練習しない卓球部の憂鬱
五月の空気は、少し湿り気を帯びていた。校庭の木々が緑を増し、風に揺れる葉がちらちらと日の光を反射している。制服は長袖から半袖のブラウスに変わったけれど、まだ少し肌寒く感じることもある。白いブラウスにネクタイを結び、スカートはネイビーのチェック柄。すっきりとした制服は気に入っているはずなのに、今日はなんだか落ち着かない。どこかで服装が浮いて見えるんじゃないかと感じてしまう。
昼休み、クラスメイトたちが机に集まって談笑しているなか、私は静かに窓際に立って外を見ていた。ふと、背後から誰かの声が聞こえてくる。
「田中さんってさ、なんか卓球部入ったって聞いたけど……あれ、部活って言えるの?」
クラスメイトの一人が笑いながら話しているのが耳に入る。彼女の軽い調子に、周りも笑い始めた。
「ほんと、練習してるとこ全然見たことないし、ただの遊びみたいなもんでしょ?」
その言葉に、私の顔が少し熱くなるのを感じた。内心ではムカついているのに、言い返す勇気は出ない。そのまま会話に加わることもできず、私は窓の外に視線を戻す。周りの笑い声がいつもより耳に残って、居心地の悪さが胸に広がった。
ため息をつきながら、カバンを肩にかけて教室を出る。午後の授業が終わった後、私はいつも通り卓球部の部室に向かう。少し曇った空が広がっていて、風が強く吹いている。湿った風が制服のスカートを揺らす。髪が少し乱れるのを手で押さえながら歩いた。
部室に着くと、薄暗い空気が迎えてくれる。窓の外は曇り空で、太陽の光がほとんど入らないせいか、いつもよりも冷えた感じがする。先輩たちは相変わらず、何もしていない。サトル先輩はラケットを持っているけれど、それを振ることもなく、じっと眺めているだけだ。
「お疲れー」サトル先輩が、私に軽く声をかけてきた。彼の声も、どこか気の抜けた感じだ。部員たちが集まっているけれど、誰もラケットを振る様子はない。窓際では、リョウ先輩が椅子にもたれかかり、目を閉じている。どうやらまた「イメージトレーニング」をしているらしい。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、部室の中に外の湿った空気を運んでくる。その風の中で、先輩たちはリラックスしながら、談笑していた。
「今日も風が強いな。これじゃあ練習する意味ないよな」と、サトル先輩がぼんやりと外を見つめながら言った。
私は何も言えず、ただ静かに席に座る。こんな日が続いてもいいのか、私の中でどこか引っかかる気持ちがあるのに、言葉にすることもできないままだった。
「そういえば、試合っていつなんですか?」
私はふと思いついたことを尋ねた。入部してからかなり日が経っているし、部活が本来どういうものなのかも気になっていた。とくに、この部活が本当に試合に出られるのかが疑問だった。
「試合?」サトル先輩が思い出したように顔を上げた。「えーと、来週だったかな。まあ、大したことないさ」
「来週!? 来週、ですって!!」
私は思わず立ち上がり、叫んだ。サトル先輩につかみかかろうとする私に、先輩たちは部室の隅に置いてあった網をつかみ、私に向かって投げる。網は私に絡みつき、哀れなシカのように動けなくなる。
私は心の中で、「来週」という言葉を反芻した。思っていたよりも早いじゃないか。何も準備していないのに、どうするつもりなんだろう? 焦りが一気に胸に広がったが、先輩たちはまるで試合に出ることを忘れているかのように見える。
「でも、来週ってことは、そろそろ準備しないと……」私は慎重に口を開いたが、サトル先輩はのんびりと笑っている。
「大丈夫、大丈夫。試合なんて、やる時になれば何とかなるもんさ。無駄に練習しても疲れるだけだよ。それよりも、休んで体力温存した方が勝率が上がるんだ」サトル先輩は軽く肩をすくめて言った。
体力温存? いつこの人が体力使ったの? この人若そうに見えるけど、八十歳のおじいちゃんだったりしないかな? 私より歳上なのは間違いないんだし。
「でも、試合って勝たなきゃ意味ないんじゃ……?」
私は不安げに続けたが、サトル先輩は気にする様子もなく、外に目をやった。
その時、リョウ先輩がゆっくりと椅子にもたれかかりながら、口を開いた。「ボールってさ、速すぎるよね。追いかけるのが大変だし、そもそもあのスピードで練習するのって無駄じゃない?」と、まるで自分が何か発見したかのように言う。
「だから、俺はスローモーションで動くことにしてるんだよ」そう言うと、彼はゆっくりと手を上げて、スローモーションでラケットを振ってみせた。「こうやって体に動きを染み込ませれば、実際の試合のスピードも対処できるんだよ」
私は思わず目を見張った。本気で言ってるの? それとも高度な哲学の話をしてるの? アルゴリズムのバイアスの話をする前に、ご自身の粗末な認知バイアスをどうにかしたほうがいいんじゃないかな?
でも、周りの先輩たちは特に驚く様子もなく、むしろ「なるほど」という顔をしていた。私はますますこの部活に対する不安を感じた。
「試合のときって、最終的には運だよね。風とか、相手のミスとか、そういうのが重なれば勝てるからさ」と、サトル先輩はさらに軽く言い放った。
その言葉を聞いて、私は頭を抱えたくなった。たしかに運は大事かもしれないけれど、それだけで勝てるわけがない。試合に向けて何の準備もしない部員たちの様子を見て、私の中で焦りがどんどん膨らんでいく。
翌日、私はまた部室に足を運んだ。窓の外では風が強く吹いていて、雨が降りそうな気配が漂っていた。試合の日が迫っているのに、部員たちはいつもと同じように、やる気のない様子で座っている。
「来週、試合ですよね?」私はもう一度念押しするように聞いてみた。
「そうそう、だけど今日は風が強すぎるから、練習しても意味ないよな」と、サトル先輩は寝そべりながら答えた。
部員たちの反応は相変わらずだ。誰も焦っていないし、誰一人として練習をしようともしない。私の中で再び疑問が膨らむ。「このままで本当にいいのか?」という思いが、頭から離れなくなっていた。