腫瘍
翌日の学校の授業は、お母さんのことが気になって先生の話が全く頭に入らなかった。これがまさに「馬耳東風」というのだろう。長く感じた最後の授業が終わってノートを見たとき、ほとんど何も書いていないことに初めて気が付いた。授業内容も覚えていない。仕方がないから、同級生の奈美ちゃんにあとで授業の内容を聞くとしよう。体調不良を理由に、部活は自主休部して帰路についた。「少しでも早く家に帰って結果を聞きたい。でも、やっぱりがんだといわれていて、手術になったらどうしよう。お母さんがあと何ヶ月かで死んだらどうしよう。家のことはどうなるのかな。秩父のおばあちゃんが助けてくれるのかな。お母さん死んじゃうのかな」そんなことを考えていたら少しずつ早足になって、家の屋根が見えてからは、背負ったバッグを思いっきり揺らして走っていた。
「お母さん死なないで。いやだからね。神様お願い。お母さんを助けて」
言葉が次々に浮かんで、口を衝いて出た。その言葉で胸が締め付けられて、息が苦しくなった。スカートがめくれているけど気にならない。同時に目の前がかすんで、眼の横が冷たくなった。駐車場にお父さんの車が停まっている。息を整えてから庭の木戸を押し開けたときに、服の袖で目の周りをこすりながら顔を上に向けた。眼を細くして青い空をみたら、目の周りが少し沁みた。
「泣いたこと、ばれるかな」
ジンジンとした目のまわりを気にしながらつぶやいた。
「ただいま」
玄関の奥から、お帰りというお母さんの声が聞こえた。声が遠いから店にいるのだろう。居間に一歩踏み入れてから部屋をぐるりと見まわした。急に片付けられていたらどうしようかと思っていたが、いつもと何も変わらなかった。とり越し苦労だったとホッと胸をなでおろしたところで、居間にお父さんが入ってきた。
「お帰り。今日のおやつはホットケーキだよ。薄焼きにしてクレープ風にしてもいいよ」
お父さんの作るホットケーキは、しっとりしていて弾力がある。「空気を入れないように混ぜることがフワッと焼き上げるコツだと、テレビに出ていたシェフは説明していたんだ。でも、お父さんはしっとりしたホットケーキが食べたくて、何回も作り方を変えたんだよ。その過程で見つけたのは、まずはメレンゲを作ること。卵の黄身を別にして白身に少しだけ蜂蜜を加えてよくあわ立てる。そのあとに牛乳と黄身を入れてからホットケーキの元を混ぜる。水で少しゆるめに調節したら、理想の生地が焼けたんだよ」と少しだけ誇らしげに話をしてくれた。
いつもの話し方に戻ったお父さんにお母さんのことを聞こうと口を開いたとき、私服のお母さんが居間に入ってきた。
「あれ、お母さん今日はお店休みなの」
「お帰り。やっぱり部活はサボったんだ。昨日作った分を売ったからもう店じまい。今朝まんじゅうを作っていなかったのに、気づかなかったの」
笑顔で話す姿を見て、目頭がすこしだけ熱くなった。
「入院の準備をするからね。お知らせを作って張り出したから、お得意様は見てくれると思うよ。個人のお店は信用問題があるから、文面はかなり気を使ったけどね。明日からまた店を開けるけど、しばらく休むことをお客様に伝えなくちゃ」
上州名物焼きまんじゅうを専門に作って自宅の店舗で売っているのだが、
「社長兼従業員1人の自営業で、お母さん以外の社員がいないからまだ気が楽かな。完全歩合制だから収入は減るけどね。でも保険で入院費が払えるから心配しないでね」
と鮨膳で話してくれたことを思い出した。以前はパンを作るときに使うイースト菌を使っていたが、自家製米麹に変えたことで、まんじゅうが格段においしくなった。それと、ガスの焼き台を備長を使った炭火焼きにしたことで「やっと完成したよ」と自慢の焼きまんじゅうができたことを、去年嬉しそうにお母さんは話してくれた。
「あれ、目が赤いよ。どうしたの」
思ったとおりお母さんには気付かれた。だいぶ前に、お母さんの子供時代のことをおばあちゃんが、
「昔からよく気の付く優しい子で、百歳のひいおばあちゃんをよくみてくれたんよ。面倒見がいいんだろうね。でもね、かゆみ止めを切り傷に塗ったときはびっくりしたけどね。おばあちゃんは笑っていたけど、沁みたんだろうに、少し涙が出ていたんよ。でも不思議と1週間で傷が治ったから、秩父の家では切り傷にかゆみ止めを使っていたんよ」
と話してくれた。美容院に行って髪を切った娘の私やお母さんを見ても、何も気付かないお父さんとは違う。これでよく看護師が務まるものだと、お母さんは髪を切るたびに同じセリフを言い続けている。
「なんでもないよ。ちょっと目がかゆかったからこすっただけ」
予想に反して明るい表情で「ふーん」というお母さんに対して
「で、どうだったの。病院でなんて言われたの」
話を逸らしたい気持ちより、早く結果を知りたい気持ちが強くて言葉が出た。
「今日はCT検査のあと、結果を聞いたんだけどね」
お母さんはここで少し間をおいた。何か考えているようだった。
『CTスキャンは撮ったレントゲンの画像情報をコンピューター処理して、体を輪切りした画像を作ります。その結果、腫瘍は右乳房の脇に近いところに確認できました。一般的に一番できやすい場所です。幸いなことに腫瘍の周りは薄い膜で覆われていて、周囲を圧迫して育ってきたようです。脇への明らかなリンパ節転移も画像では見られないので、腫瘍切除だけで済むかもしれません。ただし以前にもお話ししたように、病理検査の結果で腫瘍の悪性度が高ければ乳房切除を受けることをお勧めします。今日はこのあと血液検査と心電図それにレントゲンの検査を受けていただきます。麻酔科医にはご主人の都合で明後日診てもらいます。あと入院の説明は省略するので書類だけお持ち帰りください。ご主人とよく話し合って、来週の木曜日までに決めて答えをいただければ幸いです。』
医師の説明はこうだったと、お父さんが代わりに話してくれた。最初の話よりはいくらかましな感じだ。「でも腫瘍であることは間違いないから、楽観はできないんでしょう」という言葉のかわりに、
「すこしほっとしたよ」
とお母さんに声をかけた。心配はしているけど、弱いところを見せるような気がして聞けなかった。
手術は再来週の月曜日に決定したので、これから二人で入院に必要なものを買いに行くという。
「榛菜も一緒に行くかい。のるん藤岡で卵次郎のシフォンケーキを買ってもいいよ」
榛名山の麓で大切に育てられた地鶏の卵は、黄身が濃厚で甘みがある。白身も臭みがない。その卵を使ったシフォンケーキを食べると、美味しい卵の味が口の中に広がる。さらに、弾力があるのに噛むと口の中ですっととける、不思議な食感が気持ちいい。心が躍る味だ。
おやつはシフォンケーキにしたが、家で留守番をすることにしてインターネットで乳房の腫瘍を検索しよう。この間は手術の方法まで調べたから、今日は手術後の治療まで調べてみたい。
「宿題があるから行かないけど、シフォンケーキをお願いします」
と言いながら玄関で両親を見送った後、インターネットの電源を立ち上げた。