すべての心のあいまに
二日の朝、ウタの携帯に電話がきた。
見知らぬ番号。
誰からなのか分からないまま、画面をスライドさせる。
「――もしもし」
「ウタ」
女性の声。
桜子の、声だった。
すがるような、そして愛おしいものにするような声が、耳をなでる。
「ウタ。帰ってくるわよね? 私たちのところに。ねえ、ウタ……。おねがい。帰ってきて。家族にもどりましょう。ウタ――」
ぞっとするような、音程。
ウタは耳から携帯を遠ざけて、通話を切った。
「ウタ? 入るわよ」
ドアをノックする音にはっと顔をあげて、のぞみのあたたかい声に返事をする。
「うん」
「私たち、初詣行ってくるわね。ウタも行く? 勇魚はいかないって言ってたけれど」
「二年参りしたから、僕は大丈夫。絵もすこしずつ始めようって思っていたところだし」
「そう。お昼ごはんも食べてくる予定だから、お金、置いておくから、どこかで食べてきてちょうだい」
「ありがとう。母さん」
のぞみに、はじめて母さん、と言った気がする。
彼女は目を見開いて、満開の花のようにほほえんだ。
こころがあたたかくなるような、笑みだった。彼女はフラワーアレンジメントの講師であると同時に、母親でもあるし、和希の妻でもある。
それがとても大変だということは、ウタにはまだ分からない。
いや、分かってはいるが、理解していないというほうが正しいだろう。
それでも、彼女はいつでもウタや勇魚、蛍や和希を思いやってくれている。
それがとてもうれしい。
のぞみたちが初詣に行くために出ていったあと、勇魚の部屋をおとなった。
「勇魚……開けていい?」
すぐに返事がきて、勇魚は黒のパーカーを着ていた。彼はいつもラフな格好をしている。
どうした、と不思議そうに首をかしげていた。
「入っていい?」
「ああ、うん」
部屋に入ってから、桜子から電話があったことを伝えた。
彼は眉をひそめて、難しい表情をした。
「……なんで、ウタの番号知ってたんだろうな」
「興信所でも雇っているのかもしれない。分からないけど。でも、すごく、こわかった……」
「ウタ。俺がいる。ひとりで怖がることなんて、ない」
勇魚はウタの手をにぎりしめて、顔を近づけた。
そのまま、目を伏せてキスをする。
「うん。ありがとう、勇魚」
「母さんたち、昼もいないって言ってたから、どっか食べに行くか? あのイタリアンの店、正月もやってるんかな」
「――僕」
勇魚の肩口にひたいをうずめる。
ほおに、つめたい髪の毛の温度を感じた。
「僕、お昼、コンビニでいい。家のなかで、勇魚のそばにいたい」
「……わかったよ」
「これじゃ、どっちが年上かわかんないね」
笑ってみせる。
それでも勇魚は笑ってはいなかった。真剣な表情で、ウタの腕をやさしくつかむ。
「年なんて関係ない。俺は、おまえを守る。もう、傷つくことはない」
「……勇魚。僕は、きっとこれからも傷つくと思う。それでも、勇魚がいてくれるなら怖くない。傷つくことだって」
「それがおまえの強さなんだろうな」
勇魚は笑って、ウタのひたいにキスをした。
「今日、雪降るって。ひどくなる前にコンビニ行こうぜ」
「うん」
リビングの机の上に置いてあった二千円をもって、外に出る。
外はすでに雪が降っていた。
ひどい、とまではいかないが、おそらくあと1、2時間もあれば積もってしまうだろう。
「やっぱ雪降ってる。寒いな」
「うん、そうだね」
雪のなか歩いていると、前のほうから見覚えのある女の子が歩いてきた。
たしか、勇魚のクラスメイトの、如月ゆかさんといっただろうか。
彼女もこちらに気づいたのか、あ、とくちびるが動く。
「月宮くん」
「ああ、如月。奇遇だな」
彼女はすこし茶色かかった髪の毛についた雪を払うように、手を動かした。
顔がすこし赤い。
ウタは急に不安なおもいにかられた。
「月宮くん、コンビニ?」
「昼飯買おうと思ったんだけど」
「そうなんだ。これからクラスの子たちと初詣行くんだ。よかったら月宮くんも行かない?」
「ああ、俺はいいや。寒いし、雪積もるっていうし」
「勇魚、いいの?」
「そう……。わかった。じゃあ、またね」
彼女はすこし悲しそうに目を伏せてから、コンビニを過ぎて歩いていった。
ああ、そうか、とおもう。
きっと、彼女は。
つきり、とした胸の痛みがわずらわしい。
「ウタ?」
「あ、なんでもない……」
コンビニに入ると、すこしじめっとしたあたたかさがあった。
勇魚はお茶とおにぎりを3個、カゴに入れる。ウタも倣っておなじものをカゴに入れる。
「やっぱりおまえ、食に欲ないよなあ。俺とおなじのでいいのか?」
「うん」
呆れたようにわらう勇魚に笑いかけて、レジを彼に任す。
ウタのこころは、どこか晴れてはいなかった。雪の降る外とおなじように。
コンビニから足早にでると、雪は先ほどよりも強くなっていた。
「これ、大丈夫なのか?」
「父さんたち、どこまで行ったんだろう?」
「そこまで聞いてないけど、電車で行くって言ってたからなあ。電車止まったりしないよな……」
すこし心配そうに携帯を見下ろしている。
けれど、吹雪いてきているのは事実で、勇魚の携帯もすぐに雪が降り積もった。
手で乱暴に拭いて、コートのポケットに入れると、視線で家に戻ろう、と促した。
家に着くころには、もう吹雪、といっても過言ではない天気になっていた。
目の前でさえ見えずらくなっている。
これでは、初詣どころではないだろう。
心配だが、迎えに行ける状況でもない。
「ま、大丈夫だろ。電車止まってもタクシーもバスもあるしな」
「――そうだね」
「……なあ、ウタ。さっきから口数少ないけど、どうかしたか?」
「え……そう、かな?」
勇魚はすこし考えるそぶりをしてから、ああ、と納得したようにうなずく。
「如月は、ただのクラスメイト。よく遊びに誘われるけど」
「きっと、如月さんはきみのことが好きなんだね」
「まあ、そうかなって思ってたけど。でもウタが気にすることは、ない」
勇魚の部屋で買った昼食を机の上においたまま、ベッドにすわる。
となりにすわっている勇魚は、うつむいたウタの顔をのぞきこむようにして、ほほえんだ。




