七浪って、それはないでしょう!
平穏無事に第三新聞部に入部してしまった僕は、そばかすの小麦さん(どうやら彼女は第三新聞部唯一の二回生らしく、部長や副部長は別にいるらしい)に粗い説明を受けて、その場はお開きになった。また数日後に新入生歓迎バーベキューがあるらしい。ヴィーナスと再会するのは、その時になる。
入学式で貰ったエコバッグを肩に担ぎ、僕は大学前の坂を下りていった。
僕が暮らすことになった学生寮『藁葺寮』は、この大学に存在する学生寮の中で最低ランクの学生寮だ。学生寮というものはどこもかしこも似たり寄ったりだとは思うが、藁葺寮は常軌を逸していると言っていい。
「ひゃほあーっ!」
奇声とともにガラスの破砕音が響いた。誰かが窓から飛び降りたのだ。続いて水しぶき。中庭の池に飛び込んだのだ。さらには拍手喝采。見物客までいるらしい。
僕は自室の窓から中庭を見下ろした。酒瓶を両手にもって池で泳いでいる男を中心として、数十人の男が酒宴を繰り広げていた。僕は自室へと視線を戻す。
木造(さすがに藁葺きではなくて、僕もホッとした)四階建てのこの寮の、三階西側端に、この部屋はある。角部屋ではあるが、窓は中庭側のみにしかついていない。薄汚れた二段ベッド、茶色の(元々は白色だったらしい痕跡がある)丸いカーペット、床の木板の隙間にはパン屑のような白いものが挟まっていて、カーペットの中心に丸テーブル、椅子が二脚。クローゼットらしき物体と、元々はハンガーだったのだろう、水色の針金が床に転がっていた。
話には聞いていたので別段失望したということはなく、しかしやっぱり少し頭を抱えて、僕は椅子の一脚に座った。少しがたつくが座れないことはない。
僕はカバンから携帯ゲーム機を取り出し、ルームメイトが来るまでしばし暇を潰すことにした。なんでも、初日の夕飯はルームメイトと共に摂らなければならないらしい。さもなくば減点される、と隣室の男が言っていた。『減点』が何を指し示しているのかは判然としないが、極力避けた方がいいのだろう。
そして30分ほど経っただろうか。みし、みし、と廊下から足音が近づいてきて、僕の部屋の前で止まった。そして扉が勢いよく蹴飛ばされた。
扉は宙を舞い、僕の頭を掠めて、窓を突き破り、中庭の池へ落ちた。入り口から窓にかけて、『暴力』と呼ぶに相応しいものが一瞬にして駆け抜けたのだ。はらはら、と数本の髪の毛が床に落ちる。
「あ、なんだ、いたのか」
先ほどまで扉があった場所に、男が立っていた。彼は、摩りきれた学ランの上にマントを羽織り、破れた学帽を被っていて、ぼさぼさの長髪、ながったるいあごひげがゆらゆらと揺れていた。腰には手拭いらしき布がぶら下がっていた。僕は罵倒の言葉をぐっとこらえ、今世紀最大の苦笑いを浮かべた。
「えっと……誰ですか」
「俺? 俺は“疫病神”だ」
「はい?」
両手にガラクタのようなものを抱えたまま、男は繰り返した。
「俺は“疫病神”、七尾一世だ、以後よろしく」
よろしくしたくない。僕は心からそう思った。
七尾はガラクタを床にばらまいた。ガラガラガラと音を立てガラクタは床を埋めつくす。
「で。お前は誰だ」と七尾はあごひげを揉みながら僕に問うた。
「あ、僕は、飛鷹優雅です」
「ふん」七尾はなぜか鼻で笑った。「気持ち悪いから敬語はやめてくれ、ルームメイトだろ」
僕は今世紀最大の苦笑いを更新した。
むしろ本当に彼がただの疫病神なら、どれだけよかったことだろう。彼は実在の人間で、しかも僕のルームメイトなのだ。これから四年間、寝食を共にしなければならない。
七尾は椅子に腰かけ、懐から煙草を取り出した。そしてそれを口にくわえ、僕をじっと見た。
「吸うか」
「いや、僕は」
「あ、そう」
七尾はマッチで煙草に火をつけ、スパスパと吸い始めた。煙が部屋に充満する。藁葺寮は禁煙だが、そんなことを注意するのはもはや馬鹿らしかった。
扉があった入り口には、壊れた蝶番ちょうつがいが揺れていた。紫煙が、割れたガラス窓から外へ流れ出す。
「えーと」僕は沈黙に耐えきれなくなり、ゲーム機に目を落とした。「七尾はゲームとかやる?」
「ゲーム?」七尾はしかめっ面でゲーム機を睨んだ。「花札か? 麻雀か?」
「いや、そういうのじゃなくて、電子ゲームとか、こういうの」
僕はゲーム機の画面を見せる。そこにはとあるアクションゲームのワンシーンが映っている。
「しないな」
「よかったら、やっていいよ」
この時の僕は何をトチ狂っていたのか、七尾にゲームを勧めた。恐らく、ルームメイトとして少しでも仲良くなろう、と思ったんだろうし、そしてゲーム仲間が出来れば楽しいだろう、そんな浅はかな考えでゲーム機を差し出したんだろう。
「いや、俺はそういうのはできない」
「やってみなきゃわかんないじゃないか」
「遠慮しとく」
「やり方は教えるからさ」
「電源を切った方がいいんじゃないか」
「何言ってるんだよ、電源切ったらゲームできないぞ、いいからやってみろって」
「後悔しても知らんぞ」
「ははっ、なんだよ、後悔って?」
「壊しちまうかもしれんからな」
「よっぽど乱暴しなきゃ壊れたりしないからさ」
そして僕は、七尾にゲーム機を渡した。
ボンッ!
一瞬、何が起きたのか分からなかった。ゲーム機は漫画みたいな音を出して爆発したのだ。
「それ見たことか」
七尾は、粉々になったゲーム機を床にばらまいた。僕は口をあんぐりと開けるしかない。
「な、な……」
「もう一度ちゃんと自己紹介しとくべきだな」
七尾は煙草を窓の外に弾き捨て、あごひげを揉んだ。
「俺の名前は七尾一世、全ての電化製品を故障させる体質がある。付いたあだ名は“疫病神”、七浪25歳の童貞だ」
僕は口を更にあんぐりと開けるしかなかった。