練習しない卓球部のひらめき
顧問が体育館を去った後、静寂が戻ってきた。私たちは顔を見合わせて、しばらく何も言えずにいた。サトル先輩が、少し申し訳なさそうに私たちを見渡し、深く息をついた。
「……ごめん、みんな。ちょっと、やりすぎたな」とサトル先輩が、照れくさそうに笑いながら言った。その姿を見て、私もなんだか責める気にはなれなかった。結局、私たちは一人残らず全員墨汁まみれになってしまった。予想外の事態に巻き込まれてしまったけれど、なんだかんだで楽しかった。
「まぁ、いいけど……」私はそう言いながら、周りの汚れた場所を見回した。「でも、これ掃除しないと帰れないよね?」
全員がため息をつきながら、雑巾やモップを取り出し、黙々と掃除を始めた。墨汁が床や壁にまで飛び散っていて、思ったよりも掃除は大変だった。他の生徒にヒソヒソと陰口を叩かれるなか、全員が真っ黒な状態で掃除をしている光景は、なんとも滑稽だった。
掃除が一段落すると、全員は疲れ果てて座り込んだ。私は制服を見下ろして、まだ全身が墨まみれなことに気づいた。手や顔を洗いに行こうと、水道の方に向かおうとするとき、リョウ先輩がぽつりと言った。「そういえば、プールに行けばシャワーが使えるんじゃないか?」
その一言に、私は思わずリョウ先輩を尊敬した。眠たげな眼をしているのに、意外と知性は高い生き物かもしれない。今の私たちに必要なのは、全身を洗える水だ。シャワーを使えば少しはマシになるかもしれない。
「天才か?」私は思わず口にした。
サトル先輩も「いいじゃん、それ。行ってみよう」と笑いながら提案に乗っかった結果、全員でプールに向かうことになった。プールの近くにあるシャワーのところで、私たちは冷水を頭から浴び始めた。制服を着たままだったけれど、そんなこと気にしていられなかった。
冷たい水が制服にしみ込み、徐々に体中に広がっていく。最初は、墨汁が落ちないんじゃないかと思って焦ったけれど、意外にも肌や制服に染み込んだ墨汁は流れていった。
「大丈夫、これは洗えば落ちる墨汁だよ。ダイソーで買ってきたんだ」と、サトル先発が言った。
「えっ、そうなの?」
私は驚いた。そんなものがあるなんて、知らなかった。ダイソーはやっぱりすごい。全身に染み込んでいた黒い物質が次第に薄くなっていき、最終的には制服は元の色に戻っていった。
「意外と高かったんだよな。おかげで部費、ほぼ使い果たしちゃったけど」サトル先輩が無邪気に言う。
「ちょっと! 何やってるんですか! いい加減にしろよ! いっぺん死ねよ!!」
私はついにブチ切れた。
私は他の部員たちとアイコンタクトを交わした後、協力してサトル先輩をつかみ、プールに運び、投げようとした。しかし、私も運動不足がたたって力が入らず、よろめいた瞬間、全員一緒にプールに転落してしまった。
「うわっ!」冷たい水が全身を包み込む。ずぶ濡れだった制服の水は、プールのものと置き換わった。
私は少女漫画に出てくるような制服でプールに入るシチュエーションにときめきそうになった。しかし、プールの中にいるだらしない体型の部員たちを見て、すぐに現実に戻った。私はがっくりと肩を落とした。
なんとかプールの縁にあるはしご(私たちはあまり運動しないからか、それすら大変に感じる)にたどり着き、水を含んで重くなった体を引き上げる。スカートをいくら絞っても、水がぼたぼたと流れ落ちるのが止まらない。強い日差しで少しでも乾いてくれたらいいのになと思うけど、ずぶ濡れの服はまだずっしりと重い。
サトル先輩の指示で解散する。私も帰路につこうとするが――そういえば私は運動部なのに、体操服も持っていなかった。つまり着替えが、ない。
私は準備不足の自分に呆れつつ、もう諦めの境地に達していた。全身びしょびしょのまま、そのまま家に帰ることになるとは思わなかったが、もうどうでもよかった。
脚を進めるたびに水滴が制服からぽたぽたと垂れる。通りすがりの人たちが私を見てクスクス笑っていた。歩くたびに、靴がぐしょぐしょと音を立てる。
家に着くと、玄関にはお母さんが待ち構えていた。私の姿を見た瞬間、彼女の表情が驚きから怒りへと変わった。
「何その格好! どうしたのよ!」お母さんは私に詰め寄る。私は冷たい水に浸かっていた体がさらに縮こまるような感覚に陥った。
「いや、その……部活で……」と言い訳をしようとしたが、お母さんの怒りは収まらない。「部活で? 卓球部のくせに、そんなわけないでしょ! そんなに濡れて帰ってくるなんて! 一体何があったの!」
私は結局、こっぴどく叱られる羽目になった。濡れた制服を脱ぎ、お風呂場に入り、熱いお湯を頭から浴びると、冷たさと疲れが一気に押し寄せ、しばしぼんやりしてしまった。
(なんだか、今日一日すごいことがあったな……)
今日の出来事を思い返してみると、ふと笑いがこみ上げてきた。なんでこんなことになってるんだろう、と思いながら。でも、全てが笑えてしまう。
そういえば明日は試合だった。今日は早めに寝ることにしよう。湯船に浸かりながら、明日のことを思った。