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拾い文

 初夏の匂いが、ノールバック王都を包み始めていた。それは、ノールバック王都が、この世界には珍しく、城壁の無い都であることを示していた。

 花の季節の、甘く香しい風を、女、とするならば、緑葉の清冽な香りを運ぶ風は、男であろうか。

 のみならず、徐々に勢いを増す、太陽の光が、舗道に歩く者たちの影を、濃くしていた。

 しかしまだ、麦が黄金に輝くまでには、数日の余裕があった。

 往来は、朝から、賑わっていた。これから来る暑さを、先に体感して耐性をつけておこうかとするかのような、賑わいぶりであった。

 ノールバック城の大門から、南へ伸びる中央通りは、俗に、「花通り」と呼ばれていた。事実、花を売る店が多かった。もし、気まぐれに、立ち止まれば、どこであれ、視界の中に、十を超える店が、花を専門に売っているのである。

 ノールバック女王が、花を好いているからだと言う。これは、噂にしか過ぎぬものの、噂も、一人歩きを始めては、少なくとも、庶民は、それを真実と思うようになる。

 城中には、幾多の花が飾られ、季節の花を贈るのが、女王謁見の際のマナーだと、どの店が考えて言い出したのか、今となっては分からない。しかし、その狙いは、当たった。そうして、今では、この中央通りに、選びきれぬほどのライバルを生んだのである。

 上を学ぶ下、のたとえ、庶民もまた、季節季節の花を求めて購っている。

 見事な、咲ぶりを見せる、朝顔の鉢に、金二枚の値が付く、という塩梅であった。無論、貴族か豪商人でも無い限り、買う者は居なかったが、その評判が、客を寄せているとも言えた。

 店側は、いかにも見事な咲き方をする鉢を、競い合って作り、客はそれを見て、他の鉢を求めることに安心する。この関係にあったのであった。

 そんな、花香、葉香の、ないまぜになった通りを、一人の、黒羽(くろは)二重(ぶたえ)を着流した男が、何の目的も無いまま、懐手(ふところて)で、歩を拾っていた。

 この男、腰に二刀を帯びている。

 と言って、貴族では無かった。もっと言えば、この地この世界に生まれた者でも無かった。

 二十代か。人品骨格卑しからぬ、端正な顔立ちをしていた。しかし、その眼が、引き結んだ唇が、世を()ねた者だけが持つ虚無を、まざまざと表していた。

 往還にある人々は、男の姿に、幽鬼を見るかのように、眉宇を(ひそ)め、避けていた。さながら、彼の歩に合わせて、海が開けていくかのような状態であった。

 男は何処までもつまらなそうに、開けていく人の波を進む。

 男の目は、ひたすら、ここから一キロ程の距離にある、ノールバック城を見据えていた。

 ――白昼、単身、斬り込んでみるか?

 別に、この国の王族に遺恨のある訳でも無い。この男にとっては、ただ、そう考えるのが、いかにも莫迦(ばか)らしく、面白いもの、と思えたまでの事であった。

 ――やるか?

 男は自分に問うてみた。

 ――そうして果てるのも、俺らしい最後かもしれぬ。

 答えはこれであった。

 故郷において、ある時を境に、無頼に生きるようになった男である。いつの間にか、この世界に我が身を移していても、特段の、心の動き、と言うものは、この男には、無かったのである。

 無頼に生きる者は、どんな世界であろうと、さまでの問題とは、しない。

 城を警護する兵士を、何人まで斬れるだろうか。この馬鹿げた思考を、現実のものとするべく、男はその体を城に近づけていく。

 しかし、現実のものとは、ならなかった。

 路地から、一人の金髪の少年が、飛び出してきて、男とぶつかったのだ。

 ぶつかった少年は、弾かれたように、尻餅をついた。

「いたた……」

 男の、何の感情も見せぬ目が、この時ばかりは、わずかな笑みを見せたものであった。

 わずか十一、二の、子供と見えた。金髪碧眼、みすぼらしい()りであった。この子供に、男は見事に、印籠をられたのである。

 城に乗り込んで暴れる、という考えにより生まれた、一瞬の隙を、少年は突いたのであった。また、こうして、ごくごく自然に、尻餅をついて、掏った相手の前に、姿を見せ続ける度胸も、見事と言えた。

「ごめんよ。急いでたんだ」

 少年は、地べたから、男を眺め上げた。

「……」

 男は黙って、少年を見つめた。少年は立ち上がり、埃を払う仕草を見せて、

「本当にごめんよ」

 と言って、男の脇を通り抜けようとした。

「小僧――」

 不意に呼び止められた少年は、ぎくりと、棒立ちに突っ立った。

「その中には、何も入っておらぬぞ」

 少年に、そう投げて置いて、男は相手の反応を待った。

「……俺をどうする――?」

 少年は男の顔から眼を外さずに、一歩、後退しながら問うてきた。

「どうもせぬ」

 男はつまらなそうに、答えたものであった。

「え……?」

 はじめから、走って逃げる気であったのだろう少年が、男の答えに、きょとんとした。

「その齢で、大した腕前だと、褒めて置く。これは、掏られた俺に不覚があった」

 男は懐手を解いて、右手に財布を取り出した。

「だが、その腕前に、その印籠は役不足だ」

 言って、少年に財布を放り投げた。

「呉れてやる」

 男は少年が財布を受け取るのも見ずに、一歩を踏み出していた。

 ――どうせ、死ぬ身だ。

 男の胸中には、いまだ、例の、石を抱き淵に入る気持ちが、燻っていたのである。

 数歩を拾った男は、再び、立ち止まらざるを得なかった。

 掏りの少年が、男の前に回り込んで、その幼い顔を、赤くしていた。手には、男が放った財布と、掏った印籠が、しっかりと、握り締められていた。

「……」

 無言で見つめる男に、少年は、

「返すぜ!」

 叫びざま、手にしていた財布と印籠を、男へと投げ返した。

 財布と印籠は、男の体に当たって、地べたに落ちた。

「どういうのだ?」

 男は、眉宇を顰めた。年端もいかぬ子供が、掏りなどという稼業を、選んで、生きているのである。よほどの理由があるのだろうと知れる。

「金が、欲しくは無いのか」

「ざけんな!」

 少年の語気は、荒かった。

「俺は、施しは受けない!」

 少年の、この言葉は、きっぱりとしたものであった。

 男とても、財布を放り投げたのには、下らぬとは言え、男なりの、理由のあることであったが、少年にしても、嗟来(さらい)()()わじの、矜持が、あったのであろう。

 男の胸に、この少年に対する興味が湧いた。

「小僧。歳は、いくつだ」

 男の、急な問いに、少年は、目を、瞬かせた。

「な――なんだ、急に……」

 男は、足元に落ちた財布と印籠を、拾い上げた。

「まだ、十五にもなるまい。その若さで、職人の心意気まで備えているとはな」

 と、褒めておいて、男は財布を懐に戻した。

「一つ、勝負と行くか? お互い顔を知った上で、今日、見事にこの財布、掏れるか?」

 少年は思案気に男を見つめた。男は、少年の答えを待った。否なら、それまでであった。諾なら、極めて成功の可能性薄い勝負に、あえて乗る相手である。年齢の長短問わず、不足の無い相手といえる。

「面白れぇ。やってやろうじゃねえか」

 諾であった。少年は不敵な表情を示した。

「勝負と相成る以上、俺の方も油断はせぬぞ」

「されてたまるかよ」

「ふふ。見上げた小僧だ。だが、俺が勝った場合、お前のその指を折る、と言ったら、どうする」

「――っ」

 少年の顔が、強張った。しかし、暫くののち、

「その覚悟も無くて、こんなふうに生きていられるかい」

 いっそ、さわやかに、言ってのけたものであった。ここで、白昼の狼藉よりも、この少年に、男の興味が強くなった。

「小僧、名は、なんという」

「なんでそんな事……」

「男と男の勝負を致すのだ。知っておいて、損はあるまい」

 少年の顔に、再び笑みが浮いた。

「ジャン」

 少年が名乗った。

「ではジャン。これは、お前に返しておく」

 男は、ジャンに印籠を手渡した。

「要らねえって言ったろ」

ジャンは拒んだ。

「思い違いをするな。これは、お前の仕事の成果だったはずだ」

 男の言葉に、ジャンは、それもそうかと納得したのか、大人しく印籠を受け取った。見届けておいて、男は(きびす)を返した。

「おっさん。俺ばっか名前言って、おっさんが名前言わねえのは、ずるいぜ」

「……死神心剣」

 男は、出鱈目な、名を、名乗ったものであった。

「変な名前してんだな」

「ふっ。そうだな。……今日は特にやることも無い。ぶらぶらしている。いつでも、狙って来るがよい」

 死神心剣は、そう言い残し、ゆっくりとジャンから離れた。それは、ノールバック城から離れることも、意味していた。


 王都は、ノールバック城を、北に戴いて、南に約十キロ、東西二十キロに及ぶ。城壁が無いのは、ずばり、その必要が無いためであった。二つの大河が、天然の城壁として、都を囲んでいるのであった。大河には、橋が三本、架けられていて、いざ、国防の際は、都の北と、橋を守れば良かった。

 太陽が、南中天に坐した、その頃合い――。

 死神心剣の姿は、「花通り」を離れて、屋台や飲食店の立ち並ぶ、別の筋にあった。

 昼餉時を迎えて、通りは、ますます盛んであった。

 心剣は、人ごみに紛れて、ジャンが少しでも仕事をし易い様、わざと、人の流れの多い道を辿って、この通りに、身を運んで来たのであったが、生憎、ジャンの寄ってくる気配は、無かった。

 ジャンが臆した、とは、心剣は考えていなかった。それが証拠に、こちらを窺うジャンの視線を、この男はずっと、その背中に感じていたのであった。

 並ぶ屋台からは、焼けた肉と、胡椒、パンや砂糖の匂いが、綯交(ないま)ぜに放たれていた。

 ふと、屋台の一つに、心剣の視線が向けられた。

 客で賑わう屋台、と違って、その屋台だけ、客が付いていなかった。屋台のあるじは、不貞腐れたような顔をして、頬杖をついていた。その顔は、紛れも無く、心剣と同郷であると、見て取れた。だが、衣服は、こちらの世界のものであった。

「あるじ、酒は何がある」

 心剣はその屋台に近づくと、床几に腰掛けた。あるじは、ちょっと、驚いたような顔をして心剣を見たが、すぐに、客だと悟って、白い歯を見せた。心剣と比べて、いくらか、年上の様である。

「ワインと清酒がありますよ」

「ほう、清酒があるとは珍しい。それで、どうして閑古鳥が、啼いている?」

「ワインと違って値も張りますし、食い物が食い物だからですかね……」

「下手物でも、食わせるか」

「日本人になら、ゲテでも無いんですけどね。一つ、握りましょうか?」

 あるじは寿司を握る仕草を見せた。

「頼もうか。その前に、酒を貰おう」

 心剣は清酒を選んだ。

(ひや)で良い」

 あるじは苦笑を浮かべて、

「火を使わなくて良いからと、始めたのが、この寿司の屋台です」

 と答えた。

「成程、考えたものだ」

 あるじが徳利と猪口を、心剣に出して、注文を訊く。

「ネタは、何にしますか?」

「任せよう」

「でしたら、旬の鮎を、握らせて頂きます」

 あるじの言葉を聞きながら、口に含んだそれは、旨い、酒であった。口腔に入った瞬間、清冽なアルコールの辛みが舌を刺激し、ややしてから、杉樽の渋みが顔を見せるのも一瞬、桃にも似た香りが、ふんわりと、拡がる。それでいて、後味はあくまで、淡泊であった。

 また、目の前のあるじの、手際よく寿司を握る技前の熟練も、一味足している、と言えよう。

「どうぞ」

 差し出されたこちらの味も、また、格別のものがあった。

「いい腕をしている」

「どうも、ありがとうございます。次は、どうします? マグロなんていかがでしょう?」

 と勧めるあるじに、心剣は、微かに笑みを漏らした。

「鮪などを勧めてくる板前には、初めて会ったな」

 心剣が日本に生きていた頃、表向き、鮪は、下魚であった。庶民の為の魚であった。武士は、よほどの事が無い限り、食さぬのであった。ましてや、板前の方から、勧めるなど、有り得ぬ事であったのだ。

 尤も、心剣は勧められぬ鮪を、当時、己から注文していたのだが……。

「私の方も、本物のサムライは初めて見ます」

「……あるじ、よほど僻村の生まれか」

「いえ、東京の生まれです。平成――と言っても、お分かりになりませんでしょうが、江戸時代が終わって百年以上後の、生まれです」

「江戸時代……?」

 心剣が訝ると、あるじは、「ああ、そうですよね」と頷いた。

「徳川家の時代が終わってから、という事です。東京は地名で、江戸の事です」

「徳川の天下が、崩れるのか」

「はい。アメリカから、ペリーの黒船が来て、それが開国の大きなきっかけになったと、習いました」

「開国が、徳川終焉と、どう繋がる?」

 心剣は、まるで、一切の興味も持たぬ風情で、訊いた。事実、興味は薄かった。徳川家がどうなろうと、昔も今も、この男には、どうでも良いことであった。ただ、鎖国を解いたことと、将軍家の終焉が、この男の中で、すぐには繋がらなかったから、訊いたまでであった。

「ええっと……確か……開国して、外国の情報が入るようになると、旧態依然の幕府を倒して、天皇に政権を返そう、という風になって行ったと」

「ふむ。ありそうな話だ。およそ、薩摩あたりが、溜まった鬱憤を、大いに晴らしたであろうな」

「あんまり、ショック――気落ちしてらっしゃらないみたいですね」

 意外そうなあるじの声だった。

「一人で、勝手気ままに生きると、思い決めた日から、世の中がどうでも良くなった。世界が変わった今にしても、それは変わらぬ」

 無表情に、心剣は言ってのけた。

 それから、心剣の方には、訊いておきたいことも無く、あるじもまた、話題が見つからず、暫く無言が、続いた。

 無言は、心剣が徳利で、三本を空けるまで、続いた。

「……商売替えしなきゃ、ならないですかねぇ」

 あるじが、そんな愚痴をこぼした。

「この国に、日本生まれの人間が、俺とお前の二人きり、というわけでもあるまい」

「それはそうでしょうけど、一向にお客さんが来ないんじゃ、考えたくもなりますよ」

 心剣は薄い微笑を口元に刷いた。

「生で魚を食べる、という習慣の無い所でやる商いで無いのは、確かだな」

「日本人は寿司に飢えてる、と思った最初は、当たる! と確信してたんですが。はは」

「それほど、客が少ないか」

「始めて、半月ですが、お客さんで十人目ですよ。その内お客さん入れて三人が日本人で、あとは、何も知らないで注文したこっちの人間です」

 小麦や葡萄酒に比べて、流通の少ない、米と日本酒の仕入れに苦労した割に、売り上げになっていない、とあるじは語った。

「天ぷらも考えはしたんですけど、もともとが寿司の板前でしたから……」

「まだ、そちらの方がましであろう。天ぷらも駄目だったとすると、蕎麦の屋台にでもするか?」

 と、心剣は揶揄するでもなく言った。

「蕎麦ですか。無理ですよ。蕎麦粉自体がここら辺じゃ出回ってませんし。蕎麦にせようどんにせよ、そもそも、打てませんし」

「打てぬ、と言うのは、お前の怠け心であろうよ」

「いや、まあ、そうなんですけどね……」

 心剣は代金を置いて、立ち上がりながら、

「ふふ、いっそ、酒だけを売る、という手もあるな」

 冗談半分に言ったものだが、あるじは、指を鳴らした。

「それ、いいかもしれませんね!」

「何にせよ、お前が商いを続けていれば、いずれまた、寄らせてもらう事も、あるだろう」

「いずれ、なんて言わずに、是非明日にでも来て下さいよ」

 あるじが笑うのに、心剣は軽く笑みを返した。

「明日、思い出すことがあれば、そうしよう」

 そう言い残して、心剣は屋台から離れようとしたのであるが……。

 心剣と入れ替わるように、二人の、若い酔漢が、床几に、どっかと座った。日本人で無いのは、明らかであった。さらに、身に纏う衣服が、貴族階級のものであった。

「おい、酒だ。それと何か食わせろ」

 座ったと同時に、横柄な言動であった。

「寿司しかありませんが、大丈夫ですか?」

 困った客が来てしまったな、という顔で、あるじが問うた。

 心剣は立ち去らずに、どうなるか、見届けてみようと思い立ち、隣の床几に腰を下ろした。

「すし? なんでもいいから早くしろ」

 あるじが、心剣に視線を飛ばしてきた。心剣は冷笑を浮かべて頷いてやった。

「折角だ。鯛か海老でも、握ってやるといい。そのあとは、俺が預かってやろう」

「はあ……」

 ためらいがちにあるじも頷いた。

 貴族二人は、ちらりと、心剣へ胡乱(うろん)な目を向けたが、さして気にする様子も無く、

「ああも上手くいくとはな」

「はっはっは。アイツ、相当頭に血がのぼっていたな」

 二人で、声を立てて笑いあった。

「下手な奴が悪いのさ。その上、目が節穴とくれば、生まれついてのカモってやつだ」

「客に届けなければいけないと言っていたが、知ったことか。領地持ちの名前を出されて、我らが畏まると思っているのだからな」

 どうやら、誰かと賭け事でもやり、金品を巻き上げたようである。

「どうだ? 今、読んでみるか?」

「おう。面白そうだ。内容によっては、うまくやれば、一儲けできるかもしれんぞ」

 そこに、あるじの握った寿司が、二人の前に出された。

「おい……なんだこれは!」

 案の定というものであった。二人は酔眼をあるじに向けて、いきり立った。

「握り寿司ですよ」

 あるじに、()じた気配は少なかった。心剣が、あとを預かる、と言ったのが、大きかったのであろう。

「貴様、ふざけているのか!」

 一人が、剣の柄へ手をかけるのを、冷ややかに見つめながら、心剣は口を開いた。

「ふざけているのは、お手前らだろう」

 心剣はつと、立ち上がって、貴族へ(わず)かに近寄った。

「なんだと――?」

 二人は心剣へ顔を向けた。その瞬間、二人は、ぴゅっ、ぴゅっ、と、鋭く風を裂く音を聞いた。

「ふざけているのは、お手前ら、と言ったのだ。――生魚を食わす、と、言わなかったのは、確かに、落ち度はあろうが、言わせなかったのは、この俺だ。……それを置いても、貴族と言うものは、よほど、恥を知らぬ変態と見える」

 心剣は、言いながら懐手に戻ると、貴族に対して、明らかに、その姿を嗤った。

「貴様っ!」

 柄に手をかけていた貴族が、抜いた。

「不敬な奴……剣を取れ! 決闘だ!」

 心剣はせせら嗤って、

「衣食足りて礼節を知る、とは聞くが、どうやら、本当の事らしい。昼の日中に、粗末な一剣をぶら下げる相手との決闘など、御免蒙る」

 視線を貴族の股ぐらに落とした。貴族は、その意図を図りかね、視線を辿ってみて、酔いだけではない赤ら顔を、たちまち、蒼いものに変えた。

「あっ!」

 着ていた服が、体の全面で裂かれ、胸も腹も、さらには股間のモノまでもを、人目に晒していたのであった。

「もっとも、その恰好で戦う流派だと言うのなら、考えぬでもないが」

「く――くそっ」

 貴族は慌てて、前を隠して、心剣を一睨みするや、

「貴様の顔は憶えたぞ!」

 捨て台詞を残して、一散に去って行った。もう一人も、あたふたと、その後を追って行った。

「あははっ! 痛快でしたね!」

 あるじが顔を口にして笑ったが、心剣の目は、貴族が去り際に落とした、封書に注がれていた。

 拾い上げてみたが、宛名も送り名も記されてはいなかった。蠟で封がしてあったが、印は無かった。

「手紙――ですかね?」

「そうらしい」

 心剣は、無造作に封を切った。

「ちょっ――勝手に見たら、駄目ですって」

 あるじの諌めるのに耳を貸さず、心剣は、手紙に目を落とした。が、すぐに文面をあるじに見せた。

「あるじ、読めるか?」

 あるじは、諌めた言葉を、どこかへ追いやって、手紙を見たが、暫くして頭を振った。

「これは、公用文字ってやつですね。読めません。……言葉が通じても、文字は全然違いますからね」

 (ちまた)には、いろはや、漢字が、文字として、わずかながらに浸透しているのであったが、俗字に過ぎなかった。公的な文字は、この世界独特の、字が、使われているのであった。

「そうか。……ジャン!」

 呼ばわると、やや、間をおいてから、神妙な顔をしたジャンが、心剣の前に立った。

「お前なら、読めるか?」

 しかし、ジャンも、首を横に振った。

「俺、字なんか読めねえもん」

 と言う、ジャンを見やって、心剣は言った。

「どうした。怖気づいたか」

 ジャンは頷きかけて、首を振った。

「冗談! 絶対勝ってやる」

 向こうっ気に溢れた返事に、心剣は微笑を刷いた。と、何を思ったのか、心剣は封書を、己の懐へ仕舞った。

「その手紙、どうするんですか?」

「さてな。ただ、持っていれば、何か面白い事でも起こってくれるような気がする」

 問うたあるじに、心剣はそう答えたものであった。


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