第六話
三枚目の鏡を雑巾で磨いていた時、浴室のドアが遠慮がちに開いた。その鏡はドアに一番近いところにあったので、少年は不意にドアノブが動いたのを見て驚き、相手も少年が意外にもドアの近くにいたことに驚いたのか、勢いよくドアノブを手放して後ずさった。浴室内の明かりを阻むドアの影が相手をまるごと覆ってしまっていたため、少年にはドアノブを握る白い手が一瞬見えただけだった。彼が困惑しながら目をこらして影を見つめていると、ためらいがちにドアが押され、暗がりの中からマナミが現れた。彼女が彼にいつも向けていた表情が、困ったようなおどおどしたような表情が次第に浮かび上がってくると、少年は改めて驚いて、体中の血液が沸き上がり、脳が空転し、心が抵抗しがたい浮遊感であふれかえった。マナミの全身がすっかり影から出た後も、彼はただ顔を熱くするだけでどうしようもなかった。必死で言葉を学んで脳内で何度も彼女と会話をしたにもかかわらず、いざ彼女を前にすると少年は頭が真っ白になって何も言えなくなってしまったのである。
「あの」マナミは、薄氷の上に足を乗せるかのように、おっかなびっくりといった感じで口を開いた。「お昼ご飯、いただきました。ありがとうございます」
少女がぺこりと小さく頭を下げる間に彼は返答を考えたが、脳はちぎれんばかりに身をよじるだけで、乾いた雑巾を絞ったときのように、一滴も気の利いた返事は出てこなかった。
「うん。よかった」
少年は結局そう言ったものの、それが自分の気持ちを一割も表せていないことがもどかしかった。彼の声は広い浴室をしばし跳ね回ったが、ついに情けなく水蒸気に飲み込まれ、その水蒸気は黙って二人の会話を見届けようとしていた。
マナミは何やら考え込んでいる様子で顔をしかめて床をにらみつけ、時々口を開いて何かを言おうとしてはためらうように口を閉じるというのを繰り返していた。彼女が口を開けて息を吸うたびに少年の肩は力を込められすぎてつり上がっていたため、彼女の口と彼の肩が透明な糸でつながっているかのようだった。
「・・・それと」
とうとう少女が言葉を紡ぐと、彼の体には動けなくなるほど力が入った。彼女はそれに全く気づかずに、カラフルなタイルを見つめたまま続けた。
「私が初めてここに来た時はありがとうございました。いろいろ迷惑かけちゃいましたよね」
彼女が言ったことは、偶然にも少年の妄想の中で最も繰り返されたものだった。彼はどう返事をすればいいかを何度も辞書をめくって考え、詰まらずに言えるまで何度も暗唱していたため、返答は口をついて出た。
「どういたしまして。それより施設にはもう慣れた?」
「ええ、まあ、はい。それなりに」
彼にはマナミが一瞬だけ笑ったように見えた。あまりの驚きと喜びで彼女の声は聞こえなくなっていた。
「それじゃあ、失礼しました」
少女は背を向けようとしている。アマベ少年の耳は破裂しそうな心臓の鼓動音で埋め尽くされ、視界は少しずつ黒に縁取られてゆく。僕に笑顔を見せてくれた。嬉しい。もっとお話しして笑ってほしい。でも恥ずかしい。でも次自分から話しかけるのも恥ずかしい。彼は白と黒に明滅する世界を瞬きひとつせずに凝視している。マナミの背が一歩遠ざかる。少年は我を失って矢のように飛び出し、彼女の手首をつかんだ。
「あの、待って・・・」
「嫌!やだ!離して!」
少年の言動を断ち切るかのように、マナミは驚くほどの大声を出し、信じられないほどの力で彼の手を振りほどいた。そして、体を震わせながらその場にへたり込み、嗚咽し始めた。
「おい、どうした!」
偶然近くにいたのか、ドタドタと足音が近づいてきて、ヤスダが角から現れた。彼は唖然としてマナミとアマベ少年を交互に見た。
「本当にどうした?何があったんだ?」
彼が少年にそう尋ねても、当の少年は少女から目を離せずにいて、口をパクパクするだけだった。
ヤスダが部屋に戻るように言ってもアマベ少年は微動だにせず、手を引っ張られてようやくふらふらとしながら廊下を歩き出した。彼が角を曲がるのを苦い顔で見届けると、ヤスダは少女に向き直った。
少年は数年ぶりに泣きたくて堪らなかった。マナミが自分の手を振りほどいた時の光景が何度もフラッシュバックしては体が震えた。怯えた表情。鋭い声。指から荒々しく逃れる手首。彼女の拒絶。僕のせいであの子は泣くほど嫌な気持ちになったんだ。あのむせび泣く声がまだ耳の中で暴れていた。少年は格子付きの窓から空を見上げたが、座りながらだと草も木も見えなかったため、雲一つ浮かんでいない空は夏のそれと見分けがつかなかった。ふと、悲痛そうな嗚咽の中に蝉と草木の声が聞こえた気がした。
数十分ほど経った後、部屋のドアが開かれた。驚いた少年が振り向くと、ヤスダがそこに立っていた。彼の心の中は再び不安でいっぱいになった。
「マナミから顛末は聴いたよ。それで・・・」
「ごめんなさい。子供を泣かせて、ごめんなさい」
彼はヤスダが全て言い切る前に、土下座のように手をついて何度も頭を下げた。
「いや、いいんだ、・・・やめろよ。今回ばかりは全部俺の責任だ」ヤスダは力なく言った。
「でも、僕のせいでマナミは泣いちゃったんだよ?」
「それはそうだけどよ」彼はため息をついて頭をかいた。「マナミは、あー、その、何だ、親からの暴力が原因でここに入所することになったんだよ。だから、大人の男性から触られると、さっきみたいになるんだ。そのことをお前に伝えておくべきだった」
「・・・」
「それに、お前が突然言葉を勉強したがったのは、マナミと話すためなんだろ?」
少年は黙ってうなずいた。
「はぁ・・・、そうだったんだな。あの時すぐに気づくべきだったんだ。そうすりゃあ、もっと気を配ってやれたのに・・・」
「でも、やすたは悪くないよ」
「いいや、俺が悪い」
「どうして?」
「俺がお前の世話係だからだよ」
少年はなぜその理由がヤスダの責任に結びつくのか分からずに首をかしげた。
「一〇年も一緒にいたのに、察してやれないなんてなあ・・・」ヤスダはぽつりと呟いた。
「どういうこと?」
「・・・いや、別に。お前は真っ当に成長してるってことだよ。恋をして失恋する、一〇歳のガキなら誰でも経験することだ」
「成長・・・」
「そう、成長。大人に近づいてんだ。だから、マナミのことであんまりへこむなよ。あと、残りの雑用もさっさと片付けとけよな」
「うん。分かった」
少年が返事をすると、ヤスダは背を向けてドアに手をかけた。
「・・・そうだよな。糞にまみれて素手で飯を食ってたのはもう一〇年も前なんだよな」
彼の口から思わずそう漏れたが、少年の耳には届いていないようだった。
アマベ少年の初恋は結果として、やけどの跡のように、彼の記憶に消えない傷を刻み込んだ。しかしながら、初恋というものそれ自体は往々にしてそうなるようになっているのだろう。また、そのありふれた挫折が少年の成長を止めることはなく、日々太陽が山から出てはまた別の山へ沈むのを見習って、彼は毎日言葉の勉強に取り組んだ。そうするうちに、教材は幼児向けのものから小学生が実際に授業で使う教科書やドリルに移り、漢字も少しずつ扱えるようになった。
施設の子供たちと話すことはほぼなくなった。食事の時間もずらしたせいで“ごちそうさまでした”を言ってもらえないことも、彼の心のしみを大きくした。会話の実践自体は職員たちで事足りたが、それで寂しさは薄まらなかった。そして、少年は映画や小説に没頭するようになったのだった。