敵国に嫁いだ「嫌われ皇妃」
「クリスティーナ様、紅茶の用意ができましたよ」
メイド服姿の少女がポットとティーカップを運んできて、窓辺にある丸テーブルに置いた。
「ありがとう、アリッサ」
ソファで本を読んでいた私は立ち上がり、窓辺に向かい、椅子に腰を落とした。
白いクロスの上には小さな花が飾られ、ビスケットと磁器のカップが置かれていた。クリーム色の陶器からゆらゆらと白い湯気が立ちのぼる。
私はティーカップを持ち上げ、温かい液体を口に含む。
「……おいしいわ。やっぱりアリッサの淹れてくれたお茶がいちばんね」
そこは王宮の奥まった場所にある部屋だった。日当たりが良く、窓の外には木香薔薇が見える。私はゆったりしたドレスを着て、ここでアフタヌーンティーを楽しむのが好きだった。
「またあの女が、またクリスティーナ様の悪口を言い触らしているそうです」
アリッサが憤懣やるかたないといった表情で言った。
あの女とは第二王妃のエルマのことだ。元伯爵令嬢で、正妃の候補として私の名前が出るまで、若き王であるクラウスの有力な結婚相手だった。王の幼なじみで、周囲では彼女と王が結婚すると想像していた者もいたようだ。
「いいのよ、言わせたい人には言わせておけば」
「でもクリスティーナ様が高価なドレスを何着も新調しているとか、大使との晩餐会に出るのを面倒くさがったとか、あることないことベラベラと……」
アリッサは母国から連れてきた侍女だった。幼い頃からずっと私の身の回りの世話をしていて、隣国に嫁ぐときも両親が私の世話係として送り出してくれた。
「高価なドレスはともかく、コルセットを締め付けない茶会服なら新調したいわね。いいのよ、事実ではないのですから無視しておきましょう」
「ですが――」
不満そうなアリッサを私は手で制した。
「私は敵国から嫁いできた娘です。長きにわたって続いた戦さで両国とも多くの者が命を落とし、この王宮にも家族や親しい者を亡くした者がいるでしょう。私のことを快く思わない者がいて当然です」
国境を巡って両国は長年、争ってきたが、私の父である国王はかつての敵と平和協定を結び、その証しとして一年ほど前、私がこの国の若き王のもとへ嫁ぐことになった。
(とはいっても、両国の間には長年の遺恨がある……臣下の者たちが私を受け入れられないのも理解はできる……)
それは王であるクラウス自身も例外ではない。夫が私の寝室を訪れたことは一度もない。噂では縁談が持ち上がったとき、「敵国の皇妃など抱けるか」と言ったとか言わないとか。
いずれにせよ、皇妃であるにもかかわらず、私は清廉な生娘のままだった。
(この国の先代の王も戦で患った病がもとで亡くなったという……クラウス様にとって私は父の敵の娘……本心では憎んでおられるのでしょうね……)
さみしさを覚えないかと言えば嘘になるが、私が嫁いだことで両国の友好が保たれ、平和な世が続くならばそれでいい。
(私はこの王宮の片隅で、お飾りの王妃としてゆっくり年老いていく……)
他の姉妹もみな、政略結婚で他国に嫁に出された。孤独は王家に生まれた者の定めだと思っていた。
その後、アフタヌーンティーを楽しんだ私は、日課にしている庭園の散歩をするため、侍女たちを引き連れて居室を出た。
離宮に続く回廊で、同じように侍女を連れた若い女とすれ違う。
王妃である私の姿が目に入ると、侍女たちが道を空け、頭を下げる。だが、気の強そうな若い娘は行く手からどこうとしない。
「お控えください。王妃のお通りでございます」
アリッサが怒りを押し殺した声で第二王妃のエルマに告げると、金髪の下で切れ長の眼差しが吊り上がる。
「……ここにいる私の侍女や臣下の者の多くは、そこにいる王妃とやらの母国との戦いで親しい者を亡くしているのです。なんでそんな女に道を譲らなければならないのかしら?」
エルマの背後に控える者たちが私に憎悪の目を向ける。反論しようとするアリッサを私は手で制し、前に進み出た。
「それは私どもの国とて同じこと。ここにいるアリッサも父親を戦で亡くしています。過去をなかったことにはできませんが、私たちが両国の新しい未来を築くことはできないものでしょうか」
エルマが不快そうに眉根を寄せる。
「王妃面はやめてちょうだい。そのすまし顔でわかったような口ぶりがイラつくのよ。あなたさえいなければ、私がこの国の王妃だったのよ」
回廊の中央でお互い譲らず、双方の侍女や臣下も交えて睨み合いが続く。
「何を騒いでいる!」
鋭い声が回廊に響き渡った。
侍女や臣下の者たちがいっせいに回廊の端へ寄り、頭を下げる。私とエルマも同じように続く。
白い宮廷服に長身を包んだ青年が現われた。柔らかな金髪の下にある碧眼はすべてを見透かすような冷たい光を放つ。若き王クラウスだった。
私は王に向かって頭を下げる。
「お騒がせして申し訳ありません」
「何があった? 説明せよ」
どう言えば誰も傷つけずにおさめることができるのか。私が思い悩んでいると、第二王妃のエルマが声を張り上げた。
「クラウス様、こんな女、王宮より追い出してください!」
「何があったのか、と訊いている」
クラウスに冷たくたしなめられ、エルマの顔がひるむ。私のそばにいた侍女のアリッサが代わりに説明をした。
「王妃が離宮に渡ろうとしたところ、エルマ様が道を譲らなかったのでございます」
クラウスの碧眼が第二王妃に向けられる。
「……事実か? エルマ」
若い第二王妃の顔が怒りと屈辱で紅潮する。
「クラウス様、なぜ私ではなく、こんな敵国の女なのですか? 若くて美しい私の方が王妃にふさわしいはずです」
「控えろ、エルマ!」
王に一喝されても、エルマの顔には不満げな色があった。彼女はクラウスの幼なじみだったので、いまだに子供っぽい甘えがある。
「いいえ、控えません。クラウス様、この女は母国に通じ、我が国の内情を知らせているのです。今、その証拠をお見せいたします」
エルマが手を差し出すと、そばにいた侍女がスカートのポケットから封筒のようなものを取り出して渡した。
エルマがそれを王に差し出すと、クラウスが封筒から手紙を出し、目を落とした。
「日付は三日前、母国の父親に宛てた手紙で、王妃自身のサインも入っています。城の坑道、城塞の位置と兵員の数、兵糧の備蓄……細かに綴られています。私の手の者が発送された直後に阻止しました」
クラウスが手紙を私に向かって差し出した。
「これはまことに王妃が書いたものか?」
私は手紙を観察した。たしかに私のサインが入っているが、もちろん自分が書いたものではない。恐らく何者かが筆跡を巧妙に真似たのだろう。
「身に覚えのないものです」
私がきっぱり否定すると、エルマが、ふん、と鼻を鳴らした。
「みにくい言い逃れね。クラウス様、その手紙がこの女が母国と通じ、我が国の内情を敵国に知らせていた動かしがたい証拠でございます。どうか、厳正な処分をお願いいたします」
王の冷たい碧眼が私を見つめる。
「王妃よ、何か申し開きをすることがあるか?」
「私はこの国に嫁いできてから、国元の両親へ文を出したことは一度もございません。そのような真似はいらぬ誤解を招くため、一切しないようにと、嫁いでくる前、父より厳しく申し付けられておりました」
「父君が?」
「はい。父はこうも言っておりました。もし両国が再び剣を交えることがあれば、、おまえもクラウス様の妻として父に刃を向けよと。それが王妃たる者の務めであると」
王の表情は変わらない。相変わらず冷たい目で私を見つめている。エルマが、ふん、と鼻を鳴らす。
「父親に文を一度も出したことがない? よくもまあ、見え透いた嘘を……現実に文を出しているじゃない。ほんの三日前のことよ。忘れたとは言わせないわ。クラウス様、この悪女に断罪を!」
勢い込む第二王妃を、若き王は冷静にたしなめた。
「エルマ、控えよ。王妃の言葉を私は信じる」
エルマの顔が動揺で揺れる。
「な、なぜです?……なぜ私ではなく、このような敵国の女の言葉を信じるとおっしゃるのですか?……」
「王妃の父君――マクシミリアン帝は崩御されたのだ」
静かにクラウスが告げると、今度こそ私の顔に驚きが走った。
「父が? まことですか?」
「ひと月ほど前と聞く。まだ公には発表されておらぬ。ずっと病の床に伏せっておられたそうだ」
「なぜクラウス様はそれを――」
「王自身から文が届いたのだ。恐らく亡くなる直前、病の床で書かれたのだろう。もし自分の病状を知ればクリスティーナは見舞いにこようとするだろう。だから自分が亡くなり、対外的に発表するまで黙っていて欲しいと」
若き王は回廊からのぞく空に碧眼を向けた――まるで隣国の偉大な王に追悼を捧げるように。
「これでわかったであろう? 王妃が普段から父君と文のやり取りをしていたなら、ひと月も前に父親が亡くなったことを知らぬはずがない。この文は三日前に出されたものなのであろう?」
エルマが顔を青ざめさせ、肩をブルブル震わせていた。誰が手紙を偽造したのか、それは自明の理だった。断罪されるべきは私ではなく第二王妃だった。
クラウスのそばに控える臣下が近衛兵に目で合図を送ると、屈強な男たちがエルマの両側に立ち、囲むようにその場から連れていく。
どこかさみしげにそれを見送った後、若き王は私に目を戻した。
「父君の葬儀に参列するか?」
私は静かに首を振った。
「弔問の使節団をお遣わせください。それだけで十分でございます」
私はこの国の王妃だ。たとえ親が亡くなっても、みだりに王宮を離れてはならない。もし王妃である私が隣国の手に落ちれば人質になってしまう。
クラウスはうなずき、つぶやくように続ける。
「……亡くなる前、私の父は言っていた。そなたの父君は敵ながら立派な相手であると。父は戦場で患った病がもとで亡くなったが、最後まで敵を憎むような言葉はいっさい吐かなかった……」
静かにそう言うと、おだやかな表情で告げた。
「王妃よ、今までのことを詫びたい。これからこの国の新しい未来を築く手伝いをしてくれないか? 私の王妃として――」
私はうやうやしく頭を下げた。
「はい、御心のままに」
その夜からクラウスは私の寝所を頻繁に訪れるようになった。ベッドで豹変した金髪の貴公子にさんざん溺愛され、一年後、待望の王子が生まれたことはまた別の話になる。
(完)