世界のかけらを見せてあげたい。
この国は他より少しばかり高地にあった。
決して広くはないが、周囲を囲む高い山があり、自然が要塞の役割を果たしている。
周辺国からは大して価値を感じられていないので、そういった戦はこの国に持ち込まれない。
人の住まう地が限られてもいるので、大きく発展はしないが、周囲の山々からの恩恵は多い。
元々が戦や飢饉などの困難を逃れてきた人々によって作られた国なので、その気質は争いを好まない、心優しい人々が多いといえた。
そんな難の少なそうなこの国にも災いはあった。
一年の半分以上が『白い闇に覆われる』というもの。
濃く深い霧。
よその国に住まう者からすれば、霧ごときで、と一笑に付されそうな話だが、それは実際この国にしばらく暮らせば笑い話ではないと理解できるだろう。
昼夜問わずに自分の手の先も見えぬほどの濃い霧が立ち込める。
ひどい時には何日にも渡ってそれが続く。
夜であればまだ家にこもっていれば良いものを、陽のある昼間もお構い無しに霧はやってくる。
人々の移動は難しいし、何より農作物が上手く育たない。
長く陽の照らない日が続けば、体の調子がおかしな人が増えてくる。
そもそもこの地は、古くから魔物が巣食っていた場所だった。
最初の王が魔物を退け、国を建てた。
だが倒した魔物の血を浴びた王に怨嗟が深く染み付いた。
子の内のひとりに必ず『呪いをもらった者』が生まれてくる。
如何に魔術を繰ろうとも、今以てその呪いを解くには及ばない。
呪われた者が、濃く深く、晴れぬ霧を呼んでいる。
魔物の怨嗟は尽きることは無い。
……と、
この国の誰もが、子どものうちから寝物語に聞かされる。
心穏やかな国民はその話を深く信じ、優しい国民は、国の為に魔物の血を浴びた王家、子に顕れる呪いを愁う。
『なんとおかわいそうな呪われ王子様よ、なんとおかわいそうな呪われ姫様よ』と。
ここまでが民に話される物語。
ここから先は王家の間だけの話。
実にこの地には元々巣食っていた魔物など、居なかった。
元々目に見える大きな存在としてあったのは、濃く深い霧の方。
呪いなどでは無く、地の形や、空気の流れで霧の発生しやすい場所だった。
戦乱の時代に、敵に見付からず、争いに民が傷付くこともなく、ひっそりと隠れ住むのに、ここほど条件の合う地は無かった。
戦の嵐が過ぎ去ってしまえば、今度は快適に住むのに霧が邪魔になってくる。
だからといって思うままにさっさと晴れてくれるものでもなければ、ではこの地を離れるかと簡単な話でもない。
たかが霧、されど霧。
少々の難だろうが、鬱屈としたものは民の間に積もっていく。
積もった歯痒さは別のものに変わる。
不平不満となって、その内に王族を包み込む。
人の力でどうしようもないものは、人知の及ばぬもののせいにすれば良い。
人は何かのせいにすれば、それで溜飲を下げられる。
例えそれが目に見えない力であったとしても、目に見え、存在するものの所為にすればいい。分かりやすい形が必要だった。
そうして考えられた仕組みが『呪われ王子と呪われ姫』
王家に生まれた子どもたちには、寝物語にこれを聞かされる。
王家に生まれた者の、これは役目だと加えられて。
呪われているのは、魔物にではなく。
そんな地に住まう人々のちょっとした不満足にだった。
こうして『おかわいそうな呪われ王子』や『おかわいそうな呪われ姫』たちは何代にも渡って幽閉塔に囚われてきた。
それと同時に、その身に直接に民たちの恨みを受けることは無く、幽閉塔に守られてもきた。
己が生かされていると承知し、特に心の優しい、聡明な者ほど幽閉塔に登ることになるのは当然の流れだった。
「リオアベル! これはなあに? なんと言うの?」
「これは野いちごですよ、エレナルイス」
「野いちご……あ! 私、知っているわ! ちょっと待っていて」
ぱたぱたと足音を立てて部屋を横切り、隣の書庫から、ひと抱えもあるほどの大きな本を運んでくる。
それを床に置いて座り込むと、熱心に本をめくり始めた。
今年で十七を迎える年だというのに、エレナルイスは屈託のない子どものような雰囲気がする。
「……ほら、これよ。……挿絵よりも小さくて、とても可愛らしい赤色なのね」
「味も試してみられてはいかがか」
リオアベルがひとつ摘みあげて、エレナルイスの口元まで運んだ。
うふふと楽しげに笑っている口の中に、つやつやとした赤い実を入れて差し上げる。
「……どうですか?」
「……酸っぱい方が強いのね!」
「気に入りませんか?」
「いいえ! とても美味しいもの」
リオアベルは消し炭になって飛んでしまいそうな理性をなんとか持ち堪えさせようと、身に力を籠める。
留まることを知らない、この姫君の可愛らしさはどうだと叫び出しそうになる。
喉につかえる塊をぐっと飲み込むようにして、きつく目を閉じた。
「……どうしたの? リオアベル、どこか痛いの?」
「……いいえ。なんでもありません、エレナルイス」
「疲れたのなら、少し休む? 私がわがままを言ったからいけなかった?」
「そんなことは、決してない」
塔の外のものが近くで見たいと、いじらしくも小さな願いを叶えることはリオアベルにとって訳もない。
「このくらいのこと、わがままとは言いませんよ」
「……そう? そうだといいけど……私、なんだか、小さな頃の時のように我慢が効かないみたい」
「野いちごだって、花だって。そのくらい、いくらでもご覧に入れましょう。我慢などしなくていいのです」
「リオアベルがそうやって私を甘やかすから……嬉しくて……ついお願いしてしまう」
リオアベルは静かに深く息を吸って、ゆっくり全部を吐ききる。
精神を整えておかないと、うっかり抱き込めて放したくなくなってしまいそうだ。
笑う顔を見る回数が日増しに多くなっても、こうして憂うように伏せられる目を見る回数はなかなか減らない。
どれだけエレナルイスは、ひとりこうして気持ちを押し殺してきたのかと、それを思うと胸が締め付けられて熱くなる。
「エレナルイス……師団の番犬に仔が産まれたと聞きました」
「……こいぬ……?」
「ええ、五匹もいるそうですよ」
「そんなに?」
すうと息を吸い込んで、丸まっていた背中がぴんと伸びる。
「流石にこの中で飼うのは無理でしたが、少しの間ならと許しをもらいました」
「話を……してくれたの? 私に見せるためだけに?」
「だけ、だとは思わないで欲しい。私が見てもらいたいからひとり勝手に考えたのです」
口を開いたと思ったら、手で押さえて無理に閉じたり、立ち上がっては気を取り直して座り直したり。
ぱっと笑った途端に、心配そうに眉を下げる。
くるくるとかわるエレナルイスの様子に、もうなんならこのまま気が失せてしまえば楽になれるのに、と思う。
可愛い過ぎて。
禿げ散らかりそうだった。
これはかなりの重症だとリオアベルは天井を見上げる。
心臓はこれでもかとめいいっぱい働き尽くだし、あちこち血が巡るしで、身体が持たない気がする。
早速とばかりに暇を申し出ると、リオアベルは魔術師団の本拠地に向かった。
術でやり取りした書簡では許可を得たが、それでもと思って我が師の部屋に顔を出す。
五十路も目前だというのに、師はいたずら小僧のようににやにやと笑い、リオアベルを迎え入れた。
淡々と手短かに近況を報告して、しばらく仔犬を預かる旨を告げている間、ずっと静かに聞いているものの、師のにやにや笑いはそのままだった。
「……なんですか、気持ちの悪い」
「いやー。気持ちの悪いのは、お前の方だろう」
「……何がですか」
「ふわふわ浮足立っちゃってまぁ。だよねー。かわいいもんねー、姫さま」
「……どうしてそれを」
「うんー? 聞かなかったか? この前まで姫君の監視役をしてたの、俺だよ」
「は?!」
「いやー。とはいえ俺もそれなりに忙しい立場だし、なかなか姫君にお会いできる時間も限られてな……見るたびにお美しくなる姫君をお前に見せびらかしたくて」
「…………馬鹿ですか」
「他に言うことがあるだろうがよ」
「…………心の底から感謝しています」
一層にんまりと笑うと、師団長はふふんと立派な椅子にふんぞり返る。
「……適任だと思って良いんだよな。足りない魔力の分、皆より余計に魔術の研鑽を積んで、身体を鍛え、腕を磨いたお前を推した。お前なら姫君をお守りできると、期待して構わないんだよな?」
使えない半端者だと、ひとり勝手にいじけていた。
初めて語られた自分についての評価や師の想いに、目の周りを熱くしながらも、リオアベルは無駄なものを背負った気がしないでもない。
今、釘を刺されたのではないか?
これでもかと分かりやすく。
エレナルイス姫に、特別な感情を抱くなと。
己の立場を承知して、手を出すなと。
リオアベルは仔犬を預かろうと詰所に顔を出す。
これまではただからかわれていただけだったのに、更に同情的な視線まで加わっていると気が付いた。
厄介を押し付けられた、厄介者を見るような。腫れ物に触る、腫れ物のような扱い。
自分には真逆の想いしかないので、あえて見て見ぬ振りをする。
そもそも幽閉塔でのことは口外無用なので、話すことなど用件以外に何もない。
五匹の仔犬のうち、早くに産まれた、大きめの丈夫そうな子を借りることにした。
仔犬が弱りでもして、それをエレナルイスの所為にでもされたら堪らない。
大事に懐に入れて、なるべくそっとと気を遣いながら塔への道を帰っていった。
初めはこわごわと接していた。
生き物に触れるのは初めてだからと、少し離れた場所から見ているだけだった。
徐々に近付いて、その手で触れて、温もりと柔らかさを感じると、ほうとため息を零した。
膝の上でそっと撫でたり、てとてと覚束ない足取りで歩く様を床に寝転んでうっとりと見ていたり。
かわいい仔犬より、かわいいエレナルイスに釘付けだったのはいうまでも無い。
しばらく仔犬と過ごすと、日の暮れる前にリオアベルに連れ帰るようにと笑った。
母や兄弟達と離れているのはかわいそうだから。私も別れが辛くなるから。
そう言って、来た時のようにリオアベルの懐にそっと寝かし入れた。
優しげに微笑むエレナルイスを見下ろして、定番になってきた呼吸法を繰り返す。
ゆっくり吸って、静かに吐ききる。
言葉にできないこのもどかしい気持ちを、伝えることの出来ないこの想いを。
抑えることは簡単ではない。
懐の仔犬を潰さないように、腕を回してぎゅうと肩を抱く。
溢れそうな水を湛えた目元に口付けを落とす。
「……私がいます。どうか悲しまないで」
それだけ何とか告げて、リオアベルは塔を下りた。
冷静になってくると、自分のしでかしたことにひどく落ち込んだ。
その度に、道の真ん中で頭を抱え、しゃがみ込んで唸るしかなくなる。
が、後悔はひとつもなかった。
私がいる。
その言葉に微塵も嘘はない。