ヴィーナスの誕生
学校へと続く坂というのは、拷問に近い。毎朝毎晩僕達はその坂を上って下りて通学せねばならないわけで、裏で生徒の寿命を縮めるために手を揉んでいる黒幕がいる気がしてやまない。少なくとも、坂の上なんかに学校を作る男は絶対ろくなヤツじゃない。ハゲか競馬好きか、どっちかだ。さもなくばどちらもだ。
そういうわけで、僕の通う大学への道は坂だった。入学式が執り行われる四月上旬の天気のいい朝、僕はその道を全速力で走っていた。爽やかな汗をかきながらも、なんとか門まで辿り着き呼吸を整えた。そこへ差し出されたのが、一枚の、しかしそれは大きな一歩だったのだが、一枚の薄いハンカチーフだった。
「お疲れの様子ですね」
端的に言うとヴィーナスだった。後で知ることになるのだが、彼女には笹井という奥ゆかしい姓があり、すのこという少し妙ちくりんな名があった。しかしその時の僕は彼女をヴィーナスとして認識した。
すなわち、女神である。
「よければ、どうぞ」
差し出されたハンカチーフと、目を細めた笑顔。これはやはりヴィーナスに相違ない。
僕は礼を言うのも忘れ、ハンカチーフを半ば奪い取るようにして受け取り汗を拭いて、返した。ヴィーナスは目をしばたたかせていた。ヴィーナスの瞬きだ。
「あしゃーったい」
僕はそんな意味不明の言葉を吐いてその場を立ち去った。
いかんせん、僕という人間は、緊張してしまうとうまく喋れないことがある。最近は、原稿さえ用意していれば喋れる、ということに気づいたから、大事なイベントの前には喋ることを原稿に起こす習慣をつけたのだが、今回のような突発的なイベントは、対処し切れないのが常だった。後悔を後ろに立たせながら、僕は入学式会場であるセレモニーホールへと入った。
学長はやはり、ハゲだった。
入学式が終わると、セレモニーホールの外では、いつの間に湧いたのか、上回生がうじゃうじゃと蠢いていた。ケルト民謡やロックンロール、鉦鼓や銅鑼の音に混じり、勧誘の罵声が飛び交う。『ホルモン研究会』とか『ベッサバの宴』とか、よく分からない新興宗教じみた団体もかなりの数あった。僕は差し出されるビラや手を押しのけ押しのけ、なんとかその群れの中から抜け出し、ため息を吐いた。
僕は昔から外見だけは好青年に見えるらしく、ついでに運動も実際そこそこできるので、こういうシーンではどこかの部活やサークルに掴まりやすいのだ。それが面倒なので、僕は大学ではその類の集団には属さないことに決めていた。
「おっお兄さんいい顔してるネ!」
バシャッ!
何の前触れもなくフラッシュが焚かれ、僕は手で光を遮った。視界が明滅する。
「どう、うちの第三新聞部『Side』入らない?」
そこにいたのは黒縁眼鏡で出っ歯、肩には『第三新聞部が来る』と書かれたタスキをかけた、そばかすの目立つ女性だった。僕は眉を寄せる。
「……ひ、人違いでは?」
「いやいやお兄さんいい顔してたヨ! この世の真実を追究したい! って顔!」
「見間違いでは?」
「いや、アタシの目に狂いはない! それにね、天のお告げが聞こえたんだヨ! 『この男こそ真実を語りうる者なり』ってサ!」
「聞き違いでは?」
「そんなことないって! それに、なんかお兄さんの顔、見たことあるんだよネ、どっかで! もしかして、お兄さん、有名人?」
「腹違いでは? 生憎と、有名人の義兄妹がいます」
僕は彼女を撒くために歩き出した。しかしそばかすの彼女はしつこく僕の後を追ってきた。
「ねぇねぇせめて話だけでも聞いてってくれヨ!」
「い、嫌ですよ。どうせ無理やり入部させられるに決まってる。そのパターンは、経験済みです」
「新入生のかわいこちゃんがいるヨ!」
「そんな甘言には、乗りませんよ」
「アタシもいるヨ!」
「意義の、あることを、喋るべきでは?」
「あ、ほらあそこ、かわいこちゃん!」
「そんな古典的な手に----」
引っかかる理由が、そこにはあった。
そばかすの彼女が指差した方向、少し離れた場所に立っていたのは、ヴィーナスだったのだ。肩には『第三新聞部が来る』と書かれたタスキをかけ、朗らかな笑みを振りまく、女神が。
ヴィーナスは僕に気づくと、「あっ」と小さく声を上げた。
「朝の」
「ど、どうもせのつば」
噛みまくった。
「アシャータイさん!」
ヴィーナスは嬉しそうにそう言った。
「ヴィーナスさん」
「アシャータイさん!」
「ヴィーナスさん……」
「アシャータイさん!!」
とても嬉しそうにそう言うので、僕は思わず笑ってしまった。こんなに素直に笑みがこぼれたのは、いつぶりだったろう。
「……そばかすさん」
「小麦だヨ。野田、小麦」
小麦さんは腕を組み僕らを見上げていた。僕は唾を飲み込む。
「入部します」
「おっ?」
「工学部一回生、飛鷹優雅。第三新聞部『Side』に、今現在をもって、入部します」
わぁっ! とヴィーナスが手を叩いた。小麦さんがにんまりほくそ笑んだ。
僕はこの時、「僕の大学生活は素晴らしいものになる」という確信に近い希望を抱いていた。
しかし、この選択が途方もない苦悩に塗れた大学生活を引き寄せることになろうとは、この時の僕はまだ、知る由もなかったのである。