第八話
それからしばらく、彼の目の前は白一面になって口は開いたまま動かなくなった。少しずつ衝撃の波が過ぎ去り、目が現実の光を捉え、口は形ある言葉の紡ぎ方を思い出した。
「あ、え?父親?」と青年はようやく絞り出した。
ヤスダは黙ってうなずくだけで、何も言わなかった。おそらく自分だけで会話をしろということだろうと青年は解釈し、父親と呼ばれた男性に向き直った。彼の中にあるのは驚愕だけだった。こうやって自分に会いに来る父親がいるということへの純粋な驚き。あの母親は配偶者でない男性との間に自分という子供をつくったのだろうと彼は納得していたため、母親ならまだしも父親が訪ねてくるとは予想だにしていなかった。自分の半身である父に会えたことへの感動や一五年も息子を無視していたことへの怒りなどというものはつゆほども含まれていない、純然たる驚愕だった。
「ええと、えへん。はじめまして、アマベといいます」青年は切り出した。
「はじめまして。下の名前はなんと言うのかな?」男性が言った。
「タロウです」
「ふむ、漢字でどう書くんだい?」
「いえ、ひらがなで“たろう”です」
青年がそう言うと、彼は一瞬間だけいたく悲しそうな顔をしたが、それはすぐに緊張の色と打ち消し合い、最後には中立的な表情だけが残った。
「そうか、タロウか。素敵な名前をもらったんだな」
そのやりとりを見ていたヤスダは思わず口を挟んだ。
「あの、お父さん。ご用件は私の方からタロウに伝えておきましょうか?」
「いえ、結構。今日はすぐに帰りますから」
男性が穏やかにそれでいて力強く制止したため、ヤスダは再び黙ってうつむいた。
「む、えへん。・・・タロウ、まずは謝らせてほしい。この一五年間、君を引き取らずに過ごしてしまったこと、本当に申し訳なかった」
彼はテーブルに額がくっつくほど深く頭を下げた。そして、ゆっくり顔を上げて続けた。
「これは、私の自己満足のための謝罪だ。だから許してほしいわけでも同情してほしいわけでもない。一五年間、君が私に対して抱いてきた感情が抱くべき正しい感情だ」
「・・・うん。分かった」
青年は父親である男性に怒りも憎しみもなかった。強がりでも突き放しでもなく、本当に気にしていなかった。それでも、それをここで口にしてしまうのは彼の父親としての葛藤や苦悩を無下にすることになると考え、無難で短い返事にとどめた。二人の間の空気は自然と同調し始め、青年の緊張は雪解けのように緩やかに流れ去っていった。沈黙の音の中に一筋の水が流れる音を聞いた。
「あと一つだけ、これが君に会いに来た目的なんだが、伝えなければならないことがある」男性はかしこまった調子で口を開いた。
空気が改めて張り詰めるのを感じて、青年は黙って続きを待った。
「君の母親は、君を産んですぐに意識不明になった。そのことは聞いているよね?でも、つい先月に目を覚ましたんだ。そして君に会いたがっている」
父親である男性が帰った後、青年は部屋でぐったりと横になっていた。父親が突然現れたこと、母親が意識不明だったということ、彼女が自分に会いたがっているということ。いろんな衝撃が三〇分足らずで大量にやってきたため、起伏の少ない生活を送っていた彼はすっかり打ちのめされてしまった。産まれた時に初めて見た光景、悲痛そうに自分を見る母の顔が再び這い上がってくるのを感じた。あんなに嫌そうな顔をしてたのに、僕に会いたいだって?一五年も会いに来なかったくせに?でもそれは意識不明だったからなのか?あるいは僕に身の回りの世話でもさせるつもりなのか?まとまりのない思考が脳の前を過ぎては裏を回り、また前を通った。考えれば考えるほど、暗いイメージが浮かび上がり、否定的な感情ばかりが湧き繁った。
何をしても集中できず、このままでは就寝もままならなかった。アマベ青年は気がつくとヤスダがいる部屋のドアをノックしていた。そして、無言で部屋の隅にあるスツールに腰掛けた。
「どうした?昼間のこと、悩んでるのか?」ヤスダは机をにらみつけたまま言った。
「・・・うん」少年も床を眺めながら言った。
「別に悩む理由なんかないだろ。会うだけだしよ」
「でもどうしてこのタイミングなんだろう。僕を介護とかで都合よく利用するつもりなのかもしれない」
「・・・本気で言ってるのか?それ」
「分かんないよ」
「もしお前の母親がそのつもりだったとしても、いまお前がこの施設でやってることと大差ないだろ」とヤスダは自嘲気味に笑いながら言った。
「そんなことない」
「あるよ。自分の得にもならないことを毎日毎日、何年も何年も続けてきただろ?俺に都合よく扱われて、あれしろこれしろって命令されてさ」
「・・・ヤスダがどういうつもりだったのかなんて関係ないよ。ヤスダのおかげで僕はあの部屋の外に出ることができたし、今こうやってお話できてるんだから」
「・・・」
「だから、いつもみたいにどうすればいいか命令してくれないかな?そうすれば、僕も自信が持てるからさ」
そう言って青年は顔を上げてヤスダを見た。彼は相変わらず顔をしかめながら机の上にある書類に目を通しているようだった。青年の声が辺りに行き渡るのを待って、彼は口を開いた。
「・・・俺はもう、お前に何も命令しねえよ。俺から見ればお前はもう立派な大人だ。俺なんかがいなくても、しっかりと考えて自分なりの結論を出せるはずだよ」彼は立ち上がり、扉に向かって歩いて行った。「もちろん、助言ぐらいならしてやれる。まあ、俺ができる助言なんてたかがしれてるだろうがな」
青年はうなだれながら、か細く息を吸った。
「分からないんだ、あの母親が僕のことをどう思っているのか。僕を忌避するような目が忘れられないんだ。でも、僕に会いたがってるって聞いた時、とても嬉しかったんだ」
言葉は床に吐き捨てられるだけで、誰に向けたものでもなかった。
「それならとりあえず会ってみればいい。それから考えればいい。もしお前の母親が純粋に我が子のことを案じてるだけなら、少しずつ親子の時間を取り戻せばいい。厄介ごとを押しつけるつもりなら、また俺に相談すればいい。・・・あと、何があろうともお前が帰ってこられる場所がここに一つだけあるってことを覚えていてほしい」
ヤスダはそれだけ言って部屋を後にした。しばらくの間、部屋には上を向いたまま目を瞑る青年だけがいた。




