第四話
客間を後にしたアマベ少年は施設に職員が一人もいないことを確認すると外へ飛び出したのだが、右を見ても左を見ても知っている顔は一つもなく、彼は肩を落とした。早く誰か帰ってきてくれないだろうか。三〇秒もしないうちに少年はそわそわとし始め、早足で小さな円を描くかのように歩き回った。右回りに八周と左回りに七周ほど円を描いた時、強い寒風が吹き、それに驚いて顔を上げると、たくさんのイチョウの葉が落ちているのが目に入った。一日前にもたくさん散っていたのに今日もこんなに散ったのかと少年はなおさら悲しい気持ちになった。
少年はそれから一〇分ほど経った後もうつむきながら変わることなく円を描き続けていた。そのため、ヤスダ職員が自身のすぐ傍まで来ていることに気がつかなかった。
「おい、何突っ立ってんだ?早く落ち葉も片しとけよ」
その声が聞こえるやいなや、アマベ少年は動きを止めて即座に顔を上げた。そして、彼はヤスダの腕を掴み、玄関へと引っ張っていった。
「何だ!?どうしたんだよ!?ほうきの場所でも忘れたのか?・・・ってか力強えなお前!」
少年は靴を脱ぐのを待つこともなく、何やら喚いているヤスダを半ば引きずるように連れて行って客間に放り込むと、ようやく一安心してぐったりとため息をついた。
その後は雑用に戻ったものの、頭の中はずっとあの少女のことでいっぱいだった。
夕食の配膳をする時に食卓を一瞥すると、昼間の少女がいた。やはり新しい入所者だったようで、多少のぎこちなさはあるものの、他の子供たちと仲良さげに話していた。少年は彼女の笑顔に見入っていたのだが、一瞬だけ、彼女と目が合ったような気がした。
普段であれば彼も施設の人々と一緒に食事をするのだが、その日に限っては全く食欲が湧かなかった。四畳ほどの小さな部屋で、絵を描くこともパズルで遊ぶこともなく、彼はただ座って格子付きの窓から空を眺めていた。冬の紫がかった夕空から差し込む仄かな明かりが彼の顔に薄い縞模様の影を落とす。暗い空にあの少女の笑った顔が見えた気がして少年は身を揺らしたが、どうやっても格子に妨げられ、とうとうその全貌を自力で見ることはかなわなかった。大の字で寝転んで目を瞑ると、瞼に彼女の顔が浮かんだ。その表情がいつまでもこびりついて離れようとしなかったため、彼は堪らず瞼を押し上げて浴室の光景を自室の像で上書きした。
味わったことのない感覚が少年を苛む。心臓は武士を鼓舞する太鼓のように激しく拍動し、血は鉄火のごとき熱を帯びている。脳は彼の制御を離れて回転し、一秒も経たないうちに数多の可能性を弾き出してその幻を映し出す。そして、彼はその一つ一つに、熱中し、赤面し、高揚する。様々なヴィジョンが彼の前に現れては去りゆき、また戻ってくる。世界は質量を忘れてしまったのか、体は妙な浮遊感と欠落感に包まれる。
子供たちが夕食をとっている部屋から大きな声で食事の終わりを告げる合図が聞こえてきた。「ごちそうさまでした」。その意味は分からなかったが、何だかとても暖かい響きがあって大好きな言葉だった。また、その言葉が発せられた時に自分へ向けられる笑顔も好きだった。そして少年は、明日からはあの少女も自分にそのような笑顔を向けてくれるかもしれないということに気づき、嬉しさと恥ずかしさで混乱した。手の届かないところがとてもむずがゆい。必死に壁や床に背中を擦りつけても、心臓あたりのこそばゆさは消えず、照れくささは増すばかりだった。
火照った体に水道水の冷たさが心地よかった。戯れる子供たちの声と水がアルミシンクを叩く音と食器と食器がぶつかる音を聞いているうちに、世界は現実に還り、アマベ少年はいつもの無口で穏やかな雑用係に戻っていた。
食器を半分ほど洗ったところで誰かが歩いてくるのを感じ取ったので、水を止めて振り返るとそこにいたのは例の少女だった。少年は顔が熱くなり、意識が後ろへと引っ張られていくような感覚に陥った。少女は何やら言い淀んでいる様子で、少年は目を左右に泳がせていた。浴室でのあの光景が彼の脳裏を閃光のように駆け抜ける。それでも少年が何もできないでいると、子供たちが近寄ってくるのが見えた。そして、そのうちの一人が少女に声をかけた。
「ねえ、何してるの?」
「あの、ええと、今朝この人にお世話になったから、お礼しようと思って」
「でもアマベは言葉わかんないから、何言っても意味ないよ」
「え?」
「それより、もっと一緒に遊ぼ!」
少女は子供たちに連れられて彼のもとから去ってゆく。ドタドタという足音を背に受けながら、アマベ少年は再び皿洗いに取りかかった。不思議と水の冷たさを感じることはなく、気づけば皿洗いは終わっていた。
皿洗いを追えた少年はヤスダ職員のところへ向かった。ほかの部屋のものより少し大きい扉を開けると、彼はしわの増えた顔にさらにしわを寄せて紙の束とにらめっこしていた。三年ほど前に彼は責任者になったため以前のように一日中施設にいることはなくなったがどうやらこの時間はまだ仕事中だったらしく、少年に気づいて老眼鏡を外した。
「ん?どした。なんかあったのか?」
少年は自身にかけられる疲れ気味な声は無視し、ずかずかとヤスダの机に近寄って彼の横に立つと彼の手にある書類を指さした。ヤスダは少年と紙を交互に見て、なおも理解していないようだったので、少年は書類の適当な箇所を指でなぞり、その手の甲を口の前に持っていった。そして、口を開くと同時に手を勢いよく開き、口を閉じると同時に手を閉じて唇に付ける、というジェスチャーを繰り返した。しばしの沈黙の後、ヤスダは少年から目をそらして何かを考えるそぶりを見せた。
「なるほどね。しかしなあ・・・、うーん。まあ、いいか」
彼は立ち上がって部屋を出たが、一分足らずで戻ってきた。その手には数冊の本と薄いプラスティックの板が抱えられている。
「おい、お前の部屋に行くぞ」
彼がそう言って手招きをしたので、少年は喜々として彼の後をついて行った。