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初夏の桔梗

 ノールバック王都の出入り口である、三つの橋の内、南に架かる橋を選んで都外に出れば、目の前にあるのは、森林を貫く街道である。

 街道幅は広く、十五メートルはある。昼となく、夜となく、種々雑多な人々が、この街道を行き来するのである。時代と共に、拡張され、整備されて来たのは、当然であった。

 午後の、強い陽射しが、降り注ぐ今日も――。

 近くの村の農奴が、収穫した農作物を売りに。

 行商人が、交易のために。

 王都を発つ、あるいは目指してきた旅人。

 狩りに出る猟師と、見事に仕留めた猟師。

 馬攻めでも思い立ったらしい貴族。

 貴賤を問わぬ人々が、街道上を、王都の外だということを忘れさせる程、賑やかなものにしていた。また、そうした人々を宛て込んで、茶店や、休憩所や、宿屋、両替商、酒場、露天商なども連なって、活況を、ますます盛んなものにする手伝いをしていた。

 特に、重宝されたのは、宿屋であった。ここから、一刻を歩くことなく、王都の中に入って、宿につくことも可能であるのにも関わらず、旅人の多くが、都外のこの宿に投宿した。

 およそ、王都内の宿の料金の、三分の二、という値段の安さが、理由であった。もっとも、大半の宿が、サービスも、三分の二であったが。

 そんな、夥しい、人の波を、すいっ、すいっ、と、縫うように行くのは、ジャンであった。少年の手には、大きな袋が握られてい、その袋いっぱいに、野草が、詰められていた。野草は殆どが、薬の材料と成る物であった。

 ジャンは、数日に一度の割合で、森林の中に分け入っては、母親と家計の為に、薬草を摘んでいたのであった。

 袋からは、季節にはまだ早い、桔梗の淡い薄紫色が、一花、伸びていた。

 季節外れの花は、珍花として、中央通りの花屋にでも売れば、それなりの値が付くのだが、ジャンには、その気は無かった。

 桔梗の根は、乾燥させれば、痰を除く薬となる。しかし、花屋の方は、その根ごと要求するからであった。

 南大橋に、ジャンが戻って来た折りの事であった。

「ほう――今時期に桔梗とは!」

 この地には珍しい、袴を着けた大柄な通行人を、一人、背後から追い抜くと、ジャンの後ろで、野太いが快活な声が上がった。ここまでに、もう十回は、そんな事があったので、ジャンは慣れっこになって、振り向くでもなく、先を急いだ。

 橋は、十メートルばかりの幅を持ち、距離は、優に三十メートルを誇る、石橋であった。つい、五十年前までは、木造だったのを、当時の王が、家臣団の反対を押し切り、造らせたもので、完成まで、二年の歳月をかけた。

 王都防衛の点や、歳費から反対していた家臣たちだったが、いざ、完成してみれば、そのあまりに見事な出来栄えと壮観さに、王家の威光を感じ、讃えたという。その後、順次、東西の橋も、石造りに、との提案に、今度は反対をしなかったという。

 南大橋は爾来さまざまの風雨暴水によく持ち堪え、細かく修理されながら、今日まで、王都の玄関口として役割を果たしている。

 ただ、この橋を行き来するのは、善男善女ばかりでは無かった。

 大橋の中間を少し過ぎた辺りで、痩せた男が一人、両手を大きく広げて、ジャンを通せんぼした。

「なんだよ、どけよ」

 ジャンは男を一瞥して、

 ――金は持ってないな。

 と見て取った。

 みすぼらしい旅人姿の男であった。長旅で日焼けした顔や衣服は塵埃(じんあい)(まみ)れていた。が、不思議に荷物を持っていない。誰かに盗られでもしたようであった。

「まあ、そう言わずに、その花、おれに呉れないか」

 悪びれる様子も無く、男は言ったものであった。

「ふん――誰がやるもんか。欲しけりゃ、自分で探してきなよ」

 男は少しむっとした表情を見せた。が、すぐに真剣な顔で、周囲を見回した。

 ――コイツ、無理矢理でも奪うつもりだぞ!

 男の行動にそう直感して、ジャンは警戒した。男の脇をすり抜けようと、隙を窺っていると、

「このガキ! それは俺の袋だぞ!」

 いきなり男が叫んだ。

「みんな、このガキを捕まえてくれ! このガキ、泥棒だ!」

 男の声に、通行人たちが、足を止めた。

「ふざけんな! これは、俺が自分で森の中に入って採って来たんだ!」

 ジャンは顔を真っ赤にして、言い返した。予想外の男の策に、ジャンの背中に冷たい汗が流れた。

 もし、ジャンが掏りをしている事実を知る者がここに居合わせ、それを指摘されれば、周りは男の言葉を信ずるであろう。

 だが、それは杞憂に終わった。

「皆の者、騙されてはいかんぞぅ。その男の言っているのは、大嘘だ」

 ジャンの後ろから、野太く暢気な男の声がしたのであった。ジャンが振り向くと、声の主は、浅葱裏の羽織を纏い、濃紺の袴を着けた、恰幅の良い男であった。黒塗りの二刀を差している。先ほど、橋の前で、追い抜いた人物に相違無かった。

「わしは、さっき、その少年に追い抜かれたが、その時、ちゃあんと、袋を持っていたのをこの目で見ておる。時期にまだ早い花を見せられては、忘れるな、という方が難しかろう。――少年が追い抜いて来た者たちも、待っていれば、やがて来るであろう。中には、少年が、森から出てきた時の事を、目撃している者もあるはずだ。……ここに集まった人々に、わしの言う事と、その男の言う事と、どちらが正しいか、やってみるか?」

 大柄な男は、不敵に笑った。

 旅男は、憎々しげな顔になって、しばらく、中年男を睨んでいたが、

「クソッ……!」

 一つ呻くや、逃げて行った。

 一度は足を止めていた通行人たちも、ある者は合点顔になって、別の者は旅男の嘘だったことに憤りを滲ませ、その他の者は、旅男の境遇に僅かの憐憫を見せつつ、しかしほとんどが、それはそれとして、厄介事に巻き込まれずに済んだ……のほっとした表情で、再歩を踏み出した。

「助かったよ、おっさん」

 再び振り向いて、ジャンは礼を言った。改めて見てみると、中年男は、熊と言っても、さまでの誇張にはならぬかと、思える人物であった。

 面貌を幾ら観察しても、他人に伝える際には、熊、としか、形容出来ぬほどの、髭、髯、鬚であった。

 太い眉は、ゲジゲジしているのであったが、ここは一応、気を遣っているのか、きれいに、真ん中を繋がらぬようにしてあるのであろうかと見える。

 そして、羽織袖から伸びる腕肌の、太く濃い、体毛が、やはりこの男の第一印象というものを、決定付けていた。

「礼には及ばぬ。……が、だ。わしはまだ三十に、まだある。『おっさん』呼ばわりはやめて欲しい所だな」

「……見えねえよ」

「……うぅむ。見えぬかぁ」

 そう答えた調子が、いかにも他人事のようで、中年かと思われた男は、いっそ、(しろ)い歯を見せたものであった。

 顔を綻ばせると、いかつい顔だったのが、嘘であったかのように愛敬のあるものになる。

「それはそうと、その桔梗、売りにでも行くのか?」

 男の問いに、ジャンは首を横にした。

「売りになんか行かないよ。母さんに渡すんだ」

「母御にな」

「母さん、薬師なんだ。俺が薬草を摘んで、母さんが調合して、出来たのを、売るんだ」

「ほお、母御はお医者なのだな」

「医者じゃないよ。薬師だよ」

「そうか。済まんな。しかし、桔梗の根が、薬になるのは、聞いたことがあるが、花も薬になるのか?」

「これはただ単に、飾ろうと思ってさ。今、うち、怪我人がいて、時季外れの花でも飾れば、少しは元気も出るかもしれないし」

 笑ったジャンの頭を、男は撫でた。

「ふむ――感心な心掛けだ。偉いものだなぁ」

 いつものジャンならば、子供扱いされて、むくれるところだが、この男にはなぜか不思議と、反発を覚えなかった。

 ふと、ジャンは、

「……もし、欲しいなら、やろうか? 根っこは、あげられないけど」

「うん?」

 ――助けて貰ったお礼だし、死神のおっさんに花ってのも、ガラじゃなさそうだしな。

「おっさんにだったら、あげるよ。さっきのお礼」

 男は意外そうに眼を瞬かせたが、

「くれるのか――いや、それは悪い。根が無くとも、それなりの値にはなるだろうし、怪我人にも、悪い」

「いいって。どうせそんなこと気にする人じゃ無いしさ」

 やがて、申し訳なさそうに、男は頷いた。

「そうか……済まんなぁ」

「売るなら、『アンシャンテ』って店が、そこそこの値段つけてくれると思うぜ」

「いやいや、売らんよ。イザベル様――わしのお(しゅう)様に、お差し上げしよう。おっと、こんな珍しい物を貰って、まだ名乗って居らなかったな。わしは、大垣源十郎という」

「俺はジャン」

「そうか、ではジャン。ありがとうな」

 大垣源十郎は、ジャンから、桔梗を受け取って、しばし、見入った。野生の熊が一輪の美しい花に見惚(みと)れている様で、ひどく、不釣り合いな感じに、ジャンは小さく噴き出した。

 源十郎は、気にした様子も無く笑った。

「そりゃぁ、わしには似合わんさ」

「ごめんよ。あ、俺、そろそろ行かなくっちゃ」

「おお、そうか。ではわしも行くとしよう」

「じゃーね。おっさん」

 ジャンと源十郎は、手を振り合った。

 ジャンは数歩駆けたのち、振り返った。

「そうだおっさん。おっさんって言われたくなかったら、もう少し若作りしなよ。あと、『わし』って言うのも、やめた方がいいぜ」

「はははっ! それもそうだ」

 源十郎は破顔した。


 半刻ののち――。

 可憐な一花を左手にした熊――もとい、大垣源十郎は、広壮な屋敷の門を潜っていた。

「大垣源十郎が参った」

 玄関口で、大声を張り上げ、案内を待たずに、源十郎は廊下を進んだ。

 屋敷の人間は源十郎を認めるや、丁寧に一礼をした。源十郎は殆ど無視するかのようであった。先ほどと、打って変わって、表情は、固いものになっていた。

 源十郎は一室に入るや、誰もいないその部屋で、一人を幸い、

「疲れるな……。忠僕たるべく、その志は盤石に揺るぎ無いものだが、武士、侍としての振る舞いを、家中の者どもに示さんとするのが――やはり、疲れる。……いかんな」

 と、ため息を吐いた。……これは、風貌に似合わぬ、武士道の吟味だった。

 巧言令色少なし仁。論語中の言葉を、源十郎は実践しているのだった。礼儀三百威儀三千の振る舞いを、心掛けていた。

 ……もっとも、終日ではない。一人きりになったり、おのれを知らぬ、屋敷外の人間には、気さくであった。


 この、大垣源十郎の前身は、仙台領主伊達家の臣であった。大垣家は、代々、微禄の士であったが、源十郎をもって、その家名を、大いに上げんとしていたものであった。

 相沢永長斎直房に小山一刀流を学び、入門三年、わずか十歳で、道場の高弟の一人佐藤治郎右衛門信明から、五本に一本は、互角に渡り合うといった天稟(てんぴん)ぶりを示したからである。

 が、永長斎は、当時の源十郎に、目を掛けるどころか、

「大吾(源十郎の幼名)は、遅い。我が流は、機敏を以て旨と為すのを、大吾は遅い。戦場の騎馬武者が、重厚な大鎧武者に対して翻弄させるを第一とする我が流にて、大吾の剣は、大鎧の武者のものなり。(さか)しらな子供が、賢しらな知恵を働かしたのに過ぎぬ。……囲碁に例えれば、当流は模様。大吾は地に走りすぎている。無論、悪いことではないが、過ぎるたるは及ばざるの言葉通りじゃ。もしこのまま、もう三年を経て、大吾の剣が成長の兆しを見せぬなら、破門せざるを得ぬ。……おそらくは、破門じゃろうな」

 と、期待を一割は残した諦めの言葉を、もう一人の高弟にこぼしている。当時源十郎はこれを伝え聞いて、涙した。

 しかし、並みの十歳と違う所は、その涙の、意味であった。

 普通の子であれば、勝てぬまでも、優れた才能を見せて、何故に破門云々になるのか、と、憤るところを、大吾少年は、

 ――このままでは、駄目なのだ。今までは、小手先ばかりだった。翻弄を尽くして、佐藤様に勝ちたい一心で、わたしは奇策をただ用いていただけ。ただただ、奇策の一手のみに賭けていた。師匠(せんせい)のお言葉は、正奇は中庸(ちゅうよう)より生じると、迅速の体中に不動の心ありて、不動の境地の中に俊敏自在の心体の働きがあるのだという御忠告に他ない!

 という、わずか十歳で、すでに素読(そどく)吟味(ぎんみ)を受かって、公年資格を有していた、まことに少年離れした考えによる涙であった。

 改心した大吾少年は、小山一刀流の流意を、体得せんとの修行に明け暮れた。一年後、少年の改心を、真のものと観た永長斎は、昨年の少年を評した己の不明を、直接、詫びたものであった。

「いえ。師匠のお言葉が無ければ、わたしはきっと、駄目になっていたに相違ございません。小手先ばかりの、目の前の事のみを問題とする、人間にしか、ならなかったと、思われます。でも今は、師匠のお言葉に、そんな人間になっては駄目だと、気が付いておりますれば、自分自身、努力して、そうならないよう、気を付けることを目指しております。師匠。これからも、是非とも、わたしの心が軟弱になったらば、御指摘下さいますよう、お願いいたします」

 大吾少年の答えに、永長斎が、大きく頷いた。

 ――惜しい! 我が流は、伊達家お(とめ)流……。しかして、この少年は、天下に()じぬ兵法者たる資質を備えた、新たに一流を創始する程の人物になるであろう……!

 十年後、元服して名を源十郎に改めていた彼は、小山一刀流の極意、(ことごと)くを備えるまでになった。

 それを悟った永長斎は、源十郎を破門とした。

 普通の破門とは、意味において大いに違っていた。

 守を破るに離れる。まさしくこの為の破門であった。

 一流を極めた者は、極めたが故に、その不備を悟る、という。真に完璧な剣法がもしあるのなら、世に数百を数える流派など、生まれていないはずである。

 源十郎に、武者修行をさせるが為の、破門なのである。

 永長斎自身、武者修行ののち、小山一刀流を編んだ。源十郎が、お留流門人のままでは、(さわ)りがあった。

 伊達家当主は、源十郎の諸国修行の願いを、一度は黙殺したが、永長斎の強い働きかけもあって、ようやく、許可を出した。源十郎、二十三の夏であった。

 師と同様、まずは一年、津軽地方を旅した源十郎は、しかし、道場主との試合を果たすことは、一度たりとも叶わなかった。道場側が負けた場合、評判に関わる為であったろう。しかもまだ、武者修行時代の、永長斎の剣名が津軽地方に消えぬ名として、残っていたのも、源十郎にとっては、不幸であった。

……ただし、竹刀木刀の試合は無かったが、真剣の立ち合いは、五回を数えた。

 いずれも、(いたずら)牢人と言っても構わぬ相手たちであった。

 その五回の勝負に生き残り、源十郎は、改めて太刀と木刀、道場の剣術と死生の場における剣術の違いを痛感しつつ……、帰参した。

 江戸へと、発ったのは、ひと月後である。

 途中、鹿島明神に寄り、祈願の両目を開けると、世界が、様変わりしていた。

 ――は?

 見渡す限り無人の草原であった。ついさっきまであったはずの社も、参道の石畳も、鳥居も、消えていた。

 愕然としながらも、源十郎は歩き始めたが、遥かに見える地平線の向こうまで、草の大地は続いているかに見えた。


 源十郎が、家人に持って来させた一輪挿しに、ジャン少年から譲り受けた桔梗を挿して、およそ、五分後――。

「大垣様、イザベル様がお呼びになられております」

「いま、参る」

 応えて、源十郎は一輪挿しを左手にした。案内されたのは、寝室であった。

 イザベル・カペーは、この屋敷の主人であり、かつ、稀にも見ぬ美しい女性であった。

「大垣源十郎、参りましてございます」

 源十郎は平伏した。

「おお、よくぞきてくれた、源十郎」

 イザベルの腰まで下がる銀髪は煌めくかのようであった。白磁にも似た白い肌膚は、四十を越えてもなお、瑞々しいまでの張りがあった。細い柳眉、切れ長の眸子、薄い朱唇、並びの良い皓い歯。

 しかし、薄桃の半透明の寝召しに、豊満な身を包み、ベッドに体を横たえたイザベルの姿を、天蓋から降りる薄絹のカーテンにより、源十郎が直接見ることは叶わなかった。その事に、源十郎は不審を覚えた。

「イザベル様――。もしや、お体のお加減が、麗しゅう無いのであられましょうや?」

「ほほほ……案じておるのは、わらわの身かえ? それとも自分の立場かえ?」

 御簾が如き、カーテンの向こうから、発した声でさえ、艶冶なものを、聞く者に想像させるに充分足りた。

「ふふ――安心しやれ。今日は、誰にも顔を見られたくないのじゃ。憎きことに、頬を、虫に刺されての」

「左様でございましたか……」

 からかわれて、源十郎は、忸怩を、感覚した。確かに、最初はイザベルの身を案じた、正直な言葉として、言ったものの、一方では、己に主が飽いたとも、僅かばかり考えた源十郎であったのだった。

「おや? なにを持っておるのじゃ?」

 イザベルの声音が変わった。

「はっ。本日、ある者より譲り受け申した、桔梗にござりまする。イザベル様にお捧げしようと、持って参りました。お受け取りくださいますか」

「珍しきものを。嬉しいぞえ。やはり、わらわの心を慰めてくれるのは源十郎、そもじだけじゃ」

 言って、イザベルは、

「近う――」

 源十郎を促した。

「およろしいので?」

「構わぬ。じゃが、わらわの顔は見てくれたもうな」

 源十郎はベッドまで膝行(しっこう)し、カーテンを僅かに開けて、そこから一輪挿しを差し出した。

「おお……なんと可憐な」

 ――イザベル様のお美しさには、敵いますまい。

 源十郎は、咽喉元まで出かかった言葉を、なんとか制した。

 暫く、イザベルは桔梗を愛でている様であった。


 源十郎が、このイザベルに拾われて、もう三年が経つ。七日間、飲まず食わずで彷徨(さまよ)い歩いた彼は、ついに草原に倒れて、もう一度立ち上がる気力体力は、尽きていた。

 ――わしは、こんな所で死ぬのか……。

 同じ死ぬならば、誰かの刃にかかって死にたかった。

 どのくらい、倒れたまま、澄み渡る青空を、そのまなこに、ただ映すのみであったろう。

 ゆるゆると思考が戻ったのは、生命の最後のもがきと言うべき、神秘(くしぴ)であった。

「生きてるか」

 耳朶に人の声が届いた。気が付いてみれば、一人の男が、源十郎の顔を心配げに覗き込んでいた。

「み……水を……」

 死の間際であった。男の異相に源十郎が気付かぬのも、無理は無かった。

「水だな。待っていろ。すぐに飲ましてやる」

 男が言って、源十郎から離れた。この時の源十郎の思考は、正常とは言えなかった。

 ――待ってくれ! 水を! 水だけでよいのだ!

 源十郎はそう叫びたかったが、出来なかった。離れてゆく男の背中を、目で追うだけが、叶うばかりであった。

 男は少し離れた場所に停まった馬車に向かうと、すぐに戻って来た。手には、水筒と箱のようなものを持っていた。

 男は、源十郎に無理の無いよう、丁寧に水を飲ませたうえで、箱を開いた。食物であった。野菜や肉をパンで挟んだサンドイッチであった。無我夢中でむしゃぶりついて、あっという間に平らげた源十郎は、やっと人心地つき、そこでようよう、男の異相に驚いたが、助けて貰ったのには変わらず、

「か――かたじけのうござった」

 深々と頭を下げた。

「礼ならあちらの御方に申されるのだな」

 男は馬車へと、視線を投じた。馬車は、数人が囲っていた。車内にはイザベルが居り、源十郎を助けたのは、彼女の小姓であった。

「まだ、満足ではなかろ。御主人様が、屋敷で馳走を施されてくれるとのお言葉だ。ありがたく頂戴されよ」


 ――出されたのが、牛や豚だと聞かされた時は、仏罰を(おそ)れたものだったがなぁ。

 イザベルとの出会いを、彼女の無言のあいだに思い出して、源十郎はそんな事を考えていた。

 ――薬食いと割り切ったが、成程、弱っていた体に、良く効いた。

「ところでのう、源十郎」

 思い出は、イザベルの声に破られた。

「はっ」

「この美しい桔梗も、いつかは枯れような……わらわもいつか枯れような」

「……」

「源十郎……そもじは、わらわがもし、醜く老いさらばえたなら、なんとしやる?」

「……人は、誰しも老いるもの。しかしながら、美しく老いるか、醜く老いるか、心がけ一つかと存じます」

「もしもの話じゃ。もしもわらわが、醜く老いたなら、そもじはわらわの許を去るかえ?」

「滅相もございませぬ。それがしは、イザベル様の御慈悲に、この命を救われたのでございます。去るなどと、そのような不忠の行い、断じて致しませぬ」

「まことかえ」

「無論にござりまする」

「老いたく無い、などと無理は言わぬ。同じ老いるのならば、わらわは美しく老いたいものじゃ」

「それに越したことは、ありますまい」

 イザベルは、数秒黙ってから、

「うふふ、老いずに済むかも知れぬのなら、そもじも嬉しかろうて」

 源十郎に謎をかけた。

「畏れながら、いささか、御言葉の意味が解りかねまする」

 ――まさか……!

 イザベルに答えてから、源十郎はハッとしたものであった。

「もしや! イザベル様!」

 源十郎の反応に、イザベルは満足そうな笑い声を立てた。

「まだ美しさを保っておる内に、わらわが自害するとでも思うたかえ? ほほほ――そもじも、中々にロマンチックじゃな」

 源十郎は安堵したが、先ほどの言葉の意味は解けぬままである。

「手伝うてたもるかえ?」

 訊いている恰好であるが、命令と変わらぬものであった。

「御意。なんなりとお申し付け下さいますよう……」


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