第三話
そのようにして一〇年の月日が流れた。アマベ少年は言葉がほとんどわからないにもかかわらず、雑用の腕は着実に成長していた。洗濯物の量と洗剤の量の比を間違うことはなくなったし、料理のレパートリーも二〇種類を超えた。テキパキと日々の雑用をこなす姿は、遠目から見ればただの無口な青年に映ったことだろう。
アマベ少年は戸籍上一〇歳になったが、人との交流が極端に少なかったためか、精神的な年齢は一般的な一〇歳児よりも低く、肉体的な年齢については一〇年前とほとんど変わらずに二〇歳ほどの見た目だった。それどころか十分な食事と適度な運動のおかげか、施設に来たときよりも若々しいようにさえ見えた。まるで施設の中で彼だけ時間の進みが遅いかのようだった。
そして、アマベ少年の人生に二度目の転換点が訪れた。今回については“訪れた”というよりも“到達した”と表現した方が適切かもしれないが、とにかく転換点だったのだ。
一二月がすぐそこまで近づいてきていたある日のこと、大通りの街路樹は葉を落としてはげ上がり、すでに一二月の半ばだと言われてもまるごと信じてしまいそうなほど寒かった。肌を刺々しい冷気に撫でられながら、アマベ少年は毛羽立ったセーターに身を包んでいた。そのセーターは、ただでさえヤスダ職員からのお下がりである上に八年もの間に何度も洗濯されたため、あちこちがほつれていて所々に当て布の跡があり、それに加えてアマベ少年はこの一〇年で二〇センチほど身長が伸びたため、そのセーターでは彼の体を寒さから守るには不十分そうに見えた。しかしながら、裸同然で乾いた糞尿のこびりついた毛布を覆い被せているよりはずっとましだろう。
この頃になると彼はすっかり施設に馴染み、新しい職員や入所者に職員と間違えられることがしばしばあった。今回の転換点もそれがきっかけと言えよう。
その日に施設には、極めて珍しいことに、アマベ少年以外に誰もいなかった。子供たちは保育園や学校へ行っており、職員たちも急な用事や外せない予定が偶然に重なってしまったのだ。当時は通学や通園もできないという入所者はいなかったため、職員が何人も施設で待機している必要はなかったのだが、それでも誰一人いないというのは希有なことだった。一〇時頃にアマベ少年が大きな風呂の掃除をしていた時には、すでに職員たちも子供たちも施設にいなかった。
その施設の風呂はとても大きかった。浴槽だけでも縦横ともに二メートルほどあって浴室全体ではワンルームほどの広さがあったので、丁寧に掃除をしていたら平気で三〇分は経ってしまうだろう。それでも少年はその風呂の掃除をするのが好きだった。セーターの袖とズボンの裾をめくり、スポンジに洗剤を染みこませ、浴槽の隅からコツコツと磨く。洗剤を洗い流すとピカピカになった浴槽が現れる。自分がまるで魔法使いにでもなったかのようで楽しかった。また、終わった後には全身があの時、初めて自力でおむつを取り替えた時、と同じ心地よい疲労感で包まれるのも嬉しかった。
浴槽の外側を掃除していた時、浴室の扉が開く音がして室内の湿気が外へ流れていく感覚があった。アマベ少年が振り向くと、そこには一人の少女がいた。年齢にして一二歳ほどで肌は白く、ネイビーのジーンズを履き、重そうなカーキのコートの下に英語の書かれたシャツを着た少女。少年は首をかしげた。この子は誰だろうか。職員でないことは明らかだ。入所者でないことも確かだ。彼はそれまで彼女を見たことがなかったのだから。それなら入所予定者ということだろうと少年は合点がいった。しかし、そこで再び首をひねる。それまでは、新しい入所者が来た時には必ず職員が施設にいたし、少年もその時には必ず人数分のお茶を淹れるようにヤスダ職員から言いつけられていた。それならこの子は誰なのだろう、とアマベ少年はすっかり固まってしまう。実際には、お役所の連絡ミスで彼女がその日に入所するということが施設に伝わっていなかっただけなのだが、彼がそのことを知っているわけもなかった。
二人は互いに鏡を見ているかのように、ピクリとも動かなかった。出しっぱなしのシャワーの水が排水溝からあぶれて行き場を失い、アマベ少年の足下まで流れてきていた。彼は片膝をついていたため、グレーのスウェットの右膝は水が染みて次第に黒く変色してゆく。少年はおむつに排尿した時の感覚を思い出して背筋に冷たいものが走り、思わず立ち上がった。少女は驚いて肩をびくりと震わせ、彼を牽制するかのように口を開いた。
「えと、あの、職員の人ですか?」
声はとても小さくて震えていたが、そこが浴室で声がよく響いたため、どうにかアマベ少年の耳まで辿り着くことができた。それは彼の耳まで届いたものの、彼の脳を返答のために動かす力まではなかった。彼女の言葉が、疑問なのか、命令なのか、肯定なのか、彼はそれさえ分からなかった。しかしながら、彼でも理解できることはいくつかあった。まず、彼女が不安そうな顔をしているということ。それは顔を見ればすぐに分かった。次に、自分は職員ではないということ。彼にはこの一〇年間で憶えた言葉がいくつかあった。それは、“掃除”、“洗濯”、“風呂”、“ご飯”など彼の生活に関わるものと、“職員じゃない”や“喋れない”のような彼の状態に関するものである。また、少年はいくつかのジェスチャーも憶えた。それら全ては誰かに教えてもらったわけではなく、彼が観察を通して学んだものだ。そして最後に、彼女の言葉に入っていたのは「職員じゃない」ではなく、「職員」だということ。自分は「職員じゃない」なのだから、「職員」ではないと彼は理解した。ややこしい考え方ではあるが、それが彼の限界であり、「職員じゃない」を「職員」と「じゃない」に分けて考えることなど当時の彼は思いつきもしなかった。
「あの!この施設の職員なんですか?」
少女は先ほどより大きな声を出したが、相変わらず声は震えていたため、演歌歌手のビブラートのようになっている。思考を終えたアマベ少年は全力で首を横に振った。
「もしかして、喋れないんですか?」と少女はおずおずと言った。
「喋れない」という言葉を捉えた少年は、次は大げさなくらい首を縦に振った。
「そんな・・・、困ったな。職員の人が誰もいないなんて・・・」
見知らぬ少女との問答を終えて胸をなで下ろしていた少年の目に映ったのは、悲痛そうな顔をして今にも泣き出しそうな少女だった。アマベ少年は手をわたわたと忙しなくしながら必死に考えた。自分はどうすればいいだろうか。彼女は自分に職員かどうかや喋れないのかについて尋ねたのだから、やはり初対面の人なのだろう。そういう時はいつもどうしていただろうか。確か、知らない人が来た時はいつもヤスダがいる部屋の近くにある広い部屋にお茶を持って行ったはずだ。とりあえずそこに連れて行こう。少年の脳内にそのような考えが文字や音ではなく、映像として漠然と浮かび上がった。彼は浴室の扉へ向かい、少女の横をすり抜けると、彼女の方へ振り向いて手招きをした。少女が自分の後をついてくるのを確認してから彼は前を向いて来客用の和室へ向かった。
客間で待つ少女の前に緑茶とお菓子を置くと、アマベ少年は再び固まって長考した。職員が子供たちをその場に留めようとしていた時はどんなジェスチャーをしていただろうか。少年は目を瞑って昨日や一昨日や一週間前の記憶をたぐり寄せていった。三週間ほど前の記憶まで遡ってようやくその記憶を見つけると、彼は目を開いた。少女は困った顔で彼を見上げている。少年は右腕を体と水平になるように少しずつ上げていき、拳が少女の顔の前まで来た時、それをパッと開いて彼女に手のひらを見せびらかすような姿勢をとった。少女は少し混乱した様子を見せたが、すぐに理解して頷いた。