第17話 風を抱いて
夜。
東都の片隅にある灰翼の仮拠点──小さなアパートの一室。
ダイニングと寝室がひとつになった1LDKの間取り。部屋の中央にはセミダブルのベッドがひとつだけ。簡易な仕切りもない空間だが、ふたりで身を寄せるには十分だった。
その夜、沙耶は何度も寝返りを打った末、ふと、声を押し殺すように小さくうなされる。
「……やめて……っ……さわらないで……っ……いや……っ……!」
苦しげに身をよじる。呼吸が浅くなり、汗が額に滲んでいる。
手は布団をつかんだまま、何かから逃れようとするように。
最初は寝返りかと思った。だが次の瞬間、沙耶の顔に滲む汗に気づき、胸がざわついた。
(夢だ……でも、ただの夢じゃない。フラッシュバックだ)
前日、沙織が言っていた言葉がよみがえる。
――「夜、もし発作が起きたらね。無理に起こさなくていい。でも、『今は安全だよ』って、そばにいるだけでも、違うと思う」
晃は迷いなく、沙耶の肩に手を添えた。冷たく、硬くこわばっている。
「沙耶……俺だ、大丈夫だ。ここはもう、あそこじゃない」
沙耶はぱっと目を見開いた。
一瞬、晃の顔に怯えを浮かべ、次の瞬間にそれが安堵へと変わる――。
晃はためらいかけるが、すぐに強く、優しく抱き寄せた。焦らず、でも離さないように。
「平気だ。怖くない。……お前は、もう自由だ」
やがて、沙耶の手から力が抜けていく。目を閉じたまま、小さく息を吐き、そのまま晃の胸元に頬を預ける。
「……お兄ちゃん……」
その声が、まるで幼い頃のままのようで。晃の心臓が、痛むほど締めつけられた。
(あの施設で、何があったのか……全部は知らなくても、きっと、俺の想像よりずっと……)
晃の胸の奥に、衝動のようなものが芽生える。
肌の温度。手の中の細い肩の感触。
(……いや、駄目だ)
頭を振る。心のどこかが、それでも彼女を「女」として見てしまいそうな自分に、晃は強く抑制をかけた。
(沙耶は妹だ。俺の、大切な──)
──思い出す。
小さかった頃。
兄として、手を引いていた自分。泣き虫で、人見知りで、それでも自分の後ろにぴったりついてきた、小さな手のぬくもり。
(……何があっても、守るって、決めたじゃないか)
晃は、もう一度だけ抱きしめる力を強めて、そして沙耶の髪を優しく撫でた。
その髪は、短く切られていて、かすかに首筋に引っかかる。逃げるように切り落とされた時間の名残が、そこにあった。
やがて沙耶は、安心したように深く息を吐いて、晃の胸に顔を埋めた。
(……いくら、血がつながっていないからって)
(……だからって、この子を、誰よりも守りたいと思うことに、理由なんかいらない)
晃は目を閉じた。心臓の鼓動が、まだ少しだけ速かった。
……外では、風に揺れる街路樹の葉音だけが、かすかに響いていた。
風の音さえも、いまはふたりの世界を乱すことはなかった。
***
朝。
東都区、灰翼の仮拠点となっているアパートの一室。
テレビのニュースでは、政権政党である民政革新党の幹部による記者会見が放送されていた。画面右下にはカナン語の同時通訳が並ぶ。キャスターは「グローバル社会に向けた多言語発信の試み」と笑顔で伝えていた。
沙耶が、ソファの上でコップのミルクを飲みながら呟いた。
「……こうやって少しずつ、『普通』が変えられていくんだね」
朝食を済ませ、2人は外へ出た。
灰翼の東都での活動は、南市のような直接的な作戦とは違っていた。行政資料の調査や、広報ネットワークの構築、市民の反応を探るといった『地味な活動』が中心だ。表立って動けば、即座にマークされる。それでも、じわじわと仲間を増やす。そういうやり方が求められていた。
また、引っ越したばかりで、生活に必要な物も揃っていない。
情報収集と買い出しを兼ねた外出だった。
「にぎやかなところに行ってみたい」
沙耶の言葉で、2人は東都駅近くの再開発エリアへ向かった。
東都駅は巨大な複合ターミナルで、隣接するショッピングモール「T-BASE」は、観光客と地元客が行き交う人気スポットだ。中には国内ブランドの店舗も並ぶが、どこか内装の雰囲気やBGMが異国風にアレンジされている。
吹き抜けのモール内には、大型スクリーンが吊るされ、カナン語のニュース映像が繰り返し流れている。多くの人が気にも留めずに通り過ぎていく。
「……ここも、じわじわと変えられてるんだね」
沙耶が立ち止まって言う。
「誰も、それを怖がってないのが一番怖いな」
ショッピングモールの案内板やフロアマップには、日昇語とカナン語が併記され、トイレ案内や注意書きもバイリンガル仕様になっている。
一見、多文化共生を謳う先進都市のようだが、どこか「何かに統一されていく」気配が漂っていた。
駅ビルを出て、ふたりは裏手の「高輪ストリートマーケット」へ足を運ぶ。
昔ながらの屋台と、新しいグローバルチェーンの店が入り混じるこの一帯では、観光客や地元民が入り混じり、休日のような賑わいを見せていた。
沙耶がソフトクリームを手にし、晃は缶コーヒーを片手に歩く。
ふと、その口元にクリームがついているのに気が付いた。
「おい、ついてるぞ」
言いながら、口元のクリームをハンカチで拭う。
「……お兄ちゃん、ちょっと優しくなった?」
「お前が、昔よりおとなしくなったからだろ」
笑い合う2人。
だが、その笑顔の裏に、お互い気づかぬふりをしている何かがあった。
必要な物を買って、何気なく店内を歩いていると、沙耶が、ふとアクセサリースタンドの前で足を止めた。
「……これ、かわいー」
小さく呟いたその声に、晃は視線を向ける。
並べられた中で、彼女の指が触れていたのは――
シルバーの羽根のモチーフがついた、シンプルなペンダント。
「ねえ、これ、あたしに似合うかな?」
晃は答えず、それをそっと手に取り、隣に並んだ同じデザインのサイズ違いを無言で選ぶ。
そして、そのままレジに向かっていった。
「……え、ちょ、なにそれ。兄妹でおそろいとか、恥ずかしいよ?」
「うるさい。……買いたかっただけだ」
「でも、嬉しいよ」
沙耶は、小さく笑いながら晃が渡したペンダントを握りしめた。
その仕草は、ほんの少しだけ、涙をこらえているようにも見えた。
帰りの地下鉄、構内の人波がふと乱れ、沙耶が肩を押されてよろけた。
晃はとっさに手を伸ばし、その手を取った。
「……昔なら絶対、手なんか握ってくれなかったよね」
「……今は、離したくないって思ったんだよ」
触れ合う指先が、胸の奥に火を灯す。ほんの一瞬のぬくもり。
「…ずっとこんな日が続いたらいいのに」
沙耶の聞こえないぐらいの小さな呟きに、晃はそっと目を伏せた。
帰宅後、沙耶がシャワーを浴びている間、晃はソファに座ってスマホを手に取った。
南市では遮断されていたSNSが、ここ東都では普通に使える。
目に飛び込んできたのは、ひとつの投稿だった。
──国家という仮面の裏に、誰の正義が隠れているのか。見えない占領を、あなたは本当に『選んだ』のか?
#蒼風 #都市という檻 #考える自由
(……蒼風?)
その名前に、かすかな記憶が揺れる。
沙織が言っていた。
――外部支援者で、政治活動家。政治に関する情報に詳しいの
そのプロフィールには、ひとつの詩が添えられていた。
風をかたちにできたなら、
この国のどこかで、誰かの頬をそっと撫でるはずだ。
壁に書けない声たちは、いまも夜に揺れている。
名前を失っても、声は風になる。
届いたその先に、ひとつの問いがあればいい。
晃はそっとメッセージ画面を開いた。
はじめまして。
あなたの言葉に、心が揺れました。
少しだけでも、お話しできたら嬉しいです。
それから、少し迷って、名前を入れた。
灰野 翼
この名が、その風に伝わるように。
そして、この言葉が、誰かの胸に届くことを願いながら。




