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くじらの歌  作者: イヲ
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深海にすむ真珠のような

 チョコレートは、もうなくなった。

 ミントの味が強いチョコレートだった。


「結構、食えるもんだな」

「薄荷のにおいが好きなんだ」


 ベッドの上にすわっているウタは、くちびるにすこしだけついていたチョコレートを指でぬぐった。

 やはり、子どものようだ。


 窓をみる。

 もうじき、暗くなる。空が暗い。それでも、月は出ていた。チェシャ猫のくちのような、下弦の月。

 すこし大きくて、赤みをおびている。


「月が出てる」


 呟くと、ウタはベッドから立ち上がって、窓の外をのぞきこんだ。

 椅子からだと、ちょうど月が見える。


「こんなに大きいと、すこし怖いね」

「そうか? きれいだと思うけど」

「……落ちそう」


 か細い声。

 ほんとうに、怖いのだろう。月から目をそらせて、再びベッドの上にすわりこんだ。


「夢をね」


 みるんだ、と呟く。


「月が落ちていく夢。僕は海辺で絵を描いていて、月が、海に落ちるんだ。そのしぶきが、カンバスにかかる」

「……そっか……」


 つながっていたとでもいうのだろうか。

 勇魚もおなじ夢を見ていた。

 ただ、あれは雨じゃなかった。月が落ちたときの、海のしぶきだったのだ。

 きらきらと輝いていた海の破片。


「でも最近は見ない。どうしてだろうね?」


 ウタは答えを求めていないようだった。ただ、じっと勇魚を見下ろしていた。

 ほんとうに、きれいな目をしている。

 きれいなものしか見てこなかったような。

 そんなことは絶対ないはずなのに。


 キスをしたい。


 ふいに、そう思う。


 抱きしめただけでは足りない。

 けれど、これが本当に恋なのかどうかも分からない。


「勇魚、ぼうっとしてどうしたの?」

「キスしたい」

「え?」


 答えは待たなかった。

 椅子から立ち上がる。かたん、と床と椅子の足がこすれる音がした。


 ウタの肩にふれる。ひどく頼りない細さだった。

 薄い色の目が見開かれる。


 ウタのくちびるは、とても冷たかった。

 わずかな薄荷の味した。


 これで嫌われる。

 そこまで思っていなかった。考えてもいなかった。

 ただ自分の欲望で、キスをした。


 してから、気づいた。

 自分はいま、キスをしなかったか。

 無抵抗の相手に。


「ご……」

「謝らないで」


 ごめん、というつもりだったが、ウタの言葉でそれはさえぎられる。

 彼の表情は、怒りも戸惑いもなかった。

 ただ、静かに凪いでいた。


「僕はいやじゃなかった。だから、謝らないで」

「な、んで――」

「なんで、って……。どうしてだろうね。僕はいやじゃなかった。それだけ」


 好きだと、言えなかった。

 これが一時の若さゆえ、だというのならば、ウタの心をずたずたに切り裂いてしまう。


 恋じゃないと言えなかった。

 

 いま、はじめて勇魚はウタに恋をした。





 勇魚、のぞみと蛍は玄関にいた。


「勇魚お兄ちゃん、チョコのにおいする! いいな、いいな! ウタお兄ちゃんからチョコ、もらったの?」

「蛍くんもチョコ――」

「もうないってよ。残念だったな。蛍」

「えー!」


 まだあのミントチョコレートはあったのに、勇魚はきっぱりと「もうない」と言った。

 それが、なぜだろう。ウタのこころに響いた。

 あれはふたりだけの秘密だということなのだろうか。


「また今度、あげる。蛍くんにも食べられるような、甘いチョコレート」

「あら、よかったわね、蛍」

「うん! ウタお兄ちゃん、絶対、ぜったいだよ!」

「うん」


 ふと勇魚を見ると、どこか面白くなさそうな顔をしていた。

 切れ長の目とウタの目があう。

 すこしだけ笑うと勇魚は、さっと目をそらした。


 ちくりとした痛みを感じる。


「じゃあ、和希さん。お引越しの時、またお手伝い行くわ。ウタくんはいつでも遊びに来てね。待ってるわ」

「ありがとうございます」

「そんな、固くならないで。家族になるんですもの。ね」

「――うん」


 口もとで、わらう。

 のぞみも、本当にうれしそうにほほえんだ。

 やさしい、水晶の光をたたえたような笑みだった。


「じゃあ――また」


 和希は駅まで送っていく、と言って出ていった。

 のこされたのは、ウタだけだった。


 自分の部屋までが、とても遠く感じる。

 まるで足が固まってしまったかのようだ。

 ドアノブをひいて、ドアをゆっくりとしめる。そして、ドアへ背中をあずけて、ぐずぐずとすわりこんだ。


 くちびるに指をあてる。

 そこは、つめたかった。どうしようもなく。どこまでも。

 けれど勇魚のくちびるはあたたかかった。

 ぬくもりを与えてくれた。


 指からは、かすかに薄荷のかおりがした。

 机の上に、アンデスキャンディーズ社のミントチョコレートの箱が置いてあった。

 

「……どうして、キスをしたんだろう?」


 ぽつり、と呟く声に、応えるものはだれもいない。

 ただ、布を取り払われた未完成のヴェネツィアの風景だけが、ウタを見下ろしていた。


 和希が帰ってきたから、夕食を食べて、風呂に入ってから、机の上のノートパソコンをたちあげる。

 あまり触ったことのないパソコンだが、キーボードとマウスの操作だけは覚えていた。


 グーグルクロームのアイコンをマウスでダブルクリックをする。

 もうじき引っ越してしまうけれど、まだ間に合うだろう。

 アンデスのミントチョコレートをまとめて買おうと、レジのボタンを押す。

 明後日にはつくようだ。

 

 そっと息をつく。

 そして、まだ途中の絵を見つめた。


 これを完成するときには、もう勇魚の家にいるのだろう。

 勇魚とおなじ家に住むということ。まだ実感がわかない。そもそも、初めて会ったのは一か月ほど前だ。

 よく考えると、急だな、とおもう。

 いつから和希は、のぞみと付き合っていたのだろう。

 なにも知らなかった。

 和希のことも。

 いや、興味がなかったというべきか。

 養父とはいえ、ずっと一緒に暮らしていたというのに。


 和希は、どう思っているのだろう。

 ウタのことを。

 分からない。美大に通わせているのも、莫大なお金がかかっているはずだ。

 ふつうの大学でいいといったのに、和希は絵を勉強させてくれるところに行かせてくれた。

 

「……なにも、しらないな……」


 パソコンをとじて、ベッドにもぐりこむ。




 夢は、みなかった。

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