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第16話 火を囲む者たち

夜が更け、山間の小さな谷にひっそりと灯る焚き火の明かり。

南市を脱出した『灰翼』の一行は、追跡を避けるため、地図からも削除された旧避難ルート沿いの野営地に身を潜めていた。

ここは、かつて防災訓練のために整備された拠点のひとつで、灰翼の初期メンバーが記憶していた場所でもある。

今では廃墟に近いが、自然の遮蔽と地形の複雑さから、一時的な隠れ家としては理想的だった。


この場にいるのは、脱出作戦に関わった中でも比較的動ける5人――晃と沙耶、阿久津、柿沼、そしてシゲル。

本来は通信の中継地点に留まる予定だったシゲルも、機材の簡易設定を終えたため、合流していた。秦月チン・ユエの姿はなかった。彼女は、施設外まで案内した後、何も言わずに一行から離れていった。


この夜は、一時的な分断と再編成の間に生まれた、かすかな静寂だった。


阿久津が手際よく薪を組んでいく。

ライターもフェロセリウムロッドも使わず、乾いた木をこすり合わせただけで火を起こす。炎がゆっくりと広がり、周囲の闇を押し返していった。


「さすが元自衛官……」

晃が思わず漏らすと、阿久津は肩をすくめる。


「ま、キャンプ好きだっただけさ。実戦より自然相手の方が燃えてたからな。サバイバル趣味なんて持ってると、部隊じゃちょっと浮くんだよ」


「いやマジで」とシゲルが笑う。


「阿久津さん、RPGでいうと『全スキル解放済みのサバイバル職』っすよ。火起こし、水の浄化、野草の判別……自分、給湯器の音で育った都会っ子なんで、草むらで寝た初日、HP削られてる気がしましたって」


柿沼が、ぽつりと空を見上げる。


「こっちに来てから空ばかり見てる。南市じゃ、天井の蛍光灯ばかり……」


一同が黙る。火のはぜる音だけが、夜に静かに染み込んでいく。

しばらくの沈黙のあと、晃がぽつりと言った。


「……こうして火を囲んでると、現実じゃないみたいですね」


焚き火の光が揺れる中で、晃が続ける。


「自分がこの中にいるのが、まだ少し信じられない。……でも、阿久津さんは、最初からここにいる感じがするんです」


阿久津は少し眉を上げた。


「そう見えるか?」


晃はうなずき、少し間を置いてから問いかけた。


「……阿久津さんは、どうして『灰翼』に?」


阿久津は一瞬、意外そうに晃を見て、それから小さく笑った。


「そういうことを聞くようになったんだな。少しは場に馴染んできたってことか」

「……自分でも、不思議なんです。でも、知りたいと思いました」


阿久津はしばらく黙ってから、ぽつりと語り出す。


「最後にいた部隊でな。避難誘導の現場で、俺は上の指示を無視して住民を動かした。

指示を待ってたら、助けられなかったかもしれない。結果的には……正しい判断だった。でも、それで処分された」


晃が目を伏せて呟く。


「……理不尽ですね」


阿久津は、ゆっくり首を振った。


「覚悟してやったことだ。『正しさ』ってやつは、あとからついてくるもんじゃねぇ。誰かが保証してくれるもんでもないしな」


しばしの静けさののち、沙耶が小さく尋ねた。


「それでも……助けたんですね」


阿久津は焚き火を見つめたまま、わずかに笑った。


「人を守るってのはな、『責任』じゃない。『意志』だよ。命令されたから動くんじゃない。誰かを守りたいって、そう思った時にしか……人は本当には動けねぇ」


少しだけ火が揺れ、阿久津の横顔を照らす。


「でもな、そうやって選んだ『意志』には、誰も責任を取ってくれねぇ。……それでも、自分で背負うしかねぇんだ。選んだ以上はな」


さらに数拍の間を置いて、ふっと息を吐くように続けた。


「……どこかで、『頼られる自分』に酔ってたのかもしれねぇ。正義感とか使命感とか、そんな立派なもんじゃなくてさ。ただ……『あんたがいて助かった』って言われるのが、うれしかった。今思えば、エゴだよ。……でも、それが俺なんだろうな」


その言葉に、沙耶は小さく首を振った。


「私も、助けられました」


阿久津は一瞬だけ目を見開き、すぐに目を細めて火に視線を戻す。


「……ありがとな」


晃がそっと、隣の沙耶の手に触れる。

沙耶は一瞬、身を強張らせたが、その戸惑いはすぐにほどけていった。


「……ありがとう。助けてくれて」


晃は黙って、うなずく。

焚き火の音が、二人の静かな気持ちを映すように、ぱちぱちと夜の空気を弾いていた。


そこへ、阿久津の低い声が届いた。


「晃、沙織からだ。ヘルスチェックだと」


阿久津が小型の通信機を手にしながら声をかけると、晃と沙耶が焚き火の輪から少し離れた場所へ向かった。

柿原が慎重に周波数を合わせ、通信機を接続する。


「――今なら繋がる。長くはもたんぞ」


晃が頷くと、しばらくのノイズの後、くぐもった女性の声が聞こえた。


『……もしもし、こちら医療班。沙織です。聞こえてますか?』

「……うん、聞こえてる。晃だよ」

『晃くん……よかった』


沙織の声が震えていた。


「沙耶も、無事だよ。いま隣にいる」

「こんにちは。ありがとう、助けてくれて」

『沙耶ちゃん……! 本当に、よかった……』


しばしの沈黙があった。感情を押し殺すような呼吸の音が混じる。


「僕ら、元気にしてる。ああ、でも沙耶……髪、切られちゃって」

『……ウィッグ、あった方がいいかもしれないわね。東都に脱出するなら、こちらで用意するように手配しておく』


沙耶がそっと晃に目で合図し、火のそばへ戻っていった。残された晃が、通信機に向き直る。


「それと……」

晃は声を潜めた。


「……触られるの、嫌がるみたいなんだ。誰に対しても、少し過敏で。無理もないけど……」


通信の向こうで、沙織が息を呑むのがわかった。


「……ごめん。まだ、何があったのか全部は分からない。でも、あの施設で……何かあったんだと思う」

『ううん、晃くんがそばにいてくれて、本当によかった。……今はそれだけで、救われてる』


ノイズが大きくなり、柿原が手で合図を送る。


「そろそろ時間だ」

『また、話しましょう。晃くん』

「はい、また」


通信が切れた。しんとした野営地に、夜風の音だけが残った。


遠くでシゲルがくしゃみをした。

それを合図にしたように、誰かが小さく笑った。

その夜、小さな火を囲んだ『灰翼』の仲間たちは、わずかながらも確かな『日常』を、共に分かち合っていた。


阿久津も、静かに火を見つめていた。次の夜が、こんなふうに穏やかである保証は、どこにもなかった。


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