再び、すべてリセット
新章開始です!
ルーペスブルク帝国のグラドスバウム学園にリーゼッテが編入してから、そろそろ2ヶ月が経とうとしていた。
当初はアインベルガー家から通いで学校へ行くと言っていたリーゼッテだが、私と話して「前向きに今世を生きる」と決めたことから、入寮を決意。現在、寮生活である。もちろん、私も一緒だ。
公爵家令嬢のリーゼッテには、(公爵家よりも狭いが)一人で一室がもらえ、護衛の私もすぐ隣に部屋を与えられた。
なお私の部屋は、ベッドと小さな卓しかない狭い部屋である。
リーゼッテはその部屋を見るなり、自分の部屋と交換しようと言い出したが、それは当然ながら断った。いくらなんでも、そんなことは出来ない。
さて、編入試験はほとんどの教科で満点を出したリーゼッテだが……実はマナーの成績だけが恐ろしく悪かった。なので、現在、特別補習を受けている。
ただ、公爵家の令嬢のマナーがなっていないという実態を、公にしてはならないとの忖度が働いたらしく……この件は一部の教師しか知らないトップシークレット扱いである。
一応、リーゼッテの名誉のために少し弁明しておこう。
今世のマナーを習わなかった彼女に、確かに責任の一端はあるだろう。しかし、前世で秘書をしていたので、リーゼッテは"全くマナーがなってない"訳ではない。
前世と今世のマナーの違いが、問題なのである。
例えば、お茶の飲み方。
ティーカップの取っ手は親指・人差し指・中指でつまむように持ち、小指は立ててはいけない。しかし、今世では取っ手に指を入れて、小指をピンと真っ直ぐに立てて飲むのが優雅なのだそうだ。
反対に男性は、すべての指は内に丸めて指先が見えないようにする。
また、食べるときにナイフやフォークが皿に当たってカチャカチャ鳴るのは行儀が悪いと思っていたが、こちらの世界では音を立てて食べるほど「美味しい」という意味になるので、音を鳴らすようにして食べるのが正解なんだとか。
正直、食事風景はかなりうるさかった。前世の感覚で見ると、ちょっと引く。
そうそう、使用人を呼ぶのに、グラスをスプーンで叩くのも仰天である。
使用人を呼ぶための専用の"ベルグラス"と、"ベルスプーン"が存在するのだ。
キーン!と美しく澄んだ音がするグラスとスプーンはとても高価らしい。綺麗に鳴らすのは、意外と難しいと聞いた。
ちなみに、リーゼッテがこちらのマナーに疎い理由は他にもあって……
5才で前世を思い出したリーゼッテは、皇太子の婚約者にならないよう引き籠もることを決めた。
一応、引き籠もりつつも勉強はきちんとこなしていたのだが―――マナー講師が特に「人前に出ろ」とうるさい人物だったので、マナー講座だけは早々に放棄してしまったらしい。そのうえアインベルガー家の皆は、極度な人前恐怖症は問題だがマナーは特に問題がないから、教師はいなくてもいいだろうと判断したようだ。両親がほぼ育児放棄だったことも悪かったかも知れない。常識的に考えて、教えてもらわずにマナーが身につくはすもないのに!
以上のような次第で、リーゼッテは帝国貴族として身に付けるべきマナーを知らないまま育ったのだった。
食事も、ほぼ一人でとっていたので、"音を鳴らす"マナーも知らなかった。初めて講師が実演したときは、目を真ん丸にして驚いていたくらいである。
ちなみに、私はリーゼッテの護衛兼侍女という立場になったので、私も一緒にマナー講座を受ける羽目になった。何故なら、私が以前にエルナと学んだ対貴族のマナーは、あくまでも店の接客用である。お付きの侍女のマナーはまた別物で、私は「全く出来ていない!」と怒られたのだ。
さらに主人のマナーが間違っている場合は私がフォローしなければならないらしく、私は貴族のマナーと侍女のマナー全部を覚える必要があるらしい。
前世の知識が邪魔をして、非常に……苦戦している。
また、護衛としても駄目出しをされた。これが、今の私には何よりのショックだった。
「いつも広い野外で戦えると思うな!高位貴族の屋敷で、そんな大きな動きをしていると、高価な美術品や家具を破壊しまくるだろうが!もっと小さく、無駄なく動け!!」
―――今日も、護衛術の教師ナルド・ブラオンの怒声が響いたかと思うと、あっという間に私は背中から地面に叩きつけられた。
一瞬の出来事で受け身をとることも出来ない。
「ぐあっ」
身体強化もしていなかったので(するなと言われている)、息も出来ず目の前が真っ暗になった。
「…………っ!」
なんとか意識を失うことはせず、必死に息を吐いて、呼吸を再開する。
うう、全身が痛い。バラバラに砕けたような気分だ。
ぬっと暗い影が差して、ナルドのニヤニヤした声が聞こえた。
「どうだ、黒チビ。気分は」
「最……悪です……」
「そうだろう、そうだろう。お前はもっともっと挫折を味わわねばならん!どん底まで落ちてこそ、人間は伸びる!」
はあ?!
どんな教育論だ!教師なら褒めて伸ばせ、褒めて!
こんな子供相手に容赦なさすぎる……!
腹が立って、体全体に力を入れて起き上がる。ナルドの後ろで、他の貴族の護衛を務める私と同じくらいの少年たちが、ハラハラしたようにこちらを見ているのが見えた。
そいつらは無視し、ぎろっとナルドを睨んだら、無駄のない肉付きの中肉中背の男はガハハと楽しそうに笑った。
「本っ当にお前は負けん気が強いな。ここまで痛めつけて、音を上げないヤツは初めてだ」
私もここまで徹底的にやられ続けるのは初めてだ。
絶対に、いつか、この男を思いっきりシメてやる。
すうっと息を吸って、再びナルドに飛び掛かる。その1秒後、私は簡単にナルドに背後を取られ……首を絞められた。
リーゼッテが身体中の青痣に薬草をすり潰したものを塗る。
「……くっ」
「あ、すみません、痛かったですか?」
「……大丈夫」
拳を握り締めて、呻くように答える。
痛い。痛いが、泣き言は言いたくない。
私の横で心配そうに見上げている白猫姿のアスラがプンプンした様子で唸った。
『むうう……あのモジャヒゲ、妾が全身を引っ掻いてやる!』
「だから、駄目だと言ってるだろう。仕返しは、自分でやる!」
『しかしの……明らかに、他の人間どもより主殿に対する扱いがヒドイではないか!』
アスラの言うモジャヒゲは、ナルドのことだ。ナルドは癖のある髪と(帝国人なので、当然、長髪)、無精髭が生やしているのである。
リーゼッテがアスラを見た。
「あ、あの……アスラさまは、何と?」
「ん?ナルドを引っ掻くってさ」
「それは……ぜ、ぜひ、引っ掻いてくださいませ、アスラさま!ひ、ひどいです、あのオッさん、社長だけボコボコにしてるじゃないですか!」
「こら」
いろいろとリーゼッテには打ち明けたので、ついでにリーゼッテのことを正式にアスラへ紹介した。なお、説明が面倒なのでアスラには前世の記憶云々の話はしていない。今後、この国で生活していく上で、重要な協力者だとリーゼッテを紹介した。
途端にアスラは美少女姿となり、リーゼッテを睥睨しながら、こう宣ったものだった。
「主殿の一番は、妾じゃ。その次はあの犬っころ。次がバカ鳥。そなたは、その下じゃからな。心して、我が主に仕えよ」
「はいっ!」
ちなみに、アスラはちゃんと他の人間にも聞こえるように話すことは出来る。
が、リーゼッテへの嫌がらせで、猫姿のときはわざとニャアニャアしか聞こえないようにしているらしい。リーゼッテがなかなかの美少女だったことに、ひそかに対抗心を燃やしているのである。
一方、リーゼッテは最初は悪魔に怯えていたが、菓子好きで意外と単純なアスラに今はすっかり慣れ、下僕として扱われることに嬉々としている。
そうそう。
この寮に、アスラ、アスワド、ミチル全部を連れて来た。アインベルガー家に置いたままは不安だったからだ。
アスラはいつもの白い子猫姿、アスワドは黒いチワワ、ミチルは青いインコになっている。
最初は、リーゼッテのペットとして持ち込もうかと思ったが……やはり漏れ出る闇属性で分かる者には分かるし、私に従魔がいることは周知の事実である。なので、私の従魔として堂々と連れて来ることとなった。
バルドリックの口添えもあったため、案外、簡単に許可は出た。ただし基本的に寮の部屋から出さないようにとのお達しである。
が、彼らは結構、勝手にうろつき回っているようだ。アスラいわく、この学園の警備はザルらしい。
……ま、普通は小動物にまで警戒しないものだろう。
アスラたちも、きちんと気配を消して行動しているようだし。
「それにしても……」
リーゼッテによる手当てが終わったので、私は茶の準備をしながら思わずぼやいた。
「今世はなかなか思い通りに物事が進まない……」
前世はそれまでに経験したことが、全て次に上手く繋がったのに、今世は全然繋がらない。
かなり強くなったと思ったのになぁ。ナルドには手も足も出ないし、マナー講師には鼻で笑われるし。
ナルドに言われるまでもなく、この頃は挫折感いっぱいだ。
「そのわりに、た、楽しそうですね?社長」
「んー、出来ないことがあるというのは、それを攻略する楽しみがあるってことだからかな。目標があるのは悪くない」
『じゃが、主殿がボコボコにされるのは納得がいかぬ』
まだアスラがブツブツ言いつつ、するりと人型になった。
ちゃっかり茶の席に着いている。
今日は……お茶受けがケーキなのだ。バタークリームたっぷりなので、猫の姿では食べにくいと判断したようである。
私は全身の痛みをこらえつつ、リーゼッテとアスラの前にそっとカップや皿を並べてゆく。
カチャ、と音が鳴った。
うう、筋肉を痛めているせいで上手く置けない。
食べる方は、カチャカチャと食器を鳴らすことがマナーだが、給仕側は音は立ててはいけないのだ。
音が鳴りやすいように食器は作られているので、静かに置くのは本当に難しい。
一方、リーゼッテも慎重な顔をしてカップを持ち上げている。
「こ、小指をピンと伸ばすって……結構難しいんですよね……。ゆ、指が攣りそうになります」
その横で、優雅に小指を立ててカップを持ち上げながら、アスラがニヤリと笑った。
「ふふん。モシャ娘はやはりダメ娘じゃな。横で見ているだけの妾の方が、もう完璧なおジョーさまじゃ」
「もう、モ、モシャモシャじゃないです、アスラさま」
「何を言う。朝はいつも爆発しておるではないか。そのうえ毎日毎日、主殿の手を煩わせおって!そなた、下僕としてなっておらん!」
「うっうっ……だ、だって、髪をいじるの下手なんですもん……」
入寮以来、毎朝繰り返している争いがまた始まりそうになったので、私は溜め息をつきながら仲裁に入ることにした。
あまりリーゼッテを虐めすぎると、せっかく学園では謎めいた美少女で通しているのに(マナーがなってないことがバレないよう、他とあまり交流していないのだ)、どよーんと黒い雲を背負った陰気少女になってしまう。
「アスラ。一応、"お嬢さま"の支度を手伝うのも仕事の一つなんだ。アスラも今夜は髪を結んでやるから。どんな髪型がいい?」
「む?……そ、そうじゃな。あの三つ編みとやらで髪を上に上げる髪型が良いの」
「わかった」
本当は自分の髪も結って欲しかったアスラは、途端にニコニコとして、ケーキを食べ始めた。
……まったく、これじゃどっちが主か、分からないよなー。
新章開始記念に、おまけ話を活動報告に上げていますので、興味のある方はどうぞ~。




