小針
この日、初夏の陽射は、真夏、と言っても差支えないほど、強くなった。陽射しの中を、十分でも歩こうものなら、額には、拭っても湧き出す汗の玉が生じる。
火を使う屋台の主人などは、気温とも相まって、熱気で、とめどない汗を流している。
藤井圭吾の戸惑いは、しかし、暑気に因るものでは無かった。
――いったい、どうしちゃったっての!? なんでこんなにお客さんが?
戸惑いは、それであった。
この頃、一向に客の来ない寿司屋台をたたんで、何か他のいい商売がないか、本気で考えていた矢先の事である。
椿事出来と言っても過ぎることは無い。
今日も大した稼ぎにはならないだろうな、と半ば諦めつつ、屋台を開いたところ、若い女を中心に、続々と、注文が入ったのであった。これは、昨日、颯爽たるシャノン・ブランドフォードの華麗な姿を目撃して、見惚れていた女たちであった。
開いてから、ものの二時間で、完売した。
忙殺時が過ぎて、仕舞いの気力も湧かぬまま、圭吾は床几に座って、茫然としていた。
「今日なら頼めるかな?」
そこへ、にこにこ顔で声を掛けたのは、昨日、注文を断られた、大垣源十郎であった。
「すいません。なんでか知らないんですけど、今日はもう、全部売り切れで……」
心から、申し訳無い気持ちで圭吾が言うと、源十郎の嘆きは、深かった。
「昨日ならず今日までも……いや、売り切れならば、仕方が無い……」
天を仰いだ源十郎であった。
「お好みを仰って下されば、明日、お客さんの分は、取って置きますけど?」
圭吾の申し出に、うって変わって、源十郎の表情が、ぱぁっと、明るいものになった。
「まことか!? それは嬉しい! 地獄で仏に会うとは、この事だな!」
「そんな大袈裟な」
圭吾は苦笑したが、やはり、そこは板前、素直に嬉しく思った。
コゼットの家から目と鼻の先にある川べりの、大石に、黒羽二重の痩身は腰掛け、川面を、虚無の双眸に映していた。左脇に刀を置き、右脇には、釣竿を立て掛けていたが、魚籠には、魚一匹入っていない。
全くの、虚脱状態であった。事実、今、この男の胸の裡に、泛び上がるものがあるとすれば、それは、無、であった。
もし、討とうとする者があるとすれば、その目的は、易々と、達成出来るかに見える。
だが――。
完全なる無意識の中にあって、しかし、僅かでも、神経に触れる何かがあれば、即座に、それに備える事の出来る四肢と頭脳を、この死神心剣という男は、具備しているのであった。
その証拠に、遠く、背後に、近付いてくる人の気配を、心剣はすでに悟っていた。もとより、首も回さぬ。
跫音に、一流武芸者独特の、隙の無い歩き方を、感じ取ってなお、心剣の座姿は、なんらの変化も見せなかった。
「釣果は、いかがでござる?」
三尺の間を置いて、心剣の右隣に立った、大垣源十郎は、答えも待たず、魚籠を覗き込んだ。
「ふーむ。芳しくない様でござるなぁ」
「針に付ける餌を、何にするかと思案しているうちに、面倒になって、なにも付けずに糸を垂らしている、という次第だ」
きらきらと、陽光を煌めかせる川面を、凝眸めたまま、心剣はそう答えた。
「ははあ、成程、かからぬ訳だ」
「もっとも、偶にしてかかることもある」
「貴公は、その偶然を待っておられるのかな?」
「待った甲斐があった、と言える。魚の代わりに――」
と、心剣は、ようやく、源十郎を見遣った。
「あんたという敵が釣れた」
冷笑を刷く心剣に、源十郎も、相好を崩したものであった。
「はははっ。ここで、死神氏の姿を見つけた時から、もしや、とは考えており申したが、不死身の男とは、やはり、貴公の事でござったか」
「わたしは別に、死んだことが無いだけで、不死身と言う訳では無かろう」
言って、刀を掴んで立ち上がるや、源十郎に背を向けて、静かな足取りを見せた。源十郎からおよそ一間を離れて、心剣は振り向いた。刀は、すでに腰に帯びている。心剣の左親指は、刀の鍔に架かっていた。
「……」
心剣と、おのれのあいだに生れた距離に、その意味を汲み取ったか、源十郎の顔付きが引き締まった。
この距離は、互いに差料を抜き合わせて、汐合いを極めるに必要充分の距離であった。
「待たれい、死神氏――」
源十郎は、一歩を退った。源十郎に、闘う意思が無いことの表れであった。
「折角、敵同士となったのだ。それに、立ち合いは、そちらの所望でもあったはずだが?」
心剣は皮肉を飛ばした。
「左様。貴公とは、立ち合うてみとうござる。ござるが、もしここで立ち合えば、貴公か拙者か、どちらかが、幽明の境を異に致す事と相成ろうと存ずる」
「腰の二刀は、結論その為の物だと、こちらは昨日、そちらの口から聞いている」
「はは……やられ申した。その伝でゆけば、死神氏、本日は、拙者を斬りたい――、そう思われておいでか?」
源十郎の問いに、心剣は、すぐには、答えられなかった。ついさっきまで、その心算ではあった。だが、言われて、何故か、その気が急速に失せたのであった。或は、源十郎と自身を比べて、劣等の意識が働いた、と言えるかも知れなかった。
心剣が人を斬るのは、自分がどこかで無残な野垂れ死にをするのを、期待しての事であった。その為に、自ら死地に挑みつつも、より壮絶な、おのれに相応しい、更なる死地を求めて、自らの身を守る、という、この矛盾があった。殺人の業念を、背負えば背負うほど、最終的な自分の末路が、惨たらしいものになるだろう予感と期待があった。
心剣の思う所、しかるに大垣源十郎この男に、その矛盾は無い。この男の殺人は、止むに止まれての事に限られていよう。であるならば、この男に、無為の殺人の衝動など、起こりようべくもない筈なのだ。
謂わば、本能と理性の衝突であった。この両者の対峙に、愧じるべきは当然、心剣であった。
「訪問の理由を、訊くことにしよう」
心剣は、左手を、刀から外した。源十郎がホッとしたように、一つ大きく頷いてから、もう一度、今度は軽く頷いた。
「一つは、あの家の者を、拙者のあるじが引見したく。もう一つは、……死神氏、仕官をする気はござらんか」
「仕官?」
「左様。イザベル様――拙者の御主様でござるが、貴公の事が御気に召されたようなのだ」
「わたしにあるじ持ちとなれ、と申されるのか」
「拙者はこの二つの儀を仰せつかった」
冷たい視線を、源十郎に呉れて、心剣は静かに答えた。
「止して貰おうか。わたしは誰かに使われるなど、真っ平御免だ」
「イザベル様は、あるじと仰ぐには、申し分の無い御方でござる」
心剣の冷眼を受けてなお、源十郎はにことしていた。
「しつこい。断った筈だ。誰に仕える気も無い。ましてや、女になど」
「何度でも、お願いいたす。あるじのお心に叶うよう努力するのが、家臣の務めでござるからな。これに関しては枉げて頂きたい」
ここで、源十郎が、明るい笑顔を見せて、
「と、申し上げておけば、貴公が終にがえんじずとも、拙者の家臣としての名分が立ち申すな」
本心をあっさりと吐いた。心剣が勧誘に応じないことは、解っていたものであろう。
「向後も、形だけは誘わせて頂く。貴公にはご面倒でも、その度にお断り下され」
「面倒事が、わたしが最も悪むところなのだが……」
言いつつも、心剣は苦笑していた。いつか、それもそう遠くない内に、お互い孰れかが斃れる……この予感がありつつも、その秋までは、そんな、茶番めいたやり取りを続けるのも悪くない、という思いが、心剣の胸を掠めたのであった。
「さて……」
源十郎が首を回し、コゼットとジャンの家を見た。
「あの家の者に会うに、貴公の諒解が必要でござろうか」
皮肉めいていたが、不思議と、腹は立たぬ。
「あんたには残念だが、必要だ」
「左様か。して、如何かな?」
「断る」
源十郎が、すっかり打ち解けたような顔で、拒絶の理由を問うた。心剣は答える。
「あんたのあるじの魂胆がわからぬ。それに、あの家の者も、あんたのあるじに会いたくないと来ている」
「イザベル様の御心が奈辺にあるか、それは拙者にも解らぬ」
「ふん――。それでいて、股肱づらか」
「ははは……。面目次第もござらん」
心剣は静かに、竿と魚籠を、左手に拾い上げた。
「魂胆が穏便なものであるのなら、考えぬでもないが」
「まことでござるか?」
源十郎が嬉しそうな声を上げた。
「が、あるじがあんたに聞かせるものは、多分に、偽りであろう。心意を汲むのも、家臣の仕事だろう。――言っておく。あの家の者が欲しければ、どんな手を使っても、わたしから奪う事だ。こちらは、いつ襲われても、一向に構わぬ」
言い放って、心剣は、源十郎に背を向け、離れて行った。
源十郎は取り残されるに任せるまま、心剣の後ろ姿を眺めていたが、家に入るのを見届けておいて、無言の溜息と共に、小さく、頭を振ったものであった。
「ほほほ、小面憎き事を――」
源十郎から、一切の報告を聞いているあいだ、イザベル・カペーは何も言わなかったが、最後に、そう笑った。
「イザベル様、お心の内を、そろそろ、拝聴させて頂きたく存じます」
ややの逡巡が、源十郎に在ったが、心剣の言うように、これは、聞かせて貰わなければ、どうしようもなかった。
イザベルは、天が、特別に配慮吟味したかと思われる、完璧な美貌を、持ち合わせている。その切れ長の瞳が、わずかに細められ、朱唇は、緩やかに口角を上げた。
「よかろ。ふふ、偽りなど聞かせぬぞえ。――そもじを遣わせた家の者、他でも無い。魔法使いじゃ」
源十郎は、疑問を覚えた。魔法使いの存在は、知っていた。そもそも、彼の目の前に居る絶世の美女も、魔法を使う。そしてどこの貴族でも、大抵数人は家来として養っているし、市井に出れば、その魔法の力が、仕事に役立つ。それなのに、今日訪ねて行った魔法使いの住まいは、見るからに、貧しいものであった。
「それも、ただの魔法使いでは無いぞえ。回復の魔法を能くするのじゃ」
「回復の魔法……」
魔法を、自分にも出来ぬかと、一時期調べたことのある、源十郎であった。残念ながら、おのれに魔力が備わっていないのが分かって、諦めたが、おかげで、魔法について無学では無かった。
「成程、確かに珍しゅうございますが、その者を呼び寄せて、なんとあそばすのでしょう」
「分からぬかえ?」
「一向に――」
「回復魔法でわらわの美しさを、保持するのじゃ」
イザベルは、さも当然として、言ってのけた。これには、源十郎も、肚裡で大きく呆れるばかりであった。
「なにせ、回復の魔法じゃ。わらわの望みもきっと、為し得ようて。人を回復するのに比べれば、わらわの若さを保つぐらい、簡単であろう」
イザベルはうっとりとした表情であった。それを、内心の呆れなどおくびにも出さず、源十郎は見守った。
――ふーむ……微笑ましくも女性らしい、罪な御望みではあられるが、果たして、死神氏がこれを聞いて、どう思われるか……。いやはや。
「それにしても、死神心剣と申したかえな、その邪魔者は」
微笑を佩びたまま、イザベルが呟くように言った。
「そもじは、どう思うな? そ奴、わらわの家来にいつかは、なると思うかえ」
「おそらくは、なりますまいか、と」
「じゃとすれば、やはり、邪魔でしかないの」
「畏れながら、イザベル様のお心をお話しすれば、魔法使いだけでも――」
「源十郎」
イザベルに遮られて、仕方なく、源十郎は口をつぐんだ。さらに、イザベルの顔に、何やら不穏めいた気色を感じては、彼女が何を言うか、源十郎は待たねばならなかった。
「そ奴の言葉通りにしてやろうではないか」
「お戯れを……」
「戯れでは無いわえ。いつ襲っても構わぬと、そ奴は申したのであろ? ならば、襲ってやろうではないかえなぁ」
源十郎に、薄く微笑んでのち、イザベルは、執事を呼んだ。
心剣の前に、シャノン・ブランドフォードが姿を見せたのは、夕暮れがさし迫る時分の事であった。
「差し入れを持って来ました。圭吾さんの料理と、心剣さんに頼まれていた、お酒です」
今、コゼットの家には、この二人だけの姿のみがあった。コゼットとジャンは、万が一の事を考えて、昨晩のうちに、ブランドフォード家の屋敷に身を隠していた。シャノンの存在を、向こうは知らぬから、というコルネリウス・スピレイン老人の考えによるものであった。
心剣は、料理には手を付けず、酒だけを舐め始めた。一向に、料理には手を伸ばそうとしない心剣を、シャノンが心配した。
「酔うのでは」
「その為に、呑んでいる」
シャノンは困惑するほか無かった。酒は、心剣の希望した、かなり度の強い、蒸留酒であった。
やがて、かなりの時間を、二人は、会話少なく、過ごした。この頃になって、ようやく、心剣は料理を食らっていた。
「ジャンは……戸惑ったろうな」
蒸留酒一本を空けたにもかかわらず、微かに微薫を纏わすだけの心剣が、ふと、独語のように、その言葉を漏らした。
「ええ。何せ、朝起きたら、わたしの屋敷でしたから」
「何も知らぬ子供が、俺たち大人の勝手な都合に振り回される、か。大人と子供、権力者とそうで無い百姓町民――人間が、世の中の仕組みを作っている限り、割を食うのは、比べた時に、どうしても勝てぬ者と、相成るようだ」
この言葉を聞いて、シャノンは、何故となく、心剣の胸の裡にあるものが、零れたと思えた。と、同時に、死神心剣と明らかな変名を使うこの男を、好ましく思えたものであった。
そしてまた、二人は、敵の襲撃が有るか無いか、判らぬ夜を、過ごそうというものであった。
日中は、あれほど暑くなったにもかかわらず、今は涼しい。新月の深更、雲が星々の煌めきさえをも遮り、普通人ならば、明かりが無ければ、どうしたものか、と立ち往生するしか無い、夜の闇の中。
そんな闇の中の中にあって、大垣源十郎は確かな足取りを見せつつ、しかし、ずうっと、苦い顔で、歩いていた。
――執事の望むように、果たして上手くゆくか……。
それと言うのも、源十郎の後から、一人の男が、付いて来ているのであった。源十郎は、この男を、案内しているかたちであった。
男の名は、サリバンといった。三十代。半年ほど前、おのが腕前を、イザベルに売り込んできた、剣士であった。言ってみれば、食客であり、用心棒であった。
確かに、能力は、源十郎をして、唸らせるものは持っている。サリバンと、仮に立ち合ってみたとして、もし、勝負が長引けば、確実に自分が負ける事を、源十郎は理解している。
サリバンは、魔法をも、使うのである。それも、得意とするのは、相手の躰を動けなくする、という、高等に属する魔法である。一対一の戦いに於いては、無敵と言っても過ぎる事のない魔法であった。
源十郎は、サリバンを快くは思っていなかった。むしろ、この男を見ると、胸糞が悪くなるのであった。
サリバンの性根が、腐っているからである。
この男が、能力を揮う目的は、ひたすらに自己の欲望の為であった。全ては、相手の恐怖に歪む顔を見、命乞いの言葉や、落命の悲鳴を聞かんが為であった。そして、それは、敵だけに留まらなかった。
半年前、イザベル懇意の商人が、十五六の娘を伴っていたが、サリバンは二人を剣で脅しつけ、拉致し、父親の目の前で、娘を犯した。父親の必死の懇願と、娘の悲鳴を聞きながら、である。娘は、のち、間もなく、自殺した。
娘の自殺の原因が、どうも、サリバンにあるらしい、という噂が立って、源十郎が問い詰めてみると、あっさりと落花の狼藉を認めたうえで、
「ばかな娘だな。ま、男を知るのは女の幸せと言う。その娘、俺という男を知ったのだから、幸せに死んでいったろうよ」
平然として、笑った。
家中の為にも斬らずんばならじ! と、臍を固めて、事の次第を源十郎がイザベルに言上しても、彼女は渋った。それを知ったサリバンの行いは、愈々(いよいよ)、不埒なものになっていった。
そして、今回、心剣を襲撃するに、誰が良いかと、イザベルに訊ねられた執事は、サリバンを推したのであった。
左様、屋敷を取り仕切る執事にしてみても、この頃のサリバンを持て余していたのである。
サリバンが、死神心剣の手に罹れば、体よく厄介払いの形。勝てば、源十郎が隙を突いて、斬り、相討ち、と言う事にする。まさしく、サリバンを選んだ執事の意図は、ここにあった。
「おい、まだか」
サリバンが、前を歩く源十郎に、弾んだ声で訊ねた。魔法が使える限り、おのれが負けるなどとは、微塵も考えておらぬ男である。普通、こちらの剣士は、不意の戦闘で無い限り、革鎧などを身に着けるものが、必要無いとばかりに、平常の服装であった。
「ここら辺りだ」
源十郎は、答えておいて、持って来ていた松明に、火を灯した。
「あの家だ」
と、遠く、夜に滲む家を、指差した。サリバンの目の底が光ったのは、松明の明かりに照らされた為だけでは、なかったろう――。
部屋は、一本の蝋燭により、仄白んでいた。心剣は壁に寄り掛かったまま、眸を閉じていたが、静かに、大刀を左手で引き寄せた。シャノンも、窓の外に、目をやっていた為、近付く松明の明かりには、すぐに、気が付いた。
心剣は、立ち上がり、窓を開け、そこに立って待った。
やがて、源十郎とサリバンが、窓の向こうに立った。
「夜分に、失礼いたす。昼の、死神氏のお言葉に、早速ながら、刺客を連れて来申した。お立ち合いられたい」
源十郎はサリバンから二歩近づいて、ぬけぬけと言ったが、その貌には、緊張が走っていた。
「あんたが刺客では無いのか」
心剣は、サリバンに一瞥を呉れただけであった。
「拙者は、この通り――」
右手で、大刀の鞘を掴み、源十郎は鍔元を、松明の明かりに照らした。鍔元は、細い革紐で縛られていた。武士が、おもに確執のある他人宅を訪問する際、訪問の目的に敵意の無いことを示す作法であった。古式では自分の髪で縛った。
「承知した」
諾して、玄関へ向かおうとする心剣へ、
「あいや、待たれい。これは、貴公の望まれたイザベル様のお心にござる。拙者がしたため申した。一応の御一読を」
源十郎は、懐から、折り畳んだ紙を取り出して、心剣に渡した。
心剣は、目を通して、眉宇を顰めたことであったが、何も言わず、紙を畳むと、袂へしまった。
険は剣を以ては折れず、小針を以て是を折る。御用心。
文面は、これだけが、したためられていただけ、だったからであった。
「心剣さん」
今度こそ、外へ出ようとする心剣に、シャノンが、声を掛けたが、
「わたしは別に、あちらとこちら、どちらの士道も踏んでは生きておらぬが、二対一は、そなたの方の士道の吟味に外れていよう。そなたの出番は、わたしが仆れた後と、憶えていただく」
心剣の答えは、これであった。
心剣が、外へ出ると、サリバンはすでに、剣を抜いていた。源十郎は離れた場所で、松明をかざして、死闘の場を照らしている。
距離三間にまで、心剣は寄った。
「貴様はどんな悲鳴を上げてくれるかな?」
言って、サリバンは残忍な笑みを漏らすと、両刃の片手剣を構えた。そして、小さく呟くように、呪文を綴った。
シャノンははっとして、心剣へと叫んだ。
「魔法です! 心剣さん! 詠唱を止めて下さい!」
しかし、心剣は、むしろ、緩慢に、登竜落しの構えを、成した。実はサリバンの構えに隙が無く、止めようにも、打ち込みは容易ならざる事であった。
詠唱の時間は、十五を数えた。
サリバンが心剣に左手を伸ばし、何かを叫んだ。
心剣は、この瞬間をあやまたず、炎柱の魔法使いの時のように、一気に間合いを詰めんとしたものであったが――
「むっ!?」
己の意思に反して、四肢は石と化したが如く、動かないのであった。動くのは、顔ばかりである。
「こう言う事か」
心剣は、ふっと、自嘲気味に笑った。
「クッ――! 心剣さん!」
心剣の目の端に、剣の柄に手を掛けて、動こうとするシャノンの姿が映った。
「シャノン、手出しは無用に願う」
絶体絶命の危機にありながらも、心剣の声はくぐもりながらも勇ましかった。。
「しかし!」
「今一度言う。手出しは、無用」
シャノンは、苦しそうに、頷いた。
「さてそこの刺客。この後、どういう趣向が待っている?」
むしろ、愉快げな心剣の声に、サリバンは大きく顔を歪めた。
「フン――そうだな。いつまで強がっていられるか、少しずつ体を切り刻んで試してやろうか。せいぜい、良い悲鳴で俺を愉しませな?」
それでも、サリバンは残酷趣味に、胸を高鳴らしながら、心剣に近付いた。
「くくく――。まずは何処からやって貰いたいか、言ってみろ」
片手剣の鎬を、心剣の頬に当てながら、サリバンが問うた。
「一思いに頸――と言いたいところだが、そうだな、どこに致そうか……」
恐怖の感情を、一向に面上へ滲ませぬ心剣に、サリバンの眼が、不快げに細まった。
「……貴様、怖くは無いのか?」
サリバンは、不審の顔で、心剣の顔を覗き込んだ。それを受けて、心剣は、ニヤリと、不敵に笑った。
その、直後であった。
「ぎゃあっ!」
サリバンが片手剣も放り出して叫び、顔を両手に埋めて、よろよろっと、後退した。
「目がっ! 目がぁっ!」
奇怪にも、サリバンの両目には、小さな針が、突き刺さっていた。
「なっ――」
シャノンはあまりの出来事に、驚きを禁じ得なかった。かわって源十郎は、無言で、大きく頷いた。
心剣に掛けられた呪縛の力が、薄れるには、二分を要した。この頃には、サリバンは跪き、言葉にならぬ喚きを、心剣へと投げていたが、目を潰された身で、どうして、その対象の位置が分かろう。
「大垣さん。あんたには一応の礼を言っておく」
心剣は、源十郎に向けてそう言った。先程、源十郎から受け取った紙には、含み針が挟まってあったのである。
「だが、あんたの意図を、こちらは汲み取ったつもりだ。なんのつもりか知らぬが、こちらはあんたの筋書き通りに踊って見せた――。恩を着せた、とは、思って頂かないで欲しい」
心剣の続けた言葉に、源十郎は、
「承知しており申す」
答えてのち、ゆっくりと、サリバンに近付いて行った。
心剣に、サリバンを斬る気が失せているのを、源十郎は感じたのであった。
「貴公は、闘えぬ者は斬らぬようですな」
「斬っても良いが、わたしより、あんたの方が、こ奴を斬りたいように見えるぞ」
「左様、こ奴は、生かしておいては、何の為にもならぬ者。貴公が斬らぬのなら、拙者が斬らねばならぬ」
源十郎の鍔元にあった革紐は、この時すでに消えていた。