疫病神と呼ばれた男
美しい朝日が燦燦ときらめき、時計台の麓の噴水を、まるでダンスパーティーの空に吊るされたシャンデリアかのごとく照らし出している。僕はその噴水に腰掛け、ある女性を待っていた。レンガ敷きの舗装路を行き交う和気藹々とした人々へと視線を流すが、彼女の姿は未だ見当たらない。
僕の名前は飛鷹優雅。この春から大学生になった、ピッチピチの18歳だ。ピッチピチ、という表現はいささか年寄りくさいものがあるが、そんな笹井な……おっと失礼、些細な問題は、今は気にならない。なぜかって、僕は今、浮かれているからだ。あの天下のフリーザ様もかくや、僕は間違いなく浮いている。ビュンビュン空を飛んでいる。常人には目も止まらぬスピードで飛んでいる。いや、物理的にではない。人間が命綱やエンジンもなしに空を飛べてたまるか。死んでしまう。
とにもかくにも、僕の心はウッキウキ、お花畑のおフランスなのである。ある女性の登場を、一分後か一分後か、一秒後か一秒後か、今か今か、昨日か昨日か、と待ち焦がれているのである。いや、昨日はあり得ないか。
「飛鷹さーん」
麗しい声が鼓膜を震わせた。キタキタキタキタ、と今にも小粋に踊り出しそうな心にラリアットをかましマットに沈め、僕はなるべく平静に、「全く待ってませんよ」感を振りまいて、声のした方向を振り返った。
彼女はそこに立っていた。
「笹井さん」
僕は恍惚としながらそう返した。
つややかな黒髪を腰のあたりまで垂らした彼女は、飾り気のない笑顔で僕を見ていた。そして、ぶんぶんと手を振る。
「お待ちしましたか?」
「いえまったく」
即答する。
「一秒前に来たところですよ」
僕はそう言った。ここまではおおよそ原稿通りだ。
するとほぼ同時に背後から、カランコロンという高下駄の音と忌々しい声が響いてきた。調和の破壊者の来訪だ。
「その一秒後に俺が来る」
振り返るとそこにいたのは、七尾だった。摩りきれた学ランの上にマントを羽織り、頭には破れた学帽、足には高下駄、ぼさぼさの長髪、ながったるいあごひげをわしわしと揉んでいる。腰には手拭いらしき布がぶら下がっている。
「まあ、七尾さん」笹井さんはなんだか嬉しげだ。
「な、なんで、こんなところにいるんだよ」と俺は七尾に近寄り指を突きつけ囁く。「今回は、邪魔するな、って言ったろ」
「まあまあ、待ちたまえ。そう熱くなるな」七尾は大仰に手を上げて一歩退がる。「頭で目玉焼きを焼くわけでもあるまいに」
「僕は、卵アレルギーだ」
「なら天ぷらにしよう。俺は天ぷらが好きだ」
「天ぷらですか? わたしはいか天が好きです」と笹井さんが会話を拾う。拾わなくていいところだ、それは。
「油の処理が大変だろ」
「喰え。そして肥えろ」七尾は僕の腹に人差し指を突き立てる。「そしてキモくなれ」
「なんの呪いだそれは」
「イケメンへの僻みだ」言い切りやがった。
「イケメンですか? わたしもイケメンは好きです」また笹井さんがよくわからないところを拾って会話に参加してくる。
「というわけで」七尾はそう言って僕を払いのけ、笹井さんに近づいた。「ともに食事へと赴きましょう。いか天などいかがです」
「わ、それってオヤジギャグですか? いか天などいかが、なんて」笹井さんはおかしそうにくふふと笑う。
「そうでございます」
「適当言うなよ」
僕は頭を抱える。どうしてこんなにめんどくさいことになってしまったのか。事の原因は全てこの男、七尾一世にある。この男と僕が出会ってしまったことが、そもそもの間違いだったのだ。
笹井さんは相変わらず楽しそうに笑っている。可愛らしさここに極まっている。七尾さえいなければ、彼女は僕とともに二人きりの夜を過ごせたに違いないのだ。そう、それは昨日の話なのだが、僕は昨日もこの七尾に逢い引きを邪魔されている。“疫病神”七尾一世。この男に出会った頃の僕はまだ、未来への期待溢れる志高き若者だったのに。
「浮かない顔をしてるな、飛鷹」
そりゃお前のせいだ、さっきまでは間違いなく浮いていた。
そう返そうとしたが、そんな気力も失せていた。
僕は走馬灯のごとく、この男と出会ったあの日のことを思い返していた。大学受験を七回失敗した七浪二十五歳のルームメイト、“疫病神”七尾一世と出会ってしまった、運命が崩れ落ちた日を。