練習しない卓球部の瞑想および迷走
部室の空気は、相変わらずぬるい。春の風が時折窓から吹き込み、薄暗い室内に少しだけ外の気配を運んでくる。外の風がカーテンをふわりと揺らすと、柔らかな花の匂いが漂ってきた。それに気づいたサトル先輩が、のんびりと鼻をひくつかせているのを見て、私は思わず小さく笑ってしまう。古びた卓球台が私の目の前にあるけれど、今日も誰一人としてそれに触れる様子はない。ここに来るたびに、私は同じ光景を見る。
サトル先輩は、今日もいつものようにラケットを手に取って、その表面をじっと見つめていた。
「ラケットはね、ただ握ってるだけでも感触を忘れないんだよ」と彼はいつも言う。実際にラケットを振る必要はないんだ、と彼は笑っているけれど、私はその言葉を聞くたびに本当にそれでいいのかと疑問に思ってしまう。振らないラケットで卓球はできるのだろうか? その手をきゅうりに持ち替えて、塩でも揉み込んだほうがよほど有益だろう。
「それって、本当に意味あるんですか?」思わず口に出してしまった。
サトル先輩はラケットを見つめたまま、「ん? もちろんさ」とゆったりと答えた。
「ラケットはただの道具じゃないんだ。心で感じ取るものなんだよ。こうして毎日持ってるだけで、俺は卓球とつながってる気がするんだ」
「でも、試合の時に振らなきゃ勝てないんじゃ……?」
私は半ば冗談のつもりで言ったけれど、彼は真面目な顔で頷いた。
「まあ、試合の時はね。でも、ほら、振るのはそのときだけでいいんだよ。無駄に振ると、ラケットのエネルギーが逃げちゃうからさ」
ラケットのエネルギー? 量子力学やナノテクノロジー、非ユークリッド幾何学の一分野の話かな? この人はほんとうにアホじゃないだろうか。私は返す言葉を失ってしまった。まさか、本当にそんなことを考えているとは思わなかったからだ。
「そうだ、イメージトレーニングって知ってる?」サトル先輩が急に話題を変えた。「ほら、あそこにいるリョウはそれをやってるんだよ」
指さされた方を見ると、リョウ先輩が机にもたれかかって目を閉じていた。彼はいつもこうして座っているだけで、実際に卓球の練習をしている姿を見たことがない。今も、まるで昼寝をしているかのように、静かに目を閉じている。
「イメージトレーニング、つまり脳を使って練習するんだ。試合の状況を頭の中で完全に再現して、それを乗り越えるんだよ」とサトル先輩が真剣な表情で説明する。
「でも、それで実際に上達するんですか?」私は少し不安を感じながら尋ねた。
「もちろんさ。リョウはもう何回も頭の中で勝ってるからね。実際に練習するよりも効率がいいんだよ。イメージさえ完璧なら、試合も完璧にこなせるんだ」サトル先輩は大きく頷いて、自信満々に語る。
そのとき、リョウ先輩がゆっくりと目を開けた。「イメージトレーニングの途中なんだけどさ、実際に試合に出たときの緊張感とかも頭の中で感じ取れるんだよね」彼は少し眠そうに目をこすりながら言った。「一度試合に出れば――いや、試合に出る前から、もう準備はできてるんだ」
私は彼の言葉を半信半疑で聞いていた。確かに、練習の一部としてイメージトレーニングが役に立つことは知っていた。でも、それだけで上達するものなのだろうか?
窓際では、別の先輩たちが椅子にもたれ、ぼんやりとしている。彼らは、最初から何もする気がないように見える。
「疲れた体では練習しても意味がないからね」と、目を閉じたまま一人の先輩がぼそりとつぶやいた。彼の声は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「でも、今日は動いてないですよね?」私は思わず言い返した。
「いやいや、動かないのも練習の一環なんだよ」と彼は目を閉じたまま答えた。「体を休めることも、卓球の技術を高めるためには必要なんだ。疲れた状態で練習しても意味がないからね」
そのとき、別の先輩が突然目を開けて、「手首さえ鍛えれば、試合は余裕だよ」と自慢げに言った。「ラケットなんて要らないんだ。柔らかい手首があれば、それだけで勝てるんだから」
ラケットがいらない? ワームホールの話をしているのかな? 私はアインシュタインも腰を抜かすような言葉に驚いて、「え、本当に手首だけで勝てるんですか?」と尋ねた。
「もちろんさ。試合は最終的に手首が決めるんだよ」と彼は真剣な顔で答えた。「俺の手首は特訓済みだから、ラケットを振らなくても勝てるって自信がある」
私は呆れて言葉を失いかけたが、周りを見ると、他の先輩たちも真剣に彼の言葉に頷いていた。これが本当に卓球部なのかと毎回心の中で問いかけてしまう。ラケットも卓球台も使わず、ただ座っているだけの部活って、何かが違う気がする。禅宗――つまり臨済宗と曹洞宗の僧侶だって、もっと真剣に修行するだろう。
外は少しずつ暗くなり始め、窓の外の夕日がゆっくりと沈んでいく。部室の中は相変わらず静かで、誰一人として年老いたナマケモノのように動こうとしない。私の心の中では、「このままで本当にいいのか?」という疑問がますます大きくなっていった。
それでも、どこかこの緩い空気が心地良い。私にとって変に居心地が良いのも事実だった。