須らし仮面浪人
まず頭が落ちたような気がした。こうして目の当たりにすると、まるで真っ逆さまに落ちているのは、自分の方であるように思えた。誰が如何にといった疑問はどうでもよく、ただ決して清からざるはずの性分をして救いの手を差し伸べたくて堪らなかった。ゆえに即座、喉が勝手しておいと声をあげる。だがこうもはっきり見、こうもしっかり脳裏に焼き付いた現実に対し、真実はそれを見事に裏切りおうたようで、往来の人々は俺の目の先のそこではなく俺を見ている。それもちらと見ながら、足を止めることはない。
ビルの腹には、最初から誰もいなかった。
そんなはずはないと、血脈の火照りが徐々に薄れつつも小走りに駆けつければ、その着地点に何は無い。ただの見間違えにしては随分と、実像が映ったものである。恐らくはカラスの滑空や飛行機の遠影と見紛ったのであろうが、俺はもうしばらく、自らの記憶との中に葛藤をしうろたえていた。この日も壁のパネルは鏡のように、ギラギラと太陽に呼応する。
俺は向かいのスカイツリーに用があった。本日は年に一度の窓掃除その一日。期間は今日明日と、短期というよりほぼほぼ日雇いに近い条件である。(こうして容易く着々と、危険を伴えば伴うほどフツフツと燃えていく俺の心は、伴えば伴うほど上がる給料制に手堅く順応していく。)
「本日は、よろしくおねがいします。」
「ああ。」
俺に手慣れた印象を受けたのか、将又たかだか十四分の遅刻が未だ許されないのか、偉社員のおっちゃんはそっけなかった。対して内部清掃員のおばちゃんからは、気をつけてねと何度も何度も念を押された。事実、こうした体育は手慣れたもので、大学の空きコマが許す限り、俺は半ば土方と化している。しかし今回は困ったことに、先ほど見えた不吉な虚影、あれがいちいち頭上にちらつき、不安定な内心を以ってして、クリーナーを手にしなければならなかった。
全体が六三四メートルと言っても、人の立入れる範囲がそこまで高いわけではなく、それで言ってもこの展望デッキまでの高さは、今までのスリルを遥かに上回って更新した。無論、ここから体のどこを滑らせてもひとたまりもないということは言うまでもないが、俺はそれをあえて考えて作業するようにしている。それこそがスリル、やり甲斐であるからして。俺を支えているこの命綱は言わば気休め。事故が起きない確証なんてものは必ずと言っていいほどに無い。無い方が良い。我が命はそれでこそ質量を得る。とまあ常の思考がこんな具合なものだから、俺の仕事は俺がハッとしたときにはほぼほぼ終わっている。頭が命のことでいっぱいになれば、決まって時間はこの世から退場した。
途中休憩を飛ばして早上がりを許された俺は、立ち寄った展望デッキ内で瞬間、それに釘付けとなった。ただ単にガラス越しの景色を呷って、その裏側に自分がいた愉悦に浸るまでの予定だったのだが、何の気ない、ただのたったの一粒からピントが上手く離れなかったのである。出勤前に見た高層ビル。今は遥か高みで見降ろす形となったその軽量的な存在感に、妙な感覚が併せて俺の胸を焼いた。正体を探ろうと視線を一、二周したものの、答えはまるで気のせいだとしか挙がらなかった。ただ、すぐ周りの展望客はよく笑った。確かだった。気のせいでなく、同じ点を見つめて。声を潜めるように。
数分固まった身体を言い訳がましくほぐしながら、悪寒を拭い去るように上着を脱いだ。そしてそのまま抱えつつエレベーターへ、淡々と帰路を歩いた。手汗は冷たいコーヒーを握っていれば乾いたが、不思議と寒気は止むことはなく、家に着く頃になってようやく作業履のまま帰ったことを知った。俺の愛靴は言葉を持たず、今も俺の寝顔を見降ろし続けている。