練習しない卓球部の儀式
私はサトル先輩たちが何をしているのか理解できなかった。書道用の大きな筆と墨汁。それに、大きな白い紙が卓球台の上に広げられていた。
「これ、何をやってるんですか?」私は思わず口を開いた。
「ユウナ、試合に勝つためには、魂の文字を体に刻まなきゃいけないんだよ」とサトル先輩がにこやかに答えた。
「魂の文字……?」私は困惑していた。卓球部なのに、どうして書道が出てくるのかが全く理解できなかった。スピリチュアルに目覚めたのかな。あ、これ、中国つながりかな?
「ほら、試合に挑むには気持ちが大事だろ? そのためには文字に自分の魂を込めて、書にしたためて、勝利を引き寄せるんだ!」と、別の部員が真剣な顔で説明してきた。
「なんか、もっと他にやることがある気がするんですけど! てか、練習をしろ、練習!!」私は叫んだが、彼らは全く聞いていない。
部員たちは次々と大きな筆を手に取り、墨汁に浸すと、白い紙に文字を書き始めた。最初は卓球に関連するような「勝利」や「気合」といった力強い文字が並んでいたが、次第に「自由」「笑顔」など、どう考えても試合とは関係のない文字が加わり始めた。
その中でも、サトル先輩が書いた文字はとくに美しかった。筆をスムーズに動かし、「無限」と書く。その文字は力強さと優美さが絶妙に共存していて、思わず感動してしまった。私よりもはるかに上手な文字に、つい「この人、なんで卓球部にいるのかな?」と思ってしまう。
「書道部は体育会系だからな!」とサトル先輩がまるで私の心を読んだかのように、笑いながら突然言い出した。心を読まれたような言動に、冷や汗が流れる。
「ちょっとトイレに行ってきます」と言いながら、逃げようとすると、行き先を塞がれる。とまどう私の前で、部員が言った。
「もっと全身で表現しないと意味がないんだ!」
その途端、部員たちは手で直接墨汁をすくい、お互いの体に塗りたくり始めた。それを見た瞬間、悪い予感が私の中に広がった。
「ああ! とうとう宇宙の真理に目覚めたんですね! おめでとうございます! 来世でもまたお会いしましょう!」
私はそう言い残し、逃げようとするが、普段は運動していないはずの部員が、不自然なほどの速さで私に向かって突進してきた。私は必死で逃げ出そうとしたが、運動不足がたたってすぐに捕まってしまった。
(そういえば、私も全く練習してなかったな……)
次の瞬間、先輩たちは私の背中や腕に墨汁を塗りたくり始めた。冷たくてぬるぬるとした液体が肌に広がる。その感触が気持ち悪かった。墨汁が服の下にまで染み込んでくるたびに、鳥肌が立った。
「え、ちょっと! やめてください! 東京地裁に訴状を提出しますよ!」と叫んだものの、もう止まらなかった。墨汁がどんどん私の体に塗り広げられ、私の制服も、顔も、全身が真っ黒になっていった。
「よし、ユウナも魂を込めたな!」と、満足げなサトル先輩。部員たちは誇らしげな表情を浮かべながら、私を見ていた。
私は、思わず自分の姿を見下ろした。しかし、見るまでもなく真っ黒で何も分からない。仕方なく近くの姿見の前に移動し、おそるおそる鏡を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、まるで妖怪か何かのような自分の姿。ブラウスもスカートも完全に黒く染まり、顔も墨で覆われていて、目だけがかろうじて白く残っていた。口の周りにはにじんだ墨が広がり、まるで漫画のキャラクターのような姿だ。通りすがりの他の部活の生徒たちは、クスクスと笑いながらこちらを見て、さらにはスマホで写真を撮り始めた。
もう笑うしかなかった。
私は再び卓球台の前に戻ると、大きな白い紙が置かれた卓球台に乗り掛かり、そのまま体ごと紙に突っ伏した。次の瞬間、まるで魚拓のように私の体が紙にくっきりと写る。
部員たちは大喜びして、「人拓完成!」と拍手を送ってくるなか、ついに私はキレた。近くにあった墨汁のバケツを掴み、一番近くにいた部員の頭をバケツに突っ込んで、別の白い紙の上に「くたばれ」と書いた。
その瞬間、部室全体が爆笑に包まれた。
「そうだ! これが俺たちの勝利の姿だ!」と、サトル先輩が満足そうに笑っている。その真剣な顔と全身真っ黒な姿のギャップに、私は思わず笑いがこみ上げてきた。
「いや、もう、何やってるんだろう?」私は呆れたように言いながら、それでも笑いが止まらなくなった。
サトル先輩が墨汁のバケツを手に取り、私に差し出してきた。「ユウナも、もっと楽しめ!」
私はそのバケツを受け取り、真っ黒な液体を眺めると、思い切って自分の頭の上にバシャッとひっくり返した。冷たい墨汁が頭のてっぺんから流れ落ち、顔、首、そして制服全体に広がっていく。髪は墨でびしょびしょになり、重たく肩にまとわりついた。
「おー! ユウナも完全体だ!」リョウ先輩が大笑いする。部員たちも楽しそうに、墨汁をかけ合い始めた。卓球台も、床も、壁も、墨汁で真っ黒になっていく。
私も夢中になって、笑いながら墨をみんなにかけ返した。みんなで泥遊びならぬ、墨汁遊びに没頭していた。私は何回も黒い液体を浴びるが、完成に真っ黒になってしまった体はもはやどうでもよく、冷たい感覚が心地よかった。
そのときだった。
「……お前たち……何をやってるんだ……」
突然、低い声が部室に響き渡った。振り返ると、そこには顧問の先生が立っていた。私たちは全員、その場で硬直した。
(顧問、いたんだ……!)
先生は、まるで信じられないものを見たかのように目を大きく見開き、次にその手で額を押さえ、深いため息をついた。先生の目の前には、真っ黒な私たち、墨汁まみれの部室、そして卓球台。完全にカオス状態だった。
「……なんてことだ……」顧問は呆然としながらも、激怒することなく、ただ頭を抱えていた。
私たちも、どう言い訳をするべきか分からないまま立ち尽くしていた。サトル先輩ですら、言葉を失っている。顧問は、しばらくその場で頭を抱えたまま黙り込んでいたが、ついに力なく「掃除しておけよ……」とだけ言い残して、静かに体育館を後にした。