第七話
ある日のこと、ヤスダに呼び出されたアマベ青年は彼のいる部屋に向かっていた。施設はしっかり手入れされているものの、青年が一三年前に入所した時よりはずっと古くなっていた。壁には細かいひびがあってそこにカビが生えており、廊下には足を乗せると抵抗なくへこむ箇所があった。具体的には分からないが何か雑用を命じられるんだろう、と思いながら青年が扉を開くと、ヤスダが座って待っていた。五〇代になってからの彼の老け込み具合はすさまじく、髪には手入れされていない畑の雑草のように白髪が生え乱れ、鼻の横には宿命的な呪いのように深いほうれい線が刻まれていた。一三年経っても容姿がほとんど変わっていない青年とは対照的である。
「おお、来たか」とヤスダは気怠げに言った。その気怠そうな様子だけは青年のおむつを取り替えていた頃から全く変わらなかった。
「うん。それで、何をすればいいの?買い物?屋根の修理?倉庫の整理?」
「いや、そうじゃないんだ。あー、テレビの調子はどうだ?新しいのが必要か?」
「二年前に買ってもらったばかりだから、まだ全然動くよ」
「んー、新しい小説がそろそろ欲しいんじゃないか?」
「大丈夫、ヤスダがいつも買ってくるからむしろ消化しきれないくらいだよ。DVDもね」
「そうか・・・」
「どうしたの?変なの」
青年がおかしそうに笑いながらそう言うと、ヤスダはきまりの悪そうに黙って目をそらした。彼はいつまでも黙ったままなので、青年の方から口を開いた。
「ええと、もう掃除に戻っていい?」
「いや、ちょっと待て」とヤスダは慌てて彼を制止し、少し考えてから話し始めた。「お前、働いてみないか?」
「働くって、仕事をするってこと?」青年は驚いて聞き返した。
「ああ」
「それならずっとやってきたし、何ならさっきまでやってたけど・・・」
「それは仕事ってよりは家事とか手伝いみたいなもんだろ」
「でもお金ももらってるよ?」
「そりゃ小遣いだ」
「なるほど。でも、僕はまだ一三歳だよ?法律に引っかからない?」
「・・・まあ、大丈夫だろ。知り合いの手伝いをするって体なら、多分」
「ふうん。それと、施設の掃除とかはどうするの?」
「んなもん本来は職員がなんとかするもんなんだよ!」ヤスダは語気を荒げて言った
「本来?」青年はきょとんとして繰り返した。
「・・・あー、そういう場合もあるってことだな。正しくは」
「そっか。それで、何の仕事なの?」
「新聞配達」
「新聞配達って、あの新聞を人の庭に放り投げるやつ?」
「昔は知らんが、今はポストに入れるやつだな」
「ポストに投げ入れる?」
「ポストに優しく差し込む」
「・・・そうなんだ」青年はがっかりした調子で言った。
「でも自転車に乗れないといけないんだったな」
「自転車!」青年はすっかり元気な声になって反応した。
「あれ?お前乗れるんだっけ?」
「乗れない!」
「・・・しょーがねぇーなあ」とヤスダは言い、そそくさと部屋を出て行った。
その後すぐに施設の前で自転車に乗る練習をしたが、アマベ青年はたったの五分で乗り方を習得したのだった。
朝の三時に起きて新聞を受け取り、それから二、三時間かけて担当の区域のポストに新聞を配って回る。単調な作業による精神的な苦痛と自転車をこぎ続ける身体的な苦痛があるため、新聞配達という仕事は短時間ではあるが大変な仕事である。しかしながら、アマベ青年にはなかなか相性の良い仕事のようだった。長年の雑用のたまものか、単調な作業に苦痛を感じることはなく、数時間自転車をこぐ体力もしっかりと培われていたのである。また、施設からほとんど出たことのない彼にとっては、たとえ左京区の紋切り型な住宅街を毎日代わり映えなく周回し続ける仕事だとしても、何もかもが新鮮だった。夏には朝日の一番風呂を浴びながら、冬には月光にろ過されて澄んだ空気を独り占めしながら、日々変化する京都の様相を自転車の上で楽しんでいた。
二年経つ頃には、彼は一時間足らずで左京区の担当区域を回るようになっていたため、東山区への配達も任されるようになっていた。そうなった後でも賃金は相変わらず相場よりかなり低かったものの、青年はそもそもお金をあまり使わず、施設で生活し続けていたため、彼の口座には二年分の給料がほぼそのまま残っていた。
一五歳になったアマベ青年はもう言葉の勉強をやっていなかったが、どうやらそれは読書や映画などの趣味へ完全に統合されたようだった。そのため、彼の語彙や言葉選びは同年代のものよりも遙かに優れていた。それに対して数字にはあまり強くなく、四則計算しか知らなかったが、彼は特に不便を感じたことはなかった。
青年はいつもどおり六時に新聞配達を終え、仮眠をとった後に雑用をしていた。彼が働き始めて以来、雑用のいくつかは職員がするようになったが、それでも全体の六割ほどは彼の担当だったのだ。施設の前の掃除と打ち水を済ませて浴室の掃除へ向かっていたところ、職員の一人にヤスダのもとへ今すぐ行くよう言われた。青年は職員のあまりの慌てようにひっかかりを感じながら、廊下を少し急ぎ足で進んでいった。施設は不自然な静けさに包まれていて、壁も床も天井も過剰に息を潜めているかのようで、どこか遠くから蝉の鳴き声が小さく聞こえるだけだった。湿気が虫の知らせのように肌にまとわりつき、薄ら寒さが彼の背を幾筋か伝った。
廊下の角を曲がると、ヤスダが客間の前に立っているのが見えた。彼は青年に気づくやいなや、手が飛んでいってしまうのではないかと思うほど激しく手招きをした。
「・・・遅いぞ」とヤスダは声を抑えて言った。
「ごめん。でも、どうしてここで待ってたの?」
「客だよ。お前にな」
「僕に?誰?」
彼は青年の質問には答えず、こわばった顔のまま客間の扉を開けた。青年は小さな不安を抱えたまま、彼の後を追った。
部屋にいたのは六〇代のくたびれた男性だった。アマベ青年は彼に見覚えはなかったのだが、相手はどうやら違うようで、青年が部屋に入ってきた瞬間に背筋を伸ばして座り直した。また、彼はひどく緊張しているようで、青年が自分の足音を彼の心音と聞き間違えてしまうほどだった。そして、向かい合って座って以降は、その男性は信じられないかのようなまなざしで青年を見ていた。じろじろと顔を見られてとても居心地が悪かった。相手に感化されてしまったのだろう、青年もひどく緊張し始めてしまった。二人の間では緊張同士がぶつかり合って奇妙な共鳴が起こっていた。
「あー・・・、アマベ。突然で驚くかもしれないが、この人が君の父親だ」
ヤスダが出し抜けにそう言った。
「え?あの、今なんて?」
水に潜っているかのように緊張感が身を包んでいた上に、全く予想したことのない言葉が聞こえてきたため、青年は思わず聞き返してしまった。
「父親、お父さん。この人が、君の」
アマベ青年はすっかり脳内が真っ白になった。