お母さんの病気
「ただいま。榛奈、ちょっと来てくれるかな」
ドアの向こう側からお母さんの声が聞こえてきた。響く声が遠く感じたので、階段のすぐ下で呼んでいることがわかった。
「お帰りなさい。わかった、でもちょっと待ってくれる。今いいところなの」
大好きな本の主人公が、二人の子供をかかえて火事の建物から脱出しているところを読んでいた。何度読み返してもはらはらする場面を、小学生のとき「読書感想画」に描いたことがある。市の絵画コンクールに学校代表として出品されたその絵は、火を表現した赤い絵の具の色がよかったと評価された。実はオレンジ色の絵の具がにじんだだけで、偶然の産物だということは両親だけしか知らない。
一段落するところまで読んでからいこうと思っていたら、
「今お願い。話があるからすぐに来て」
さっきよりも大きな声で呼んできた。
今日は県民の日だから、朝寝坊して十時過ぎに起きてから、キュウリとキャベツの浅漬けで朝ご飯を食べた。ジッパー付きのビニール袋に切った野菜を入れて、出汁しょうゆと納豆のたれを混ぜてもみこむ。さらに手のひらでつぶしたごまと少しのしょうゆで香りを整えて一晩寝かせる。自分で漬けた割には結構おいしいと、自画自賛しながらゆっくり味わった。そのあと自分の部屋で冷たい緑茶を飲みながら本を読んでいたのに。「あとでいいじゃない」と小声でつぶやきながら部屋をでた。朝よりも少しだけ強く降っている雨の音が階段に響いていた。両足が少し重く感じるのは雨のせいか、それとも中学校の体育祭で対抗リレーに出て走った翌日だからなのかと考えながら、階段をゆっくりとおりた。
一階に降りて、右手にある扉を開けた。居間に入ってすぐに
「えっ」
と声を出して足を止めて、目を見開いてしまった。病院で仕事をしていると思っていたお父さんが椅子に座っているからだ。いつもと違って眉間にしわを寄せてこちらを向いているが、視線はテーブルに注いでいる。隣に座っているお母さんと目が合ったので、
「どうしてお父さんがいるの」
と聞いた。お母さんは答えずに、口を閉じたまま大きく息を吸い込んでから
「まずはそこへ座って」
手の平を上に向けて、テーブルの向かい側を指し示した。食事の時にお母さんが座る席だ。話し方が少しよそよそしい感じがする。自分の両親を漠然と見ながらゆっくり椅子に座ったとき、曾祖父が買ったという柱時計が
「ボーン」
と一回鳴った。文字盤と二本の黒い針が午後一時を指し示している。時計の上半分を占める金色の文字盤には、時刻を示す一から十二までのローマ数字が一周、規則正しく描かれている。文字盤の下にあるガラスの扉には、弧を描いて金色の横文字で「SEIKOSYA」と描いてある。今も続く時計の老舗の名前だ。下半分は金色の振り子がガラスの奥で左右に規則正しく振れながら「コッコッ」と、いつもより大きな音を部屋の中に響かせている。「まだお昼ご飯を食べてないからおなかがすいたな。今日は鮨膳の日替わりちらしを食べたいな」かんぴょうとれんこんを細かく刻んで酢飯に混ぜて、サイコロ状に切ったマグロとイカそれに蟹足と錦糸卵をその上いちめんに散らしてある日替わりのちらし寿司を思い浮かべたとき、お母さんがフーッと大きなため息をついた。
「九月に受けた市の検診結果で、詳しい検査を病院で受けたことは話したでしょう。今日、その検査結果を聞きに行ってきたの」
二次検診というやつだ。ここでまた、お母さんがため息をついた。
「それでね、病院に入院して手術が必要だって言われたんだ」
「お母さんが入院したら、榛奈が悟志の着替えとかお風呂の面倒をみるようになるから、協力してね」
「えっ、どうしたの。なんで手術するの」
昼食のことを考えていたせいで、手術という言葉しか耳に残らなかった。そのあとの言葉も気になったけど、急に言われたからか聞きたいことが言葉としてまとまらない。少し間が空いてから、
「あのね、胸にしこりがあったの。それを診てもらうために病院までいったけど、結果は悪性腫瘍の可能性があるって言われたの」
乳房にできる悪性腫瘍は、図書館で借りてきた本に載っていた。「乳がんのことだ」とすぐにわかった。
「麻酔で寝ている間に腫瘍を切り取るけど、悪性の場合は一緒に片方の乳房も取るかもしれないんだって」
お母さんは右の胸を左手で支えるようにして、目を細めて見た。
「えっ、じゃあお母さんのおっぱいがなくなるってこと」
とっさに口からこぼれ出てしまった。その言葉でお母さんは顔を上げてより目を細めて、またため息をついた。
「そうね。そうなるね。でもそうなったら、ちょっと寂しくて悲しいかな」
少し小さな声で答えながら、おかあさんはテーブルの上にあるガムのボトルに視線を注いだ。悲しそうな表情のお母さんを見た瞬間に、自分の体ではないようなふわふわした感じとともに耳鳴りがするような気がした。眩暈かもしれない。聞きたいことはたくさんあるのに言葉が何も浮かばなかった。何も映っていないテレビに視線を移すと、急にお父さんが立ちあがった。
「おばあちゃんが夕方まで悟志を預かってくれるから、これから鮨膳に昼飯を食べに行こう」
とだけ言い、すぐに部屋を出て行った。
「さっき車の中でお父さんと話をして決めたんだけど、個室のあるところで話しながらお昼ご飯を食べようね。そのあと夕飯の買い物に付き合ってね」
お母さんは身支度を整えるといい、部屋を出た。
居間に一人取り残されたので寂しい気はしたが、その日の昼ごはんは希望がかなった。