表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

第九話

 二日後の朝、アマベ青年が約束の時間に外へ出ると、通りに止めてあった白の軽自動車から父が手を振っているのが見えた。車に乗るのは赤子の時以来だったため少し気後れしたが、彼の気持ちをそぎ落とすほどのものではなかった。

「ごめん。かなり待たせたのかな?」

 青年はドア越しにそう尋ね、車の助手席に乗ってシートベルトを着用した。備え付けの空調が顔に当たって汗を冷やした。少しだけタバコのにおいがした。

「いや、気にしないでくれ。俺が早く来すぎたんだ。息子を車に乗せると思うと緊張してな」と父は恥ずかしそうに笑いながら言った。

 それに対して青年が微笑み返すと同時に車は発進した。


 車は夏の空気を切り裂きながら速度を緩めることなく京都市を駆け抜けた。左京区を抜け、東山区を抜け、とうとう青年が知らない景色ばかりになった。

「ねえ、お母さんはどこの病院にいるの?」

「ん?施設の人から聞いてないのか?」

 信号が赤になり、父はウィンカーを出して車を止めた。青年が頷くのを見て彼は続けた。

「お前を生んだ時は京都市の病院にいたんだけどな。今は宇治市の病院にいるよ」

「ウジ市?」と青年は聞き返した。

「ああ、宇治市。伏見区の下で城陽市の上にある市だな」

「フシミ・・・?ジョウヨウ・・・?」

 聞いたことのない地名が次から次へと出てきて、彼は混乱した。そんな青年を横目で見て、父は愛おしそうに笑った。

「何だ、知らないのか?」

「うん。あんまり遠出したことがないからさ」

「そうか。それじゃあ、いつか予定が合うときにドライブにでも行こうか?」

「うん。ありがとう」

 信号が変わり、車は右折した。そのまま進むうちに京都文教大学が見えてきた。

「あの大学の手前でちょうど宇治市だよ」と父は指さしながら言った。

 青年の心臓は激しく鼓動し始めて息が浅くなり、緩んでいた口が真一文字に結ばれた。彼の緊張をけどったのか、父はもう何も言わずに運転を続けた。


 平日だったためか、病院の駐車場は空いていた。サイドブレーキをかけてエンジンを切ると車内は静まりかえり、外からの熱気と蝉の鳴き声が少しずつ車内を満たし始めた。

「俺は車で待っているから、タロウだけで行ってくるといい。人目なんか気にせずに、話したいように、話したいだけ、話してくるといい」

 青年は父の言葉に無言で頷き、車のドアを開けた。ドアの隙間から熱と音が滑り込んできて青年の体に次から次へと触れた。

 蝉の鳴き声と七月の京都の暑さ。記憶の片隅にある懐かしさを五感で感じ取った。体を包む空気は青年を歓迎するようにあるいは再開を喜ぶかのように彼の全身を愛撫していた。

 空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。それを繰り返しているうちに、青年は勇気づけられた。緊張は期待へと、少しずつその性質を変えつつあった。行こう。青年は一歩踏み出した。この先に何が待っていたとしても、僕はもうひとりぼっちじゃないんだ。


 院内は、壁も床も天井も、見渡す限り真っ白で、母親がいる病室の扉も景色に埋もれてしまいそうなほど白い。アマベ青年は何度も見落としてしまったが、たとえどれほど時間がかかっても、その扉を見つけることができた。

 青年は最後の深呼吸をして扉をノックした。できるだけ小さくて自然なノックをしようとしたにもかかわらず、力を込めすぎてしまい、大きくてぎこちないノックを辺りに響かせてしまう。近くを歩いていた患者や看護師たちが驚いた様子で青年を見たが、すぐに彼から関心をそらした。青年も自らのノックに驚いてその場で固まった。ノック音が心臓に反響するのを感じた。

「はい。どうぞ」

 病室から声が聞こえた。年老いた女性の声。彼は我に返って扉に手をかけ、開いた。

 そこにいたのは間違いなく母だった。頬は痩せこけ、ボサボサの髪は白髪にまみれ、目に見える皮膚は木の幹のようにしわだらけで、体は小指のように小さい。しかし、青年が産まれた時に初めて見た顔の面影が彼女には確かにある。母親は青年を視認するやいなや、目を落としてしまいそうなほど大きく開き、息をのみ、顔を覆った。手の間から嗚咽が漏れ出していた。あれほど騒がしかった蝉の鳴き声さえいつの間にか聞こえない。

「ごめんなさい!すぐに出て行くから」

 彼の期待や勇気はすっかり打ち砕かれ、情けなく及び腰になりながら後ずさった。彼女は手を顔から浮かせ、泣き声を飲み込んで言葉を紡ごうとしている。

「違うの、嬉しくて・・・。こっちに来て顔をよく見せて?」

 青年は怖ず怖ずとベッドに近寄った。近づけば近づくほど、その女性は朽ちかけた樹木にしか見えなくなる。彼女は時折声を漏らして泣きながら近づいてくる青年を見ていた。

「・・・立派になったねえ。大人になったんだねえ。もう一五年も経つんだものねえ。一五年も・・・」と母親は言って、再び激しくむせび泣いた。

「・・・分からないよ。一五年なんてあっという間だったし、もし僕一人だったら何年かかってもここまで来られなかったと思う」

 そう言って青年が彼女の背中をさすると、彼女は耐えきれずに慟哭した。

「ごめんなさい・・・。本当に・・・、ひどい母親でごめんなさい・・・。ごめんなさい・・・」

 痩せ細った木のような母の体に青年の太くて力強い腕が回され、肩に彼女の体温を感じる。夏だというのにとても冷たい。彼女はあまりにも泣きすぎてしまったのか、乾いた枯れ枝よりずっと軽い。言い知れぬ不安と切なさがあふれだし、青年は母を固く抱きしめる。落ち着いてもらうために頭や背中を撫でても、彼女の悲しみは増すばかりでやるせない。どうして、と青年はぼんやりと思う。どうして僕はいつもうまく気持ちを伝えられないんだろう。不意に蝉の鳴き声が聞こえてきた。しかし、それは彼の中でずっと鳴り続けていた記憶の残響だった。青年が腕の力を緩めると、彼の頬は母の頬と触れあう。両手は彼女の後ろに回したままで背を支えている。母の顔が見える。しわくちゃで醜くて惨めな老婆。一五年もの間ひたすら自分を苛み続けてきた存在。いろんな感情が渦を巻き、いろんな言葉がはばかろうともしない。どうすべきか、そんなことは青年には分からない。どうしたいのか、それも分からない。しかし、体は自然に動いている。彼はあらん限りの感情をこめて微笑み、母の頬に顔を近づけていく。それから、彼は彼女へキスをした。


 いかなる雑音も蝉の声に阻まれてその病室への侵入を許されなかった。その先では、いつも通りの京都における、とある日の一幕と一五年の数奇な人生の終幕が密かに流れていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ