第18話 風の名前
夜明け前の空気は、まだ冷たい。
晃は、小さな仮拠点のベランダに出て、空を見上げていた。
東都のビル群の間に、わずかに滲む光。だが、その光が何を照らすのかは、まだ分からない。
背後で小さくドアが開き、沙耶の気配がする。
「眠れなかったの?」
「……うん。たぶん、考えすぎてる」
晃はそう言いながら、スマホの画面を閉じた。
そこには、『蒼風』から届いた返信が残っていた。
君の言葉に、何か可能性を感じた。顔を合わせることはできない。だが、話すことはできる。
──風のように、名前を持たない誰かとの対話が、静かに始まろうとしていた。
***
仮拠点の一角、古びたテーブルを挟んで、晃はイヤホンを耳に差し込んだ。
蒼風とのやり取りは、音声のみのリアルタイム通話だった。声には加工が施されていて、素性を掴む手がかりは一切ない。だが、言葉の芯には、不思議なほどの熱があった。
「……君は、なぜ僕に話しかけた?」
低く、淡々とした声。どこか冷静すぎるその口調に、晃は一瞬、言葉を選ぶのをためらう。
「──たぶん、誰かと『つながりたい』と思ってたんだと思う」
「つながる? 何のために」
「真実を、伝えるため……いや、誰かと共有したかった。たとえ、それが届かなくても」
数秒の沈黙。
「僕には顔も、肩書きもない。君が信じる理由は、どこにある?」
晃は、言葉に詰まる。
だがふと、隣室で寝息を立てる沙耶の存在が思い浮かんだ。
「……誰にも届かないと思ってた。どんなに叫んでも、変わらないって。でも……あんたの言葉は、俺の中に残った。顔が見えなくても、それは……嘘じゃなかった」
「…………そうか」
声のトーンが、少しだけ和らいだ気がした。
「討論会が開かれる。真実を伝えたい、その意志があるなら、君も参加してくれ。
主張は自由だ。ただし、言葉には責任が伴う」
「……討論会? 今、この状況で?」
「市民向けの公開フォーラムだ。
表向きは『異文化交流の一環』として扱われている。
だが実際は──声を届ける数少ない舞台だ」
晃は眉をひそめた。情報統制が進む中で、本当にそんな場が許されているのか。
「それ、危なくないか?」
「危ういからこそ意味がある。公式の枠内で、あえて揺らす。
その火種が、世論を割る」
「……あんたは、出ないのか?」
「僕は誰にも信じてもらえない。正体が知られてしまえば、逆効果になるだけだ」
晃はしばらく黙り、低く問い返した。
「それなのに、討論会を?……自分は出ずに?」
一拍置いて、蒼風は静かに言った。
「利用できる機会は限られている。
たとえ僕の顔が見えなくても、誰かの言葉が届くなら
──意味はあると信じている」
晃は、深く息を吐いた。
その信念に、理屈ではない何かを感じていた。
「……わかった。出るよ」
「ありがとう。討論会の件は、ある人物から連絡が入るはずだ。
敵ではない──少なくとも、そう信じている」
「誰?」
「──『出雲』という名だ」
意外な名前に、晃は小さく息を呑んだ。
***
翌日、仮拠点に一通の封筒が届いた。
差出人不明、だが『出雲』の文字が端に小さく記されていた。
晃はその文字を見て、一瞬だけ目を細めた。
大学時代、政治クラブでやり合ったときに何度か目にした字
──あの夜の記憶と重なって、胸の奥から立ち上がる。
中には討論会の招待状、そして一枚の地図。
会場となる文化交流センターの裏手にある控室の位置が記されていた。
沙耶がその手紙を覗き込む。
「出るの?」
晃は口を開きかけて、一瞬だけ言葉を止めた。
胸の奥に、かすかな怯えのようなものが浮かんだのだ。
自分の言葉が、誰かに届くのか。
責任を負う覚悟が、自分にあるのか。
だが、その迷いはほんの一瞬だった。
「……出るよ。俺の言葉で話す」
沙耶はしばらく黙っていたが、静かに頷いた。
「じゃあ、私も行く」
「え?」
「聴衆として。聞いてみたい、兄ちゃんが何を伝えるのか」
晃は小さく笑った。
「……ありがとう」
(高校時代、政治クラブで討論大会に出たことがあった。
あの頃の自分は、ただ『勝ちたい』だけだった。
……でも今は違う。ただ、伝えたい)
***
その日の夜、阿久津から連絡が入った。
『討論会、出るんだってな』
「はい。……出ることにしました」
『いい判断だ。世論は、動けば連鎖する。
お前が動くことで、灰翼の活動にも追い風が吹く』
「……そんなふうに考えてくださってたんですね」
『考えてなきゃ俺は動かん。……それにだ』
阿久津が一拍置いた。
『この前、例の施設に潜入したときのデータがまとまってきた。
収容エリアの構造、警備の交代時間、搬送ルート
──条件が揃えば、解放作戦が現実になるかもしれない』
「……本当ですか?」
『ああ。まだ確定じゃないが、準備は進めてる』
晃は、思わず息を飲んだ。
阿久津は言葉を選ぶように、低く続けた。
『それに……この間のお前の【約束】にもつながる』
晃は一瞬、黙り込んだ。
阿久津にとっては、副次的な要素──そう言っていた。
それでも、あの人だって、本当は助けたかったに違いない。
その思いが、胸の奥に、静かに沁みた。
「……ありがとうございます」
『礼はいい。お前はお前の場所で火を灯せ。
俺は俺で、火種を投げ込む準備をしておく』
通信が切れた後、晃は長く続く沈黙の中で、自分の胸に手を当てた。
あの日、施設の奥で、鉄格子越しに少女たちの声が聞こえた。
──「……誰か……助けて……!」
声に応えるように、晃は近づき、そして言った。
──「迎えに来るよ。絶対に」
──「約束する」
その約束が、今も彼を縛っている。
だが、それは呪いではない。
風のように、静かに、けれど確かに心を押す力だった。
──だが風は、嵐の前触れでもあった。




