第12話 救出と約束
午前4時。
南市の空はまだ暗く、霧が港から這い上がってくる。
旧少年院跡地に建てられた矯正施設――南市第七矯正センター。灰色の壁、無機質な照明。沈黙した街の断片。
その地下通路に、灰翼の影たちが潜んでいた。
地上には管理棟と面会室。地下には、選別と監禁のための施設が広がっている。晃は、図面を思い浮かべた。B2──個別監禁エリア。沙耶がいるはずの、場所だ。
通路の両端には監視室、集団室、個室。灰翼は、搬入口から南通路を経て、そこを目指している。
一撃離脱。
この作戦の、唯一の選択肢だった。
「EMP装置、起動準備完了」
阿久津が、背中に背負った金属ケースを床に置いた。
「よっしゃー!搬入口ハックしまーす!推し回線まだ生きてた、勝ったなこれ!」
野田シゲルがイヤホン越しに応じる。
彼は施設から約2km離れた仮設の情報観測拠点に籠もり、ノートPC三台と複数のモニターを前に、作戦支援を行っていた。
かつて施設に納入された旧型ネットワーク回線には、廃止された保守アクセス用のバックドアが存在していた。シゲルはそれを突く『例の抜け道』を、突入前日の夜から一晩かけて構築していたのだ。
「ネット回線、まだ塞がってませーん!三十秒後にイベント開始っと!」
晃は静かに呼吸を整え、拳を握る。
ここから先に、沙耶がいる――
そう信じて進むしかなかった。
(間に合う。きっと、取り戻せる)
(もう誰にも、奪わせない)
晃は目を開き、足を踏み出した。
「突入開始」
阿久津の短い号令とともに、闇が動き出した。
――カチリ。
音もなく裏搬入口のロックが外れ、無人の廊下に冷たい空気が流れ込む。
数秒後、遠隔操作で照明が数回点滅し、システムが一時的にループ状態に陥った。
灰翼の突入班が、手際よく分かれて進入した。
「西棟オールグリーン!センサーさん、ただの飾りだった件!」
シゲルが、楽しげに報告した。
「東側警備室、職員ひとり、無力化完了」
柿沼が短く報告する。
「南通路からB3搬送階段を使い、B2収容区画に接近中」
晃が呼吸を乱さぬよう、速やかに歩を進める。
通路の先
――監視カメラがひとつ、赤い光を灯していた。
「カメラ目潰し!いけ、俺のジャマーくん!」
晃の耳元から、シゲルの声が響いた。
施設の外にいる彼が、遠隔で即席の小型ジャマーを起動した。
ピッ、と音がして、カメラは動作を停止する。
晃はその隙に、手元の端末をドア脇の保守用ポートに差し込んだ。
それは、シゲルが直前に現地の旧型セキュリティ回線を解析し、手作業で再構成した仮想アクセスキーだった。
正式なカードではなく、過去の定期メンテナンス用のバックドアを突いた、一時的な侵入トリックだ。
ランプが「認証成功」の青い光を灯し、ドアが静かに開く。
冷たい空気の中、並ぶベッドと、鉄格子。
晃の目が、一瞬、ひとりの少女で止まった。
――違う。
その子は沙耶ではなかった。
やせ細り、髪を地肌が見えそうなぐらい短く切られた少女。年齢も近く、識別タグも似たようなもの。
晃は一歩だけ踏み出しかけて、唇を噛んだ。
彼女の瞳は、虚ろなままこちらを見つめていた。
(……この子も、見捨てられてきたんだ)
(だけど今は、沙耶を――)
晃は心の中で、何かを押し殺すように首を振った。
この大部屋にはいない――
晃は確信し、奥の個別収容区画へと足を速めた。
その先の個室扉に、見慣れた識別コード――β-C27――を見つけた。
電子ロックはすでに解除されていた。
EMPの影響か、それとも誰かの操作か――そんなことを考える暇はなかった。
そして──
「……沙耶」
名を呼ぶ声が震える。
彼女はそこにいた。
冷たい空気の中で、ただ一人。
その姿だけが、現実から浮かび上がるように見えた。
晃の胸が、強く跳ねた。
(いた──本当に)
病衣のような粗末な服。
腕の識別タグ。
髪の根元から切り落とされた黒髪。
面影すら、かすれてしまった顔。
それでも──その瞳だけは、かすかに、かすかに、生きていた。
「……お兄……? ……ほんとに……?」
かすれた声。震える手。
晃は、夢中で駆け寄った。
手を取る。か細い体を、腕に抱きしめる。
そのとき──
沙耶の体が、びくりと硬直した。
晃は一瞬だけ、戸惑った。
だが、すぐに、それを押し込めた。
(今は、迷っている暇はない)
「迎えに来た。──帰ろう」
沙耶は耐えきれずに泣きながら、力を込めて晃にしがみついた。
「お兄ちゃん…」
「沙耶、遅くなってごめん…」
沙耶はその言葉に、深く安心したように力を込め、涙を流しながら答えた。
「来てくれた……」
次の瞬間、子供のころのように、声を上げて泣き出した。
「うわーん……!」
晃の胸に、幼い日の記憶が蘇る。
──迷子になった沙耶を必死で探し回り、ようやく見つけたあの日。
泣きながら、自分にしがみついた、小さな体。
今、目の前で、同じように泣きじゃくる沙耶。
晃は、彼女をそっと抱きしめた。
『警告。未承認アクセスを検出。全警備ユニット、警戒レベル3に移行』
金属音のような警報が鳴り響き、壁面に隠されたパネルがゆっくりとスライドした。
中から現れたのは、無機質な光を放つ警備用ドローン――虫のようなフォルムに、関節が不気味に駆動する。
足音だけが、通路に響いていた。
赤く点滅する非常灯が、影を引きずるように壁に踊る。
晃は沙耶の手を握りしめ、必死に走った。後方では阿久津と柿沼が警戒しながら背後をカバーしている。
「こっちだ、急げ!」
「沙耶、大丈夫か?」
沙耶はしゃくりあげながら、小さく頷いた。
「……うん、平気……」
かすれた声。だが、その足取りは、しっかりしていた。
あの日見送った少女は、もういない。
晃はその手の温度に、それを確かに感じていた。
だが――その瞬間だった。
「……誰か……助けて……!」
鉄格子の向こうから、小さな声が漏れた。
晃は足を止めた。
沙耶も、振り返る。
「お兄ちゃん……この子たち……」
鉄格子の奥。
やせ細った少女たちが、壁に寄り添い、こちらを見上げている。
希望と絶望が入り交じった、かすれた瞳で。
晃は立ち尽くした。
心臓が、痛いほど鳴っていた。
「……!」
阿久津が、静かに、短く言った。
「予定外の行動は、作戦を壊す。今、沙耶を置いて戻るか?」
喉が詰まる。
言葉が、出ない。
沙耶の小さな手が、晃の袖を握った。
その手も、震えていた。
阿久津が、さらに低く言う。
「誰も助けられないより、一人でも救う。それが──お前が選んだ戦い方だろ」
晃は、目を閉じた。
痛みを押し込めるように、唇を噛む。
(今は、沙耶を……)
(だけど、忘れない。絶対に──)
晃は、鉄格子の前にしゃがみこんだ。
かすかに顔を上げた少女たちと、目を合わせる。
「……今は、出せない。でも──」
声が震えそうになるのを、必死に押さえた。
「必ず助けにくる。……君たちを、絶対に忘れない」
沙耶が、そっと頷いた。
後方から、柿沼の声が飛んだ。
「ドローン再起動、あと十秒!」
晃は、鉄格子の隙間から手を伸ばした。
少女の手のひとつを、そっと、確かに握る。
「約束する」
そして──
振り返らなかった。
「来るぞ、時間がない!」
阿久津が叫び、EMP装置を起動。
EMPは一度きりの切り札だった。これを使えば、後は「逃げ切る」しかない。
空気が震える。
耳の奥で、微かな耳鳴りが走った。
天井の照明がパッと消え、非常灯が赤く点滅を始める。
──ドローンも、沈黙した。
「撤退ルート、B4エレベーターから外通路へ!」
晃は沙耶の手を握り直し、闇に飛び込んだ。
何も見えない。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
冷たいコンクリートの匂い。
汗の味。
それでも、沙耶の手だけは、確かにそこにあった。
暗闇の中、ようやく怒号が上がりはじめる。
生身の警備員たちが、混乱から立ち直りつつあった。
(今なら、抜けられる──)
晃は、ただ前を見据えた。
──そのとき、イヤホン越しに、シゲルの声が割り込んだ。
「……おっと、待った!外の監視カメラにレアキャラ出たわ。カナン軍っぽい軍服が1人。中に入っていくぞ」
晃の胸に、ひやりとした重さが絡みついた。微かな悪寒が、背骨を伝って這い上がる。
(警備員は、いわば素人だ。
だが、本物の軍人が相手となれば──)
暗闇が、じわりと密度を増していくのを感じた。




