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短編小説

深夜2時のショートケーキ

 ――兄が死んだ、と聞かされたのは、大学受験の帰りのバスの中だった。太陽が今にも沈みそうになって、空を赤く赤く鮮烈に照らしあげている。僕は携帯を取り落としそうになりながら、尋ね返した。


「兄さんが……どうしたって?」

「死んだ」


 泥酔したままバイクに乗って、ガードレールに突っ込んで、一人で死んだ。


 父親ははっきりとそう言った。

 膝に携帯が落ちる。


 僕は両手を上に突き上げると――


「やった!」


 と叫んだ。バスに乗っていた誰もが振り返る。僕は恥ずかしくなり、携帯を胸に抱え、縮こまった。落とした拍子に電話は切れていた。


 兄が死んだ。あの兄が死んだ。

 いっそ殺してやろうかとさえ思っていた、あの兄が、死んだ。興奮で胸が熱くなる。


 それも事故死だって? 最高じゃないか。放っておけば、そのうち、勝手に刑務所に入ると思っていた。僕ら家族にこれ以上迷惑をかけることなく、一人で死んでくれるなんて。ありがたいことだ。


 笑みを浮かべれば、頬の傷が痛む。三日ほど前、兄に思い切り殴られた跡だ。




 僕の名前は恵一だが、兄は僕の事を、ケイチ、と呼んだ。


「ケイチ、」


 僕が自分の部屋で机に向かっていると、兄は不機嫌極まりない声で僕を呼びながら、扉を蹴り開けた。殴られる、とその時点で確信していた。身を竦め、笑みを張り付けながら、兄を見た。


「な、何? 兄さん」

「何で冷蔵庫にビールねぇの?」

「……今朝、兄さん、飲んでたから……?」

「だから……ないなら買い足しとけよ」

「僕は未成年だから、まだ買えないよ」


 笑いながらそう答えて――しまった、と思った。兄はこめかみを震わせ、何も言わずに右手を振り上げた。その拳が僕の頬を殴り、僕は椅子から転げ落ちた。その背中を彼は何度も蹴りつけてくる。何で家の中なのに靴を履いたままなのだろう。スニーカーの底が脇腹を抉り、唾液と胃液が混じった気持ち悪いものが口から飛び出した。蹴られた犬のような悲鳴も漏れる。頭を抱えて、ごめんなさい、ごめんなさいと叫んでいるうちに、兄は部屋を出て行った。


 一時間ほどして、仕事から帰ってきた母親が、僕の顔を見て泣いた。もうしばらくして、父親も帰ってきたが、二人とも熱心に怪我の手当てをしてくれるだけで、兄を叱ることは出来なかった。兄は親だって殴った。僕を殴るよりもずっと強い力で殴るので、いつか殺してしまうのではないかといつもハラハラしていた。





 バスが、僕の家の最寄りのバス停で止まる。降ります、と言って人を掻き分け、運転手に定期券を見せると、彼は白い歯を見せて微笑んだ。


「何があったか知らないけど、おめでとうね」


 さっきの歓声は運転手にまで聞こえていたらしい。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます」


 そう言いながら、恥ずかしさのあまり、急いでバスを飛び降りる。蹴られた脇腹や背中に痛みがはしったが、いつものことだった。


 浮かれた気分でふらふらと路地を歩いていくと、明りの灯った我が家が見えた。もちろん、僕も鍵を持っているけれど、何だかチャイムを鳴らしたい気分だった。古びたボタンを押せば、ピンポンという高い音がした。しばらくして、扉が開き、はにかんだ母親が僕を招き入れた。その背中からリビングの明かりが漏れている。優しい光だった。


「おかえりなさい。試験はどうだったの?」

「ただいま」僕は靴を脱ぎ捨てて言った。「上々だよ」


 そのままリビングに向かえば、ソファーに父親が腰かけていた。彼は暖かそうなコーヒーを飲んでいて、僕を見ると、微笑んでみせた。兄が死んでから、警察への対応などで忙しかったのだろうか、その微笑みには疲労感が滲んでいた。けれども、憑き物がとれたような、すっきりした様子も見て取れた。


「おかえり、恵一」

「ただいま、父さん」


 いつも僕の方が帰るのが早い。両親に、こんなにも朗らかな様子で出迎えてもらうのは本当に久しぶりで、僕は嬉しかった。


「恵一も、コーヒー飲む?」


 母親は柔らかい声でそう尋ねてくれる。


 ココアがいいな、と答えながら、父の隣に腰を下ろした。ソファーは柔らかく、僕を包み込んでくれる。ソファーに沈み込むと、長い溜息が漏れた。


「兄さんが死んだね」


 あぁ、と父は頷く。


「……警察から電話が来たときな、ついにあいつが人を殺したのだと思った」

「僕もだよ。父さんから電話が来た時、ついにやったんだと思った」

「……これ以上、お前に迷惑をかけずに済んで、よかった」


 父は両手を膝の上で固く組み合わせた。その甲に、真っ赤な傷が残っている。兄がナイフで切り付けた跡だ。あの日は、ついに父が殺されてしまうのではないかと焦らされた。


「父さんも、母さんも、悪くないよ。悪いのは兄さんだけだ。二人が悪いなら、僕だってグレてる」


 そう言えば、父は大きな手で僕の頭を撫でた。その両目が赤くなり、揺れている。こんな状況でも、父が泣く姿はあまり見たくなかった。


「……僕、とりあえず着替えてくる」

「ココアは飲まないの?」

「すぐ降りてくるよ」

「わかった」


 母親が微笑んでくれる。その真っ白な肌にも、真っ青な痣が残っている。ちょうど目の上の辺りで、もう少し下にずれていたら、失明の恐れがあったという。



 兄は、僕らをボロボロにした。死んだからって許してやる訳にはいかなかった。


 

 二階に上がる。手前の扉が僕の部屋で、その隣が兄の部屋だ。あの兄と部屋が隣同士なのも嫌だった。けれども、両親を困らせるのも嫌で、文句は言わなかった。


 兄の部屋の扉が軽く開いたままになっている。自分の部屋に鞄を投げた後、なんとなくそれが気になって、扉を閉めようと、兄の部屋に近づいた。そして扉に手を掛けた時、ふと、最後にこの扉に触ったのは誰だろう、と思った。


 兄の訃報を聞いて家に戻ってきた両親のどちらかが、兄の部屋に入ったのか。

 それとも、兄が、最後にこの部屋を出た時、扉をちゃんと閉めずに行ったのか。


 何となく、扉から手を離して、中を覗いた。殺風景な部屋だ。ベッド一台と、棚、テレビだけしか物がない。テレビの前にはゲーム機が放り出されていた。出て行く前にゲームをしていたのだろう。兄はゲームが好きだった。


 そのゲーム機は、兄が近所の古ぼけたゲーム屋から盗んできたものだ。それだけではなく、悪友たちと共に、あらゆるものを盗んできたので、その小さなゲーム屋はやがて潰れてしまった。兄は万引きの天才だった。だから、自分のお金を出して物を買うなんて、馬鹿のすることだといつも騒いでいた。兄が盗まずに手に入れたものなど、存在するのだろうか。食べ物だって、漫画だって、煙草だって、酒だって、いつも盗んでいた。



 兄は救いようのない人間だった。僕が物心着いたときから、問題の解決を暴力に頼る人間だった。大人になればいずれ落ち着くだろう、という両親の楽観は見事に外れた。成長すればするほど、兄は暴力的になっていった。


 ――生きているのは苦しいから、その苦しさをぶつけないと生きていけないんだ。


 彼が大真面目な顔をしてそんなふざけたことを言ったのは、僕が小学校六年生に進級した頃だった。どうして殴るのか、と尋ねた返事がそれだった。少しだけ納得しかけたが、その言葉を言い終わるや否や殴られたので、詭弁だと思った。僕の方がずっと苦しいのだから。


 兄は僕たち家族のことなど、本当にどうでもよかったのだろう。だから「苦しい」なんて自分勝手なことを叫んで、僕を殴り続けたのだ。僕は兄さんのストレス発散の為の道具じゃない。サンドバックでも何でもない。


 兄さんなんて死んでしまえ、と心の中で呟いてから、もう死んでいたのだと思い出した。



 早く着替えて、両親のところへ戻ろう。そう思って、僕は兄の部屋を出ようとした。

 その時、ふと、思い出した。


 ――深夜二時のショートケーキ。



 それは、僕が高校の志望校に合格が決まった日の事だった。


 その日は両親とも出張で、合格は嬉しかったけど、祝ってくれる人がいないのが酷く悲しかった。冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーに、入学手続き書類の提出日や、お金の振り込み日などを記入して、僕は自分の部屋に戻った。


 しばらくして兄が帰ってきたが、どうせ殴られるだけだから、兄には話しかけたくなかった。寝たふりをして部屋に閉じこもっているうちに、本当に寝てしまった。目が覚めたのは深夜の二時だった。喉がカラカラだった。


 喉を潤そうと思って、一階のリビングに降りた時、僕はテーブルの上にレジ袋を見つけた。

 明かりを点けて、中を見てみれば、ケーキが入っていた。


 近くのコンビニに売ってある、安いショートケーキだ。買ったそのままに置いたのか、レシートさえ袋の中に入っていた。僕はちょっと考えてから、それを食べることにした。


 深夜二時に食べたケーキは、びっくりするほど美味しかった。


 食べ終わった器を綺麗に洗い、台所に立てかけておくと、次の日の昼に起きてきた兄さんはそれをちらりと見ただけで、何も言わなかった。その日は殴られなかった。




「……恵一?」


 扉の隙間から、そっと母が覗いてくる。母は僕の顔を見て、ハッとして息を呑むと、腕を開けた。何をするのかと思えば、近づいてきて、僕を力いっぱい抱きしめる。


「もう殴られなくて済むのよ。本当に、本当にごめんなさい。ごめんね、恵一……」


 ぎゅう、と抱きしめられながら、何故か、僕の瞳から雫が溢れた。その雫が頬を流れ、兄さんに殴られた傷に染み、ひどく痛くて、さらに涙が出た。



 兄が死んだ。死んで当然の人だった。いっそ殺してやりたいとも思った。兄が死んだ日の晩は静かだった。それからしばらく、両親は忙しそうに動き回っていた。ようやく葬式などが済むと、両親は何事もなかったように仕事に戻り、僕には静かな日々が残された。



 そして、僕は大学に合格した。合格が決まった日の晩、両親は揃って家で待っていてくれた。母特製の手料理を食べ、父が仕事帰りに買ってきてくれた高級なケーキを三人で食べた。


 部屋に戻り、ごろごろしているうちに、いつの間にか眠っていた。目が覚めたのは深夜二時頃で、喉の渇きを潤す為に一階のリビングに降りた。そしてテーブルの上に何もないのを見た。


 僕は何となく、財布だけを持って、近くのコンビニに行った。そして安いショートケーキを買って帰った。


 深夜二時に食べたショートケーキは、びっくりするほど不味かった。


 あまりの不味さのせいか、涙が零れて頬を伝った。けれども、もう、涙が染みるような傷はそこにはなかった。涙はしょっぱくて、ショートケーキの甘さと混じると、ひどく気持ち悪かった。


 そして、もう二度と、深夜二時にショートケーキなんか食べることはないだろう、と僕は思った。


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