魔法
叔父である、松平雅楽頭利信の、振り向いたその顔は、驚きと恐怖に彩られていた。雅楽頭のすぐ傍に、鬢もほつれ、着物も乱れた女が、横たわっている。
「き、気でも触れたか兵庫助!」
「ぬかせ! この姦夫めが! わしは正気じゃ!」
直後、雅楽頭の肩口から、わき腹にかけて生まれた傷口から、血飛沫が噴出した。
――また、この夢か。
雅楽頭は何かを叫びながら、畳へ倒れた。座敷がみるみると血に染まる。
「小夜!」
女は若い。近寄った時には、自らの手で、その喉を突いていた。
「小夜! 小夜!」
――忘れた頃に見る……。
女の口が震えたが、すでに声は出せない。
「兵庫……助……さま」
だがはっきりと、そう言っていた。
死神心剣は、ゆっくりと、両の目蓋を開いた。そこは、見覚えの無い、質素な部屋であった。
――死に損ねたか、俺は……。
ベッドに、仰臥したまま、ぼんやりと、天井を見つめ続けて、どれほど経ったろうか。心剣の耳に、扉の開く音が、聞こえてきた。
顔を向けると、一人の女が、姿を見せたところであった。
「お目覚めですか?」
女は、心剣へ、微笑んだ。
美しい女であった。
だが一目で、この女が、何かしらの病苦を得ているのが、削げた頬と、青白い面色から、知れた。
若く、瑞々しい肉体は、とうの昔に、陽光を弾いて輝く金髪の艶と共に、失くした、と思われる。陶磁器のように白くなめらかな肌膚は、痩せ細った体躯に、わずかに、残酷な名残を見せていた。それでも、いや、だからこそ、美しく感じたのやもしれぬ。
そして、その碧い瞳に、光があった。生への希望があった。命の、輝きを、心剣は見た。
「……」
心剣は、上体を起こしてみて、まだ、微かながら体に痺れが残っているのを、悟った。負傷した左腕に、手当の跡を知った。着物も、脱がされ、肌着にされていた。
「いけません。まだ、安静にしておられませんと」
「……どなたかは知らぬが、痛み入る。ですが、わたしの身を案じて頂く必要はないと、思っていただきたい」
言い放って、心剣は、視線を部屋に廻らせた。
貧しさがあった。床も壁も傷んでいた。窓にカーテンも無く、ガラスは、所々、磨りガラスのように曇っていた。調度品と呼べるような物は、わずかに、木製の丸テーブルと椅子、そして箪笥だけであった。
そこへ、新たに入って来た者があった。ジャンであった。
「あっ! 気が付いたんだな、おっさん!」
「……ジャン」
「こ、こらっ、ジャン! お客様へ向かって、なんて事を――」
女がたしなめたものの、ジャンの耳には届かなかった様で、彼は、ひょいと背中を向けて部屋を出て行った。
「すみません……躾がいたらぬばかりに」
申し訳の無い態度の女に、心剣は訊ねた。
「いや、構わぬ。貴女は、あの子の母親であろうか?」
「はい。コゼット、と申します」
「手当も、貴女が?」
「はい。ジャンと、もうお二人が、貴方様をお連れになり、その後は、私が」
「もう二人?」
心剣の眉宇が動いた。意識を失う寸前、雨の中、傍に居たのはジャンだけである。
「お一人は、藤井圭吾さんと仰り、『すし』という食べ物をお扱いになる、屋台のご主人だとか」
――あの、あるじか……。
と、心当たりがあったのに対し、
「もうお一方は、ブランドフォード子爵様の御子息で、シャノン様、とお名乗りに」
こちらは、全くの、初耳であった。
と、数人の足音が、心剣の耳朶を打った。
ジャンが、改めて、部屋へ姿を見せるのに続いて、件の二人も、顔を見せた。
「お目覚めですか、お客さん!」
寿司屋台のあるじが、湯気の立つ鍋を両手に持っていた。
「良かった。どうなることかと思いましたが……。大事にいたらなくて、何よりです」
赤毛で肌の白い、秀麗な顔立ちの若い男が、あるじから引き継ぐような形で、そう、言った。およそ、誰であっても、はっとするほどの美丈夫であった。
心剣が口を開くより先に、屋台主人、藤井圭吾が言った。
「これは、薬草のスープです。お口に、合うかどうかわかりませんが……」
「味見をしたわたしは、これは、貴方の身に障るのではないかと、言ったのですが……」
若い美男――子爵の息子シャノンが、居た堪れないと言った体で、頬を人差し指で、掻いた。
「良薬口に苦しってやつです、ブランドフォード様。ささ、お客さん、どうぞ」
心剣は、しかし、口をつけようとはしなかった。圭吾とシャノンを、等分に見遣って言った。
「そなたらが、俺をここまで運んでくれたらしいが」
圭吾が頷いた。
「雨の中で屋台やってても、お客さんなんて来ませんからね。店仕舞いにして帰る途中、お客さんを背負ってるこの子に、助けを求められました。よく見ると、さっきの子だし、気を失ってるのはさっきのお客さんじゃないですか。これも、何かの縁だと思いました」
「わたしは、そこへ偶然、通りかかったまでですが。放ってもおけず……」
と、こちらはシャノン。
「最初は、わたしの屋敷にお運びしようと考えたのですが、ジャンが、貴方が毒に侵されていると言うので、こちらへ。距離としても、こちらの方が近かったですし」
「薬草なら、俺んちに、沢山あるしな」
と、ジャンが胸を張った。
「俺は、どのくらい気を失っていた」
心剣は、窓の外を眺めた。陽は、すでに暮れ、雨も、止んでいるようであった。答えたのは、シャノンであった。
「六時間くらいでしょうか。察するに、その左腕を傷つけた武器に、毒が塗られていたのでしょう。雨の中で闘ったと聞きましたので、多少は毒も流れて、威力が落ちたのかもしれません。気を失われている時に、飲んで頂いた薬草も効いたのでしょう」
「……そうか。かたじけない。礼を言わせて頂く」
礼を述べておいて、心剣はベッドを降りようとした。
「まだ、横になっておられた方が……」
心剣の体を気遣うシャノンに、
「気遣いは無用に願う。それよりも、俺の着物を――」
心剣は言ってのけた。刀は、ベッド脇に、立てかけられていた。コゼットが、一つ、頷いて、部屋を出て行った。
「ですが……」
戸惑うシャノンに、味方をしたのは、ジャンであった。
「そうだよ、安静にしてろよ、おっさん。命、狙われたんだぜ? そんな体で、闘えんのかよ」
「命を狙われるのには、慣れている。明日を生きたいと、願ってよい男でも無い」
「馬鹿言っちゃ、いけませんや」
圭吾は、急に、伝法な口調になった。
「それじゃ、旦那を助けた俺たちの立つ瀬が無ぇ。旦那、さっき、俺たちに礼を言いましたね? 礼を言うくらいだったら、態度で、示して貰いたいもんですぜ」
「どう、いうのだ?」
「そう、態度! 怪我人は、怪我人らしく、治すのが、俺たちへの礼ってもんじゃないですかね」
圭吾の言葉に、心剣は、わずかに、目を、戻ってきたコゼットに向けた。コゼットは、再び、微笑みを見せたものであった。
「ご覧の通りの、貧しい家ではございますが、この子が採って来てくれる、薬草だけはありますから」
「……分かった。それが、そなたたちへの礼と、なるのであれば」
我もなく、心剣は頷いていた。人から世話を受けることを、何よりも嫌う男が、自然と、その言葉を、口にしたのであった。これには、口にした心剣自身が、驚いていた。
「そう言えば、自己紹介をまだ済ませておりませんでした。わたしは、ブランドフォード家、ミドストリムが息子、シャノン・ブランドフォードです」
「わたしは松――」
心中の混乱から、とうに、捨てたはずの、名を、口にしそうになった。
「いや――俺の名は……死神心剣という」
静かに、名乗り直した。
「死神……?」
シャノンのみならず、圭吾やコゼットもが、怪訝な顔をしたものであった。
「そう、憶えておいていただこう」
コゼットから渡された黒羽二重を、心剣は、痺れの残る体ながら、手早く身に着けた。それを眺めながら、シャノンが、感心した声を上げた。
「しかし、魔法使いを相手にして、その程度で済むとは……。相当、腕の立つ方なのでしょうね、貴方は」
「魔法使い――?」
心剣の、帯を巻く手が、止まった。
「あれが――魔法使いというものか……」
心剣にとって、魔法なる言葉自体は、二度ほど、耳にしたことがある、という程度であった。
最初は、本邦、昌平坂学問所において、
『弓矢はまほうにて候故、軍配を御用なければ、勝負の儀、胡乱に御座候』
これは、武田家の軍学を学ぶ上での、最上とされた、甲陽軍鑑、その中に、ある言葉であった。
武田信濃守大膳太夫晴信、のちの、法性院機山信玄、つまり、武田信玄は、天文二十年に、仏門に入り、院号法性院、諱を信玄と改めたが、仏道の師である岐秀和尚は、
「修行の完了は、なりませぬ」
と、信玄公を諌めた。
戦国の時代の事であった。新羅三郎源義光から二十七代。仏門修行の完成は、名門の血を絶やすことになりかねない、という理由であった。
何故、信玄がこの岐秀和尚に師事したか。晴信時代、自国に招いていた、惟高、策諺の両僧侶が帰京の折り、
「ご帰依は臨済宗妙心寺派になされ、その場合は、長禅寺の岐秀玄伯の元で修行なされますよう」
こう、薦めたからであった。
「とは申せ、武門の者は、現世の名誉を、まずは求められればよろしいかと。弓矢合戦の勝利こそが、武門の者の第一義と思召せ。合戦とは不可思議なものですから(弓矢はまほうにて候故)、軍配の修行無くては、勝利を得ることは難しいでしょう」
前述の言葉は、両僧侶が、信玄へと忠告した、この部分である。
心剣が次に、魔法という言葉を聞いたのは、いつの間にか、ゆくりなくこの世界へ来て、一年ほど経ってからであった。
足の向くまま、街道を拾っていると、人だかりに出くわした。人だかりは、死人を前に、何言かをかわしていた。
街や村を離れた街道沿いに、行き倒れなど、珍しいものでは無いというのに、蝟集しているのが、気になった。
「魔法使いだよ……」
「魔法使いが、なんでまた……」
死んでいたのは、二十代と見える、髪の長い、若い男であった。武器らしいものは、何一つ、持っていなかった。仕立ての良さそうな、衣服を纏っていた。指輪や、耳飾りなどの装飾品を多く身に着けていた。身分職業で、風体が決まってくるのは、何も、日本だけでは無い。心剣も、それは知っていたが、細かい刺繍のなされたローブを見るのは、初めてであった。
魔法使い、とはなんだ? と、気になった心剣だったが、集まっていた人々が、誰からともなく、死体に近付き、それが合図になったように、衣服や装飾品の、浅ましい奪い合いになったのを見て、興味は、霧散したものであった。
「わたしの知識は乏しいのですが」
シャノンは前置きをしておいて、魔法には、さまざまな種類があり、魔力さえ有していれば、訓練次第で、ほとんどの者が使える、という簡単な説明を行った。
「では、お手前も、使われるのか?」
説明を受けて、心剣が訊くと、シャノンは否定した。
「わたしに魔力はありません。有無は、生れ付きのものだそうです。ですから、わたしは専ら、剣技に励んでおりました」
「お手前の口振りでは、魔法使いなる者は、珍しくないようであるが」
重ねて訊ねる心剣へ、シャノンが頷いた。
「そうですね。珍しくは、ありません」
「わたしは、今日まで多くの刺客に狙われてきたが、初めて相対した」
「それなんです。魔法使いは、いわばエリートです。それなのに、刺客とは……」
シャノンは、合点のゆかぬ様子であった。
戦場に於いては、優秀であるかどうかを別にして、魔法使いの多寡が、勝敗を決めることも珍しくない。戦場外でも、荷揚げされた魚を凍らせ、遠隔地へ運んだり、風をおこして船を進めたりと、その収入は、一般人に比べてかなり多く、わざわざ、暗殺に携わってまで、糧を得る必要など無い。と、シャノンは続けた。
それを聞いて、心剣は、片唇を上げたものであった。
「魔法使いというものは、さぞや重宝されるらしい」
心剣の一言に、シャノンは頷いたが、やはりまだ、納得がいかぬらしかった。
――何の役にも立たぬ人間と、重宝され過ぎる人間と、この二つはどちらも、心がねじくれやすく出来てしまうものらしい。
心剣は、胸中で、そう独語して、帯を巻き終えた。
「また、明日にでも、様子を見に来させていただきます」
と、シャノンが言い残し姿を消して、しばらくのち、圭吾も、同じことを言って、別れを告げた。
圭吾は、置き土産に、粥を作っていた。コゼットによると、一度、心剣を運び入れた後、屋台を塒に移し、米を手にして再び戻って来たとの事であった。
流通の少ない米は、高価であった。一人が一日で食する米を求めるとき、三日分のパンと、その値は同じであった。
驚き、恐縮するコゼットを尻目に、
「後で三人で召し上がってください」
圭吾は半ば強引に作ったのだった。
「温め直してきますね」
コゼットが台所へ移り、部屋には、心剣とジャンの、二人となった。
竈へ、火を入れる為、コゼットが火打石を鳴らすのを、微かに耳朶に入れながら、心剣はジャンに言った。
「ジャン」
「何?」
「昼に約束した勝負は、俺の負けとしたい」
ジャンは、僅かばかり、顔をしかめ、小声で返した。
「何言ってんだよ、俺はまだ……」
心剣の昏倒していた時間は長かったにも関わらず、ジャンは、財布に手を付けていなかった。その事だけでも、この、ジャンという少年の、気性を理解するには充分である。
「俺から、持ちかけておいて、勝手に、勝負を中断させてしまったのだ。負けを認めて、詫びるほかないことだ」
心剣は、財布を取り出した。
「とは言っても、お前は受け取らぬだろうな」
「当たり前だろ。昼間も言ったはずだぜ」
「だから、これは礼だ。これから、傷を治すにあたって、俺はしばらくここに厄介になろう。世話賃、あるいは、治療費だと考えてくれれば良い」
ジャンは、不承顔を崩しはしなかったが、
「だったら、母さんに渡してくれよ」
これが、少年にとって、最大限の譲歩であった。
深夜――。
一人、心剣が休む部屋に、忍んだ影があった。影は、音たてぬよう、ドアを開けた所で、止まったなり、静止した。
闇の中にあっても、心剣の眠るベッドの様子が窺える。しばらくの静止を、その観察にあてていた影は、息を潜めて、ベッドへ近づいて行った。手には、ナイフが握られていた。
その影に、背中を向けて、心剣は横になっている。
決断すれば、一秒と経ず、手にしたナイフを刺せる位置までになったが、影は、しかし、その決断を、すぐには、下さなかった。
ようよう、覚悟を決めたか、ナイフを両手で高々と持ち上げた。
「やめておくことだ。こちらは、起きている」
寝ている、とばかり、思えていた心剣に、浴びせられて、影は、金縛りにあったが如くであった。
「なぜ、そなたが俺を刺そうとするのか、こちらはおよその見当がついている。そなた、あの手紙の字が読めたか」
心剣は、横になったままで、そう続けた。
「……はい」
答えた影の、震えた声は、コゼットのものであった。
「服を着たとき、手紙が無くなっているのには、すぐに気が付いた。さしあたって、そなたか、あのシャノンという男かの、どちらかであろう」
心剣の静かな声に、コゼットは、ゆるゆると、持ち上げていたナイフをおろした。
「貴方は……あの手紙を、お読みに?」
か細い声で、コゼットが訊いた。
「目は通したが、なんと書かれているのかまでは、解らなかった。信じてもらうより他はないが、あの手紙は、ひょんなことから、たまたま拾っただけに過ぎぬ。本来受け取るべきであった人間に、渡す存念も無かった事だが……。どうやら、そなたが、その人間であったらしい」
背中を、コゼットに向けたまま、心剣は言ったが、ややあって、否定の声が、耳に届いた。
「違います……」
「違う? ならば、何故に、このような仕儀を選ぶ?」
畳み掛けた心剣であったが、その胸では、すでに一つの答えを、推量し終えていた。
――多分に、ジャンに関係することなのであろう。
これであった。
「…………」
コゼットの沈黙は長かった。心剣は待ったが、とうとう、痺れを切らした。
「答えたくないのならば、これ以上は訊かぬ。そなたが、今夜の事を無かったものにするというのであれば、こちらも、それを選ぶことにやぶさかではない」
「……」
「だが、忠告しておかなければならぬことがある。あの手紙に、何が書かれてあるのか、そなたの手に渡った以上、俺としてはもう興味は無いが、書いた者、本来受け取るべきはずであった者からすれば、その限りでは無かろう。……何せ、そなたがこのような無謀を選ぶほどの内容なのだろうからな」
「…………」
また、数分の沈黙を、心剣は強いられた。暗に、相談に乗ると、言っているのを、まだ、コゼットは思案している、と決めつけた心剣の肚裡は、
――勝手にしろ。
冷めたものに変わっていた。
己の態度を曖昧なものにして置きながら、相手に選択肢を突き付け、その様子で勝手に興味を失くしてしまうのは、この男の悪い癖であった。
「手紙は、そなたの自由にするが良い。俺は、傷が治れば、おさらば致そう。今夜の事、こちらから無かった事にさせていただく。――ここでまごまごしていると、いつ、ジャンが目を覚ますか分からぬ事だぞ」
「あの子には……魔法の才能が眠っています」
「…………それが?」
あくまで、背中を向けて横になっていた心剣だったが、コゼットの次の言葉には、思わず、彼女に、顔を向けたものであった。
「絶対に……目覚めてはいけない才能です」
「…………?」
今度は、心剣の方が、押し黙る番へと、図らずもなった。
「ブランドフォード様と、魔法使いのお話をなされておられたときは、気が気では、ありませんでした……」
「……」
コゼットは、続け難そうに、一つ、息を吸うと、起き上がって姿勢を取る心剣を待って、続けた。
「魔法には――沢山の種類があります」
「…………」
「ほとんどが、人を、傷つけ得るものです」
「…………」
「ですが……治す……という魔法もあります」
「治す――?」
「はい……傷、病気……極めればきっと――死者をも……」
「蘇らせる事も出来ると?」
「……おそらくは」
「仮に、そうだとして、ジャンに、人を治す魔法の力があるのなら、そう悲観に暮れる必要など無かろうと、思うのだが……?」
寂しい、としか言い表せられぬ、微笑を、コゼットは浮かべた。
「誰かの傷や病気を治す為に、術者の――自分の命を、あの子の命を、削らずに済むのなら……そうでしょう」
「…………」
「あの子には……私のような人生など……送って欲しくは無いのです」
コゼットは、真っ直ぐ、心剣を見つめて、その瞳は、しかし、心剣の像を捉えてはおらぬようであった。遠く、心剣の向こうに、彼女の望む、息子との、つましい、ささやかな日常を、結んでいるのであろう。
この、コゼットの姿を眺めているうちに、心剣ははっとしたものであった。
「そなた――己の命を俺に使ったのか……!」
心剣の声に、コゼットは小さく頷いた。
「毒を、消しただけですが……」
治癒の魔法の力を、隠して生きてきた女なのである。心剣の腕の傷まで治してしまっては、元の木阿弥であろう。
「あの毒は、すぐに俺の全身へと回った。非常に強力な毒であった筈なのは間違い無い」
しかし心剣は、命の恩人と言って差支えないコゼットへ、険しい表情を向けた。
「余計な事をして呉れたと、言う他は無い。そなたが勝手にしたこととは言え、この俺に命をかけたと聞かされれば、どうであっても、その事には報いねばならん」
自分の体力を頼りにして治す、という話では無かったのであった。それなら、渡した金子で済む話であった。しかし、今日か明日、いつどこで落命するか分からぬ、そしてまた、それを覚悟し、期待もしているこの男の肚裡は今、
――この女の運命を背負い込んだやもしれぬ。
この予感が、ひんやりと、拡がっているのであった。
心剣は、ひたと冷たい眼差しをコゼットに据えた。
「俺という男は、善人では無い。むしろ、悪党だ。だが、悪党は悪党なり、悪党だからこそ出来る返恩の仕方もある。……そなた次第だ」