踊るロボット
「美代ちゃん、踊ろう」
親友の天音ちゃんが手を差し伸べてくれた。
「……うん」
私は、天音ちゃんの手を握ると立ち上がった。すっと悲しい気持ちとか恥ずかしい気持ちとかが無くなった。今にもこちらに駆け寄って来そうな大人に向けて精一杯の笑顔を浮かべると私と天音ちゃんは踊りの列に合流した。そして再び踊り始める。無我夢中で踊っていた筈だ。とても暑い日であったことを覚えている。
この時の私は何を考えていたのだろうか。はっきりと思い出せない。思い出そうとすると記憶はチカチカと瞬いてとても直視できなくなる。子供のころの私は脆く純粋で大人の私にとってはあまりにも遠い存在だ。
色々と考えてしまう。今の私は幸せなのだろうかととか、これからどうしようとか。私は窓枠に肘を掛けるとぼんやりと外を眺める。沿岸伝いに敷かれた路線の車窓からは土佐湾を眺めることが出来た。高校、大学と通学の度に目にしていた馴染み深い風景だ。いや、あの頃は窓の外を眺めて感傷に浸ることなんて無かったか。でも、いつも日常の側にあった景色だ。
中学生1年生の夏、開通したばかりの電車に乗って街に出たのを覚えている。延びていく線路はどこまでも続いていくようだった。世界が開けていくような高揚感があった。あの時の私は綺麗な感情に包まれていた筈だ。でも何を考えていたのかはやはり思い出せない。ただ、濾過された感情だけが手元に残っている。
「芋けんぴ食べますか?」
不意に声を掛けられた。そして機械油の匂いがした。顔を向けると男が立っていた。まるで徹夜明けのような妙に爛々とした目と目線が合ってしまう。私は目線を逸らすと男の姿をざっと観察する。服装は紺色の作業服、髪は短くまとめられていた。そして右手に芋けんぴの袋を持ち、こちらに差し出していた。左手には重そうな鞄を持っている。一体、いつから電車に乗っていたのだろう。こんな男がいたら見逃す筈が無いと思うのだけれど。
「何の用ですか?」
私は鞄の中のスマホにそっと手を伸ばす。
「泣いていらしたようなので」
私は一瞬何を言われたのか分からなかった。でも男はどうやら善意で声を掛けてきたらしかった。私は男の言葉を反芻する。そして、その時、初めて自分が涙を流していたことを自覚した。これは何の涙だろう。感傷の涙だろうか。不安の涙だろうか。私は、どうやら自分で思っていた以上に精神的に参ってしまっていたらしい。
「芋けんぴ食べますか?」
男はもう1度言葉を口にした。私は笑いたくなる。これは慰めの言葉なのだろうか。常識外れの男だ。こんな男がこれまでどうやって生きてきたのだろうか。でも悩みは無さそうだ。
「いえ、要りません。お気遣いありがとうございます」
「そうですか。美味しいのに」
男は袋から1本芋けんぴを取り出すと口に運んだ。ただ、それだけの所作だったが思いの外、上品な手の運びだった。職人の手つきとはこういったものなのだろうか。芋けんぴを指で摘まむ様は、ロボットアームを思わせた。
「ふふっ」
思わず、笑い声が漏れてしまう。本当に奇妙な人だ。人の所作を見て、ロボットアームみたいだなんて思ったのは初めてである。
「どうかなされましたか?」
「いえ、手先が器用な方なのかなと思いまして。ロボットアームみたいだなって――」
「ロボット。ロボットがお好きなんですか?」
男はロボットという言葉に妙に食いついてきた。
「いえ、物の例えです」
私は気圧されながらも答える。
「そうですか。……僕は昔からロボットが好きでしてね。産業用ロボットの清潔で冷酷な感じも好きですけれど、絡繰り人形をルーツとするような遊びのあるロボットが特に好きです。ロマンがあります。だから、ずっと自分でも造ってみたいって思っていたんです」
男は一瞬、寂しそうな表情を浮かべたが、すぐにその表情を消すと、感情のスイッチを切り替えたかのようにスラスラと語った。目は一層、爛々と輝いている。私は、また、目を逸らす。どうもこの男の目は少し苦手だ。あまりにも眩しい。
「あの、お座りになったらどうですか?」
私は、空いている横の席を示した。実の所、殆どの席が空席であったが、横に座ってもらえれば目線を合わせずに済む。男は、遠慮がちに少し距離を置いて私の横に座った。私と男の間には1人分の空席があった。
「実は、長年の夢が叶ったんです」
男はそういうと、鞄からロボットを取り出すと、空席にロボットを置く。大きさは赤子程。ロボットっぽいロボットだ。頭は四角く、ウィーン、ガシャンと音でも出して動き出しそうなロボットである。でもよくよく見ればパーツを繋ぐジョイントの数は多く、人間の関節と遜色ないのではないかと思われた。このロボットを造るのに相当の時間と資金がつぎ込まれているのであろうことが、素人目にも想定できた。
「凄いですね」
私は当たり障りのない誉め言葉を口にする。本当に凄いと思っていた。このロボットは純粋な執念を突き詰めなければ造れない代物だろう。しかし、その気持ちを上手く言葉に変換できなかった。
「分かりますか。みんなで頑張って造ったロボットなんです。人間の動歩行、不安定な足の運びを学習させて――。いえ、ロボットには興味が無いんでしたね」
男は、急ブレーキをかけるように溢れ出そうになった言葉をせき止めてしまう。
「何か、凄いものだっていうことは分かりますよ。これは、どういうロボットなんですか?」
私が尋ねると、男の顔がパッと明るくなった。
「踊るんですよ、このロボット。お見せしましょう」
男はスマホを取り出すと、何やら操作をした。
「あ、忘れていました」
男は鞄を開けると、小物を取り出して、そっとロボットに持たせた。まるで、人形遊びである。そして、ロボットが静かに駆動し始める。実に滑らかな動きである。手、腕、胴、腰、脚、それぞれの動きが自然に結合され、ロボットがまさに踊っていた。ロボットが手首を捻ると、手に持たせた小物がカタンカタンと音を立てる。
私は、その音を聞いた一瞬、視界が明瞭になった気がした。あの時、――天音ちゃんと一緒に無我夢中で踊った時、或いは、開通したばかりの電車で街に行った時、私が何を考えていたのかが分かった気がした。
「美しいでしょう。サーボアンプ、あ、サーボモータを制御する部品の事です、に工夫がありまして、オーダメイドなんです。メーカさんとも徹底的に話し合って、最適なものを作成して貰いました。フィードバックの遅延が最小限になるように設計されているんです。クローズドループっていう制御方式なんですけど―― すみません、またつまらない話をしてしまいました。分からないですよね、こんな話したって」
男はまたもや自ら話の腰を折るように黙り込んだ。そして、動作を終了したロボットを持ち上げると鞄に仕舞う。
「最後に、あなたにロボットを見て貰えて良かったです」
「最後?」
「資金がね、もう無いんです。だからもうロボットは造れません。だから多分、もう最後です。僕も仲間達も生粋のロボットオタクでして、造ることに関してはかなりの腕前があると誇っています。でも、営業の才能はありませんでした。だから、これ以上の出資は望めません」
男の口調は明るかった。ああ、そうか、この男にも悩みがあるのか。私はようやく気が付いた。随分と視野が狭くなっていたものだ。
「……私は元気を貰えました」
「それは、良かったです」
男は、それきり口を開かなかった。私もかけるべき言葉が思いつかず、外を眺める。私はきっと子供の頃と同じように外を眺めることが出来ていたと思う。そして、私は、男にどんな言葉を伝えるべきか考えた。
「――では」
男が不意に立ち上がる。
「嘘やないきに。ほんまに元気出ちゅう」
私は咄嗟に言葉を発する。男は振り返ると、笑顔を浮かべる。決意が漲ったような満面の笑顔だ。そして、男は車両前方の降り口へと向かった。私は思わず追いかけそうになったがやめた。もう、これ以上の言葉を伝えられそうにない。
「……天音ちゃん」
私は、頑張って生きていこうと思う。結局のところ、答えは単純なのだ。人生はままならない。いつ終わってしまうのかさえ分からない。頑張ったって、何も残らないかもしれない。でも、私はあの踊るロボットを見て元気が出たのだ。だから頑張って生きる。
電車が停まった。終点だ。私は、電車から降りる。何だか、無性に芋けんぴが食べたくなった。