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第二話

 赤子を引き取った施設が何よりもまず最初にやったことは、彼専用の部屋を設けることだった。見た目が二〇歳ぐらいにもかかわらず乳児程度の知能しかもたない彼という存在は施設の子供たちを怖がらせてしまうだろうと考えたのだった。


 こうして、幼かった頃のアマベ氏はようやく一息ついて赤子に専念できる場所を与えられたのだが、赤子に専念できる場所を与えられただけであって、それは彼が赤子として扱われることを必ずしも意味しなかった。

 当時のアマベ氏は、食事は一日に二回、他の子供に与えられるものと同じものを与えられ、その時についでにおむつを取り替えられて体を拭かれた。これだけでも真っ当な扱いとは言い難いが、その日の担当の気分次第で食事が与えられなかったりおむつを取り替えられなかったりすることさえあった。そのため、空腹のせいで動けない日もあれば、糞尿に塗れて過ごす日もあり、赤子としておよそ最底辺の扱いを受けてきたのだった。本来であれば、赤子は泣くことによって自らの状態を伝えようとするものだが、彼は泣くことさえできなかった。というのも、病院にいた時のことだが、お腹が空いたときやおむつを取り替えてほしいとき、それを伝えるために声をあげて泣くと、看護師たちは心底嫌そうな顔をしたからだった。幼アマベは普通の赤子より脳の発育が進んでいたため、自分が泣くと周囲の人々は不快に思うということを理解し、泣くのを我慢することができてしまったのだった。


 幼いアマベ氏に一度目の転機が訪れたのは、施設にやってきてから一年ほど経った頃のことだ。その頃には食事は一日に一回、おむつは三日に一回取り替えられる程度になっていて、彼の世話はヤスダという男性職員の仕事になっていた。

 幼アマベはヤスダ職員が顔を歪めながら自分の糞尿まみれの体を拭いておむつを取り替えるのを見るたび、不安と恐怖でいっぱいになった。明日この人はもう自分の世話をしてくれなくなるかもしれない、と。その部屋から出ることさえできない彼からすれば、それはすなわち死を意味するのだ。彼は死というものを理解していたわけではないが、空腹で動けなくなった先にあるものだということは漠然と感じ取っていた。

 ある日の朝、幼アマベが目覚めるとお尻に違和感があった。お尻と紙おむつの間に何か柔らかいものが挟まっている感覚、排泄物の感触である。もう慣れたものではあるが、それでもやはり不快だった。それよりも、またヤスダ職員が嫌な顔をしてしまう、という想像で彼の頭は埋め尽くされていた。

 ふと、部屋の隅にある大きな箱が目に入る。それに書いてあることは彼には分からなかったが、その箱からはみ出しているものは今自分が履いているものと同じだということに彼は気づいた。あれを自分で着けることができたのなら、もうヤスダ職員は自分にあんな顔をしないのではないか。幼いアマベ氏の脳裏にそうよぎった。そして、すぐに行動した。彼は起き上がって四つん這いになり、彼には二足歩行という概念が当時なかったのだ、箱に近づいた。箱から白いものを引っ張り出すと、やはり自分が履いているものと同じだった。やった!と彼は歓喜の声を上げたが、言葉を知らない彼の口から出たのは「あっ、うー」とかいった喃語だけだった。

 生まれた時からまともに教育されてこなかった幼アマベにとって、「見る」という行為が唯一の教師だった。そのため、それまでに何度も見てきたおむつの交換という動作は彼の記憶に刻み込まれていた。後はその記憶を頼りに手を動かすだけだった。横になって少し足を上げながら、職員がやっていたようにおむつを外す。排泄物がこぼれないように丸めて脇にやり、新品のおむつを広げてお尻の下に置く。下の方にある紙をお腹の辺りまで持ってきて、左と右にあるベタベタする部分でくっつける。いつもならお尻を拭いてから新しいおむつを着けているのだが、辺りに使えそうなものはなかったため、やむを得ずそのままにすることにした。そして、幼アマベはうっかり自分の体で排泄物を潰してしまわないように、元のおむつを扉の脇まで運んだ。それまで横になるか四つん這いになるかという動作しかやってこなかったため、彼はすっかり疲れてしまって体中の筋肉が痛かった。それでも、達成感というものに包まれた心地よい疲労だった。もちろん、当時の彼が達成感という言葉など知るよしもなかったことは言うまでもない。


 正午を三〇分ほど過ぎた頃、ヤスダ職員が食事を運ぶためにいつも通り鬱屈な顔で部屋に入ってくるのが見えた。彼は幼アマベを少し見て不思議そうな顔をすると、首をぐるりと回し、箱から落ちている二、三枚の紙おむつと扉の側に置いてある使用済みのおむつに気づいた。

「・・・もしかして、お前、自分でおむつを取り替えたのか!?」

 彼の顔はすぐに驚愕に塗りつぶされた。その表情がいつものしかめ面とあまりにも似つかなかったので、幼アマベは、キャッキャッ、と笑った。

「マジでか・・・。ありえないだろ。いやでも・・・、そうとも限らないのか?」とヤスダは何やら考え込んでいた。

 彼はそのまま数分間ブツブツ呟きながら幼アマベをじっと観察していた。見つめられすぎて不安になってきた頃に、ヤスダは何かを決めた様子で幼いアマベ氏に近づいた。

「お前、立てるか?」

 彼は唐突にそんなことを言ったが、幼アマベは理解できるはずもなく、首をかしげた。

「立つんだよ。二本の足で、俺がやってるみたいにさ」

 ヤスダは右足と左足を交互に踏みならした。しかし、それでも幼アマベは不思議そうに彼を見返すだけだった。ヤスダは頭をボリボリと掻き、業を煮やしたかのように彼の手をぐいと引っ張ったが、幼アマベは驚いて前に倒れてしまった。

「はあ、面倒くせえな。いいか?見てろよ」

 そう言ってヤスダは四つん這いになり、壁に近寄る。そして、壁に右手をつけて左手をつけるというのを繰り返し、最後に壁から手を離して二本の足だけで立ち上がる。それを見て、幼アマベも自分が何をすればいいかを理解した。ヤスダ職員がやったように、壁に近寄り、両手で交互に壁を這い上がり、そして離す。離す時に力が入りすぎて少しだけよろけてしまったが、ヤスダが支えたことで地面に対して垂直になることができた。

「そうそう!マジかよ、すげえな!一分もかかってないぞ!」

 ヤスダは愉快そうに手をたたいて笑った。幼アマベは彼が自分のことで喜んでいるのだと嬉しく思ったし、彼と目線が近づいたことが嬉しかった。また、このようにほとんど同じ目線になって初めて、自分は彼と同じ生き物なのだということに気づいた。

「おい、ちょっと待ってろ!」

 相変わらず彼が何を言っているのかは分からなかったが、幼アマベはとりあえずご飯を食べることにした。立つときと逆の工程、壁に寄りかかって下へ下へと交互に壁に手をついて床に手をつける、を経て彼は床に座った。


 幼アマベの学習能力の高さを知って以来、ヤスダ職員は彼にいろいろなことを教えた。服の着方やトイレの使い方、風呂の使い方や洗濯機の使い方・・・。単に面白がっていたのか、幼いアマベ氏のことを想ってくれていたのか、それとも雑用を彼に押しつけたかっただけなのか、真意は分からないが、とにかく言葉以外のものはほとんどヤスダ職員から教えられた。ちなみに、幼アマベに施設の掃除や洗濯や料理など言葉を必要としない雑用を全てこなすように言いつけたのは、他でもないあのヤスダ職員だ。とはいうものの、アマベ氏は一度だって彼を疎んだことはない。彼をあの狭い部屋の外へ出してくれたのは間違いなくヤスダだったし、雑用をこなすことで彼は施設の人々から少しずつ受け入れられていったからだ。

 教えられたものの中で幼いアマベ氏にとって最も重要な位置を占めたのは料理である。レシピ本などは当然読めないため、ヤスダが調理するのを見て覚えるというのが主であり、レパートリーはほとんどなかったが、それまでは一日に一食、ひどい場合は何も口にできないことがあった幼アマベにとっては、毎日三食の食事にありつけるというだけで感激だった。


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