカフェラテを手に、軽く笑った。
「で?」
「いやね、山崎の担当案件、今日から他のメンバーに回すってことになった。
上からの指示で、『一部の契約整理』を進めてるんだよね。時勢的に」
「時勢って、何の話ですか」
「んー、いろいろだよ。……最近さ、山崎、ちょっと発言とか強くなってたろ?
カナン関連の案件に『意見』しちゃったりとか。目立っちゃうの、まずいのよ、今」
「クライアントの意見を伝えただけです」
「ま、どっちにしろ『山崎くんが正しかったかどうか』じゃなくてね――うちが正しくあろうとしてるかどうかなんだよ」
笑顔のまま、黒江はスリムな封筒を机に滑らせた。
中には、退職届が一通。
「形式上の書類ね。『一身上の都合』でお願いしてる。
これ通すと、手続きが楽なんでさ」
「納得できません」
「別に納得してもらわなくても、OKだよ。処理が完了すれば、それで十分」
そう言って、黒江はApple Watchをチラリと見た。
「……それと、昨日の夜中、03:12に自宅のPCを起動してたんだって?」
「……は?」
思わず言葉を失う。
話を聞きながら、黒江と向かい合っている自分の手が、じわじわと冷たくなっていくのを感じた。
「いやいや、気にしないで。うちは『勤務中の活動』以外は監視してないことになってるからさ」
そう言って、黒江はひときわ楽しそうに笑った。
「……あ、次のミーティングあるから。じゃ、よろしくね」
彼は軽く手を上げて、会議室を出ていった。
残されたのは、冷たい書類と、誰にも拾われない名前だけだった。
そんなことが、通るのか?
いや、通るんだ。ここでは、理屈も事情も、関係ない。
用意された紙にサインさえすれば、すべて『処理済み』になる。
正義とか、正当性とか、そんなものは最初から存在していなかったような顔で。
気づいたら、ペンを取っていた。
それが、どんな意味を持つのかも、考えられないまま。
気づけば、ふらふらと会社を出ていた。
駅のベンチに座りこみ、何も変わっていないはずのコンビニの袋を、何度も覗き込む。
食料は一人分だけでいい。カレーの残りも、明日には傷む。
押しつぶされるような不安が胸にのしかかってくる。
家賃、光熱費、そして生活費。
これからどうする? 何もかもが、昨日まで『あると思っていた』ものだった。
気づけば足は、古いアーケード街の端へ向かっていた。誰かに会わなければいけない気がした。頭の奥に、1人の名前が浮かんだ。
小野寺 奏。
大学時代のゼミの指導教員で、政治サークルの顧問でもあった。 俺が初めて社会の矛盾に声を上げたとき、笑わずに聞いてくれた唯一の大人だった。
学級新聞で選挙の話を書いて、周囲から浮いたときも「おかしいのは君じゃない、黙ることに慣れてるあの子たちのほうだ」と背中を押してくれた。
そのときの言葉が、今でも胸の奥でかすかに熱を持って残っていた。
最後に会ったのはいつだったか。 彼女が営む小さな喫茶店が、街の片隅にあると、どこかで聞いた。
信じていた人間に、何かを確かめたくなった。
あのとき背中を押してくれたあの人が――
今も、まだこの街で希望を語ってくれるのかどうかを。
……あるいは、語ることすら許されなくなっているのかを。
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