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第五話

 その薄い板は五十音表で、表にはひらがなが、裏にはカタカナがコピーされているものだ。

「いいか?」ヤスダは表を上にして一番右上に指を載せた。「これが、“あ”だ。分かるか?“あ”」

 彼は自らの口を指さしながらそれを大きく開いた。そして、少年に真似するように促した。

「そう、そうだ。次はその下、“い”だな」ヤスダは板の上の指を下にずらし、歯を見せて笑うかのように口を横に開いた。「そんで次は“う”だ。そしてその次は・・・」

 アマベ少年はヤスダの真似をして一通りのひらがなを発音したものの、いまひとつしっくり来ていなかった。今自分が学んでいるものと普段周囲から聞こえてくるものが同じものだとは到底思えなかったのだ。その様子を見て取ったヤスダはいくつかのひらがなを繰り返し指さして彼に発音させた。

「ま?べ?あ?ま、べ、あ、ま、べ、あまべ、あまべ!」

 ヤスダは少年の様子を見て満足げに笑うと、次は別のひらがなを指さし始めた。少年は彼の指を目で追った。

「やあ・・・すう・・・たあ・・・。や、す、た、やすた!」

「ヤス“ダ”な。“ダ”」

 彼はそう訂正したものの、少年は自分の発音との違いがよく分からなかった。

「やすた!」

「・・・まあ、いいか。上出来だろ」

 ヤスダは五十音の板の他にも数冊の本を残していった。それは幼児向けのひらがなの教材で、単語の書き取り教材や絵本の一部を切り取った音読教材や詳しい絵と簡単な説明が載った辞書だった。その後、風呂から上がった少年は消灯時間になるまでの二時間、貪るかのように日本語の学習に取り組んだ。


 それから二週間もの間、少年は暇さえあればヤスダから与えられた教材に取り組んでいた。雑用を済ませば自分の部屋に籠もりっぱなしで、日が出ているうちはひたすら音読をして、日が沈むと静かに書き取りや黙読をする。少なくともそれぞれ二〇回は与えられた教材を初めから最後まで読み通した。少しずつ周囲の声が意味を持った言葉になっていくのが楽しくて堪らなかったのだ。

 それまではひとまとまりの音だったものが、モノの名前、人の名前、動物の名前、動作、肯定、否定、疑問、命令、といった具合に明確に分類された言語として自然と処理されるようになっていた。そして、その内部関係的文明化の過程で、彼はあの少女が“マナミ”という名前であることを知った。少年にとってその名前は単なる識別子以上の意味を持っていたのか、耳に入るやいなや、普通以上の速さで脳まで伝わって全身の血液を頭へと集めさせ、それどころか、初めて彼女の名前を知った日などは、少年は言葉の勉強に全く身が入らず、五十音表の“ま”と“な”と“み”を何度もなぞりながらその言葉を呟き続けたほどである。


 通りを赤や黄に彩る落ち葉は時雨に身をやつして地面に張り付くものの、誰かが歩いては踏み破られて黒茶がかり、無残な姿をさらした。そしてそれらの残骸が無情にも雨に流されていき、一二月がやってきた。この時期になると毎年、施設は落ち着かない空気に包まれていた。子供たちは来るクリスマスと冬休みを待ち望み、職員たちは日々の事務に加えてパーティーと大掃除の準備に追われたからだ。少年もそれまでは彼らの雰囲気に何となく飲まれて同じようにそわそわするだけだったが、その年は明確な理由があった。今年は僕もクリスマス・パーティーに参加したい、そしてマナミと話したい。それだけだった。話すだけならばいつでもできたはずなのだが、そんなことは彼の頭にはなかったし、仮にあったとしても彼は恥ずかしがって話しかけられなかっただろう。


 アマベ少年はこの頃になると日本語の学習にあまり力が入らなくなってしまっていた。とはいうものの、別にやる気がなくなったとか飽きたとか、そのような理由ではない。むしろその逆で、マナミと話すために、彼女に少しでも笑顔を向けてもらうために、彼の学習意欲は日に日に大きくなっていた。そして、それに比例して彼の語彙はヨモギのようにすくすくと育っていき、一二月になった時には彼は五歳児が使う程度の言葉を扱えるようになっていた。しかし、言葉がただでさえ強い彼の想像力を更に補強してしまうことになった。絵本を読もうとしても、ページの間に彼女が入り込んで物語の人物を自分と彼女に置き換えてしまい、単語の書き取りをしていても、“ま”と“な”と“み”を含む言葉は全て彼女の名前になってしまい、果てには彼女を連想させるものが何もない状況においてさえも、気がつけば彼女と楽しく話している場面をゼロから妄想してしまっていた。そのため、勉強とは名ばかりに教材を眺めるのみで、マナミのことを考えるだけの時間が過ぎていったのである。

 アマベ少年は、その純度や大小はさておき、おそらくマナミに恋愛感情を抱いていたのだろう。もっとも、恋愛どころか親からの愛情さえまともに受けたことのない彼の恋愛感情が世間のそれと同じものだったかは知るよしもない。


 一二月の中旬、子供たちの多くは冬休みを迎えたため外へ遊びに行き、そうでない子供たちは学校の授業や補習を受けに行っていた。職員たちは、子供に付き添って外出している者と施設で年末に向けて忙しなく事務仕事をこなしている者だけだった。アマベ少年はこのような時の施設の空気が好きだった。子供たちの抑えきれない活発さの発露と楽しみへの隠そうともしない期待がまだ匂いや色や音として辺りに漂っている空気。大人たちもそれを感じ取っているのか、忙しさや疲れの中でもどことなく声が弾んでいる。とはいえ、少年はのんきにその空気を味わえるわけではなかった。大掃除の手間を減らすために、この時期はいつもなら掃除しない場所も掃除しなければならなかったからだ。

 ようやく浴室の掃除に取りかかることができたのは正午過ぎだった。少年が昼食をとっている最中に、ヤスダが外出している子供たちの分の昼食も作るように言いつけたことが原因だった。

「ところで、言葉の勉強はうまくいってるのか?」浴室へ向かおうとしていた少年の背中に彼は投げかけた。

「うん」と少年は、もう何度目にもなるやりとりだったため、迷わずに答えた。

「ふうん。ならいいけどよ」

「うん。本当にありがとう、やすた」

 少年は喋れるようになってからというもの、ヤスダと会話をするたびに屈託のない笑顔で感謝を述べたのだが、そうするといつも、ヤスダはきまりが悪そうに顔をそらすのだった。


 浴槽の掃除が終わって鏡の水垢を落としていると、子供たちの元気な声と足音が聞こえ始めた。おそらく子供たちはこれから昼食をとるから、“ごちそうさまでした”を言ってもらえないだろうと少年は少しだけがっかりして手を止めたが、すぐにせっせと鏡をこすり始めた。ピカピカになった鏡の向こうには、二〇歳ほどに見える無口で穏やかで真面目そうな青年がたたずんでいた。アマベ少年はこの青年のことがあまり好きではなかった。


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