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嘘つきキャンディ 正直アイス

 濁った黒い雲から冷たい雪が降り落ちる。吹き上げた息が白い霧となってバットの前に広がった。

 「冬の訪れ」と、家の中からはしゃぐ声が聞こえる。

 頬に触れるこの冷たさは、確かに冬の訪れだった。



「……そうだよ、冬だよ!」

 冬という響きを二度ほど咀嚼して、バットは慌てて立ち上がる。そして自分の出した声に驚いたように、手で口をおさえた。

 そもそも叫ぶことなど滅多にない。バットはこの家の中でも比較的物静かだ。薄暗いわけではない。ただ、男は無駄口をたたくものではない。と、そう思っているし、それを忠実に守ってきた。

「バット!?」

 朝食のパンケーキを焼いていたリンは、バットの声に驚いたのかフライパンをひっくり返す。

 滑り落ちたパンケーキを受け止めたのはブッディの皿。彼はいつでもリンの隣にいる。そのせいで、そんな魔法のようなことも容易くこなす。

 しかし、リンはそのことを知ってか知らずか無邪気に笑ってみせるのだ。

「すごいわ、ブッディ」

「どういたしまして」

「リンもブッディも、聞いてよ! 冬支度だよ。冬支度。まだ何にもできてないのに雪が降り始めるなんて」

 バットは厚手のコートを羽織り、ぼさぼさ髪を帽子で押さえ込む。そして飛びはねながら足にブーツを突っ込んだ。

 こんなに着込んでもまだ寒い。本格的な冬だ。冬が来てしまった。

「予想外だ。昨日までは雪なんて、ちらりとも降らなかったのに」

「そうねえ。今朝は急に冷えたわ。深夜に音が消えたのは、きっと雪が降る合図だったのね」

 クロウは机の上で湯気を上げる黄金のパンケーキを急いで飲み込む。詰まりそうになるのをミルクで流し込み胸をたたいた。

「最近、あったかいから忘れてた。もう冬がくるってこと。町の市場は二度目の雪が降ると全部閉まっちゃうだろ」

 バットはリンを睨みつつ、彼女の背の向こうを指さす。

「なのに、備蓄庫は空っぽだ」

 そこにあるのは、台所の地下に作られた備蓄庫だ。

 秋の頃には、備蓄庫はもちろん棚にも机の下にも竈の横にもたくさんの食べ物があった。

 肉の薫製、香草、乾燥キノコにチーズにミルク。甘いものだって、パンだって、あれこれたくさんあったはずなのに。

「冬になったら、買い出しにだっていけないのに」

 すっかり寂しくなった備蓄庫を覗いてバットはため息を漏らす。

 冬になる前に買い出しに行けばいい。気軽に考えているうちに、備蓄はほとんどつきかけている。クロウはバットの焦りなど気づきもしないのか、空っぽになった小麦の袋を振って楽しげに笑う。

「空っぽだね、リン」

「困ったわ」

「困ったわ、じゃないんだよリン。毎年はリンが備蓄の切れることを教えてくれるから、それを目印に出かけてたのに……」

 バットはじとりとリンを睨んだ。ふかふかのマフラーに半分埋もれた顔では迫力などひとつもないが。

 バットの責める口調に、リンは少しばかり困った顔をする。

 食材の備蓄管理はリンの仕事だった。冬になる前、備蓄が切れかける頃に彼女はバットにそのことを伝える。それを聞いたバットはキャッツを伴って町へ買いだしに出る。

 町から戻る彼らの手には、たくさんの食べ物と食材と、心ばかりのおみやげと、そして彼らがこっそり食べたお菓子のから紙。

 もう何十年も繰り返してきたこの報告を今年のリンは珍しくも忘れた。秋の終わり頃から、何かと物思いにふけることの多いリンである。理由は何となく、聞けずにいる。そのうちに、森に雪が降り始めた。

「冬を越すだけの食材を買わなきゃなのに、こんな時に限ってキャッツは風邪だし」

「……仕方ないだろ」

 リンの足下に置かれた箱の中、キャッツが不服そうに顔を上げた。声はがらがら。こすりすぎたせいか、小さな鼻は真っ赤だ。

「風邪なんて、予防してたって引くんだから」

 数日前から咳き込んでいたキャッツは、昨夜よりとうとう本格的な風邪をひいた。ベッドで眠ることを嫌がる彼は、リンに小さな箱を用意させ、その中に毛布を引き込むなり丸まった。

 その箱は、夜が更けるまでリンの足下に置かれている。

 今もまた、リンに頭を撫でられて心地よさそうに彼は喉を鳴らすのだ。しかし、熱はまだ下がっていないのか、息は苦しそうに弾んでいる。

「あなたたちでも風邪を引くことがあるのね。かわいそうに、普段は冷たい体がこんなに熱くなって」

 リンがキャッツの額に手を当ててやると、彼は幸せそうに目を細めた。

「だから今日、市場へ行こうと思うんだけど……クロウは人混みを怖がるしブッディは絶対来ないし……あとは」

 大きな鞄と手押し車を用意しながら、バットは眉を寄せた。

 ブッディはバットの騒ぎなど関係ない顔でパンケーキに向き合っているし、バットは人混み。という言葉を聞いてリンの後ろに隠れてしまった。

「じゃあ、あとは私だけじゃない?」

 残されたリンは、胸を張ってバットに手を伸ばす。そして彼の持つ手押し車を奪い取った。

「私、力持ちなのを知ってるでしょう?」

「……へ? だ、だめだ」

「じゃあ他にだれかいる? 一人じゃむりよ」

 にこにこと笑うリンの頬には赤みが差して健康的だ。

 髪の毛はすっかり真っ白、手や顔に皺があってもリンは子供の頃の面影を残している。笑った時にできる小さなえくぼや、爪の形、弾むような明るい声は、いつまでたっても昔のままなので、バットは何も言えなくなってしまう。

「だ……誰か……」

 バットは助けを求めるようにきょときょとと周囲をみるが、やがて小さくため息をついた。

 どうせ、リンという選択肢しかないのだ。

「ブッディもリンのこと、止めてよね」

 我関せずを装って、パンケーキにナイフを入れるブッディに一言文句を漏らせば、彼は赤い瞳をちらりとバットに向けた。

「リンが行きたいと言っているのだから、私はそれを止めるような真似はしません」

 ブッディはリンに甘い。そもそもこの家の住人はみな、リンに甘い。だからせめてバットだけでもリンに冷たくしようと決意したものの、結局は甘くなる。

 リンの明るさは、人の心をとかすのだ。その明るさと無邪気さは蜜のように甘い。しかし、その甘さは時に危険を呼ぶ。

 窓が急に、がたがたと音を立てた。風が強くなっている。早く行かなければ、冬は風に乗って驚くほどに早く訪れるのである。

 バットは拳を握り、うつむく。ため息が口の端から漏れていく。

「……リンは……昔、人攫いにねらわれただろ。だから、一緒に町にでるの、いやなんだよね」

 こんな風に、急に冬が来た数十年前の日をバットは忘れない。

 ずいぶん昔、まだリンが小さな少女だったころ。バットとキャッツ、クロウとリンで町に探検に出たことがある 

 悪戯もののキャッツが思いついたのが、リンをわざと迷子にさせること。

 バットは止めたが計画は遂行され、結果、迷ったリンは人攫いにさらわれかけた。三人そろって無我夢中に追いかけるうちに転んで頭を打って気を失ったのである。

 目が覚めれば大きなベッドで並んで寝かされたバットにキャッツにクロウに……そしてリン。

 目の前に座るブッディだけが、ぼろぼろの格好で疲れたように微笑んでいた。

「その話、何度も聞くけど私は覚えてないのよ」

「年寄りになって忘れちゃったのさ」

「まあひどい」

 何事もなかったとはいえ、それ以来バットはリンを伴って町に出ることに恐怖を覚えるようになった。目の前でやすやすさらわれる人間の脆さ、そして自分の非力さが恐ろしい。

「……なら」

 食事を終えたブッディは口を丁寧に拭いながら、ちらりとバットをみた。

「あなたが守ればいいでしょう、バット」

「分かってるよ!」

 結局、自分もリンに甘いのだ。と、バットはつくづくそう思うのだ。



 森の木が、強い風を受けてはらはらと葉が散っていく。せわしないほどに葉が踊って舞い散ると、ますます冬の訪れを強く感じるのである。

 バットは木の葉で埋もれた道を急ぐ。まもなく、森の終わり。そこを抜ければ、まるで魔法のように目の前に町の風景が広がる。

「前に町に行ったのは、もう随分前ね。市場の立つ町に行くのは初めてだから、すごく嬉しい」

 分厚いコートに包まれたリンは子供のような顔で笑う。実際、彼女が森から出るのは久しぶりだった。

 それを心配するように、キャッツはマフラー、クロウは帽子を差し出した。彼女がまとう黒のコートは、ブッディのもの。家の香りをその体にまとわせて、彼女は楽しそうに森を歩く。

「……いっておくけど、リン。本当は今日に町になんか行きたくなかったんだ」

「なんで?」

「初めての雪が降った日は、市場はお祭り騒ぎだよ。それはもうバカみたいにね。冬がくることなんて、一つも嬉しいことじゃないのに」

 どれだけマフラーで顔を隠しても、鼻の頭がどうしても冷たくなる。

 この世界の冬は、凍てつく冬だ。寒さと雪と悲しさと氷が町も森も閉ざしてしまう。長い長い冬は、木々も泉も町も何もかもの時を止める。そんな寂しい季節の始まりに、町の連中は楽しげに歌うのだ。

「だから人間って馬鹿だよ。僕がまだコウモリだった頃、冬の訪れは死の象徴だった。誰も喜びはしなかったのに」

「そういえば、バットの昔の話を聞いたことがないわね」

「そんな面白い話じゃないさ」

 冷たい鼻をこすり、バットは目を凝らす。これほど歩いて、ようやく森の出口がかすかに見えてきた。

(……町は遠いな)

 元の姿に戻って空を行けばどれくらい早く町についただろう。

 例年、面倒な時はキャッツと二人、変化して出かけたものである。ブッディには止められていたが。

 しかし今日は横に、リンがいる。リンを一人放っていくのは、もうこりごりだ。

 だからバットは、面倒でも二本の足で歩く。木の葉を蹴り飛ばすと、初雪を含んだ青い滴がちらちらと目の前に舞って顔を冷やした。

 人の姿というのは、とかく面倒くさい。

「それに、今日は嘘つきキャンディと正直アイスの日なんだ」

「まあ楽しそう」

「ちっとも」

 バットは眉を寄せてリンを見上げた。

 今日、町に行くのは冬の訪れを喜ぶバカな大人とバカな子供ばかり。

 そんな人間のために、町は一斉に彩りをかえる。冬支度のための薄暗いテントはいかにも子供が喜びそうな極彩色に色を変え、店の前には大きな籠が用意されるのだ。

 そこに売られるものは、「嘘つきキャンディ」。大粒で、ごろごろとして甘いばかりの飴玉だ。

「あちこちに、まずい飴を売ってるよ。それを食べたら、嘘しかつけないのがお約束。それだと困るだろ? だからそれを解くには、正直アイスを食べなきゃいけない」

 そして飴と同じくらい登場するのが、花蔦を巻き付かせたテントだ。その蔦は、寒さを防ぐ。薄い毛がたくさん生えているのである。

 蔦に覆われたテントの中には、暖炉が用意され、まるで春のような暖かさ。

 その中で、冷たいアイスクリームを食べるのが初雪の日のお約束である。

「……まあ、もともとは買い物に行きたがらない子供を無理矢理町に連れ出すためにできたお祭りらしいけどね。ご褒美があればみんなくるだろ? 僕はそんなものなくたって、行くさ。子供じゃないんだからね」

「どんなアイスなの?」

 バットの言葉など何一つ聞いてない風に、リンの興味はもうすでにアイスに飛んでいる。こんな寒い日に、アイスで喜べるなんてやっぱり人間は変なのだ。

「……ただのクリームいっぱいのアイスだよ。雪の蜜が使われてるけどね」

「雪の蜜?」

「初雪がとけ込んだ花の蜜」

「すてき」

 バットは目を輝かせるリンの腕を乱暴に握った。

 目の前が、光にあふれている……森の終わり、町のはじまり。

「やめて。時間ないんだからね」

 一歩。抜けたとたん、リンがぱっと目を輝かせる。バットもしばし、その光の渦に目が慣れるまでその場に立ち尽くす。

(……ああ、町だ)

 ……何年訪れても、何年この風景を見ても、胸の中にわき上がる感情を押さえることができない。

 薄暗い森から一歩、外に出るや二人を迎えたのは光と音楽、人々の笑う声。

 一気に情報が頭に滑り込み、思わずくらくらとしてしまう。

(だから、いやなんだ)

 森の奥にあるバットたちの家とは異なり、町の中はすべてが刺激に溢れ、明るくて、にぎやかで、そして刹那的だ。

 平穏が乱れる。冷静であろうとする心が揺れる。感動の次に訪れるのは不安と恐怖感だけである。

「さあ。さっさと行こう……って、リン! ちゃんと前みて!」

 リンは順応力が高いのか、すっかり子供のような顔で周囲を見渡している。

 赤に黄色に青の、大きなリボンがかかったテントの群。曲芸師が踊る広場に、大きな木々には光のトッピング。どこかからか聞こえる合唱の歌声に、何かが焼けるいい香り。

 まっすぐの道の左右に、ところ狭しとテントが並び、その合間を人々がもみくちゃになっている。何千人の人がいるのだろう。と、バットはぞっと背中を震わせる。

 買い出しをするだけでも、一苦労だ。

「ねえねえバット、店先で売ってるのが嘘つきキャンディ? あの奥にある蔦のあるテントがアイスのお店?」

「ぜったい、迷子にならないで。僕は仕事はきちんとしたいんだ。どこかの猫とか、ぐずのカラスと違ってね」

「待って、待って。ねえねえバット」

 リンはバットの言葉なんて聞いていやしない。軒先につるされている薫製肉や茹で豆、色とりどりの野菜や巨大なチーズにもう夢中だ。この町には、あらゆるものが揃っている。

 早く。と彼女の手を引っ張れば、リンはバットの手の中に小さな固まりを滑り込ませる。

「はい。嘘つきキャンディ」

「……ちゃんと聞いてたの僕の話。もういいけど」

 いつの間に買ったものか、それは嘘つきキャンディだった。べったりと甘いだけの安っぽい飴。

 これならリンの作る飴のほうが美味しい……と思うが、バットはそれについては口に出さず、リンに向かって手を差し出した。

「はい。満足したでしょ。もう一回ちゃんと手、繋いで。絶対離さないでよ」

 人々の足取りは軽い。まもなく冬がくるというのに気楽なものだ。たぶん、みんな馬鹿なのだろうとバットは思う。

「バットは心配性ねえ」

「リンがさらわれた時、ブッディに随分冷たくされて懲りたんだから」

「まあ、ブッディはそんなことしないわよ」

「するよ!」

 握った手を強くつかみ、リンをもっと近くに引き寄せる。

 冬でも夏でも人間の体温というものは温かい。バットをはじめとする三人の手には温度がない。そんな時、しみじみ思うのだ。

 ……リンは、生きている。

「もっと、リンは自覚を持つ方がいいともうけどなあ」

 いろいろなことに。と、バットはため息をつく。空から一粒の雪がまた舞い落ちて、顔をぬらす。

 早く買って帰ろう。と、歩く速度を速めた。

 なぜだかいやな予感がするのである。そしてバットの嫌な予感は、当たるのだ。



「……よしっ」

 手の荷物はずっしりと、手押し車にも野菜や果物、乾燥食材がたんまりと詰まった。冬の香草も、チーズも体を温めるお茶の葉も。

「大体揃ったし……余計なものは買ってないし……」

 あとはキャッツやクロウへの土産も買い込んだ。これだけあれば冬を越えられるだろう。

 メモをひとしきり眺めてバットはようやく息をついて顔を上げる。

「さあ帰るよ……リン?」

 ……すると、先ほどまでそこにいたリンがまるで魔法のようにふうっと消えているのだ。それはまさに、消滅。という言葉に近い。

 右を見ても左を見ても、見知らぬ人間ばかり。足下を町鼠が馬鹿にするように走り抜けていく。さきほどまで側にいたはずの、リンがいない。

「リン?……からかわないで、どこにいるの」

 すでに止まっている心臓が、もう一度止まった気がした。

「……しまった、リン!」

 それはかつての思い出と重なる。目の前から消えたリン。誰かに手を引かれ、連れさらわれるリン。小さな影と揺れる髪を、バットは一回だって忘れたことがない。あれほど恐ろしいことはない。

 薄暗い洞窟の中で過ごしたコウモリ時代の思い出より、ずっと恐ろしくて寒いのだ。

「だから離れるなって、いったのに!」

「……ああ。あのお婆ちゃんは君の?」

 駆け出したバットに声をかけた影がある。それは薄暗いテントの横に立つ影である。老人のような老婆のようなその影は、テントを静かに指さした。

「それとも、ひいお婆ちゃんかな」

「リンはそんな年寄りじゃないよ」

 低い声が意地悪く笑うので、思わずバットはその影を睨む。

 その年寄りはすっぽりとフードを被り、口元ばかりが不気味に見える。にぎやかなはずの市場の中でここだけが不思議と静かで息苦しい。

「知ってるならどこにいるか教えて……」

「この奥にいったよ。子供だけの遊びだって言ったのに、どうしてもっていうからさ」

 入り口には古い文字で、鏡の国。とある。覗き込めばテントの奥にきらきら輝く光が見えた。

 鏡をいくつも重ねて迷路にさせる、子供だましの遊び場だ。

 礼を言うのもほどほどに、滑り込めばバットの背筋がぞっと凍った。

(僕が……たくさんいる)

 目の前には、自分が大量にあふれていた。狭い部屋の中、鏡、鏡、鏡、鏡の群!

 その鏡に映るのは、小さな背に黒いコートと赤いマフラーをまきつけて、大きな帽子をすっぽりかぶった目つきの悪い子供の姿だ。見間違うはずもない。全部、自分だ。

「……いたっ」

 まっすぐ進もうとすると自分にぶつかる。まるで氷のように冷たい道の中で、方向感覚さえ見失う。

 目を閉じ、感覚だけを頼りに歩いても足がふらつく。

(……おかしい。空間が、掴めない)

 先ほどから目の前を揺れる光は鏡が放つものだろう。その光のせいで、方向が掴めない。目を開ければ自分と目が合い、背がぞうっと凍った。

(早く……早く行かなきゃ)

 鏡が複雑に絡み合う道を抜ければ、広い部屋に出る。前後左右、全てが鏡に覆われた部屋だ。その中で、リンが一人ぽかんと鏡を見上げている。

 彼女にも、自分の姿が幾重にも見えるのだろう。

 その姿を見て、バットははじめてため息を漏らす。

「リン……」

 馬鹿らしい子供だましの遊びだ。安堵して手をさしのべようとした。……とたん、

「……リン」

 鏡の中のバットの一人が、ぬるりと動いた。

「……僕はここだよ」

 バットの声で、それは言う。はたとみれば、鏡にうつっているはずのバットはみな、自由に動いているのだ。バットは一言も発していないというのに、彼らは好き好きに口を動かす、体を動かす。

「僕はここだ!」

 叫ぶと、周囲のバットも面白がって声を上げる。同じ声、同じ顔。近づこうとすると、偽のバットに邪魔をされる。

 リンはあっという間に、数十人ものバットに囲まれた。

「バット? なにこれ、遊び?」

「違うよ! もう、わけわかんない。早く外に出て、リン!」

「そうだよ、遊びだよ。僕を見つけて僕を抱きしめて、大好きなリン……」

 一人がささやくと、他のバットが狂ったような笑い声をあげる。その声は反響し、わんわんと頭の中に響くのだ。

 それは、バットが遙か昔に暮らした古い洞窟を思い出す。

 巨大コウモリが暮らす、それは美しくも静かで優しい洞窟であった。

(地揺れだ……)

 違う。ふるえているのはバット自身である。しかし膝がふるえ、立っていられない。

(揺れて……入り口がまた、土崩れで閉ざされるんだ……それで)

 皆、死んでいく。少ない空気の中で、母親も兄弟も、仲間もみな、死んだ。皆が上げる最後の悲鳴は洞窟の中にわんわんと響いた。

 冬の冷たい雪が、氷が、バットたちの住む洞窟を閉ざしたのだ。春であれば、夏であれば。せめて初雪の降る前であれば、助かる道もあったかもしれない。冬のせいで、雪のせいで、皆が死んだ。

 死にたくないと叫んだ声は、バット自身を馬鹿にするように洞窟内に虚しく響いた。

 その声は、何百年経った今でも耳の奥に残っている。

 そして、その声はいうのだ。

「……たった一人で生き残った気分はどうだ、コウモリの子供」

 バットはハッと顔をあげる。目の前で、自分と同じ顔の少年が意地悪な顔で微笑んでいる。その挑発的な目を見て、バットは目を細めた。

 馬鹿にされるのは、嫌いだ。今も、昔も。

「……ああ。最高の気分だよ」 

 ぐらりと崩れそうな体を立て直し、バットは自分の頬を強くたたく。目の前では、リンが大勢のバットに囲まれている。ぽかんと丸めたリンの目だけが見える。自分を押しのけて進もうとすれば、他のバットに邪魔をされる。手を差しのばせば、全員が差しのばす。

「もう。リン! 僕はここだよ!」

 叫けべば、皆が同じ声を上げる。その偽バットは皆、コウモリの顔をしているのである。鏡越しに見ればバットとそっくりな少年に見えるが、バッドの目で彼らを見るとそれはいつかの冬の日に死んでいった仲間の顔。

 なるほど、これは、鏡の亡霊だ。

「……見つけた」

 ふるえたバットの手を、温かい指がつかんだ。

「この子が、本物のバット」

 リンの手だ。

 血の通ったリンの手がバットの手をつかみ、引き寄せる。そのコートの中に、ぎゅっと抱きしめられた。コートに染み付いたブッディの香りが広がる。そしてマフラーからはキャッツの匂いが、帽子からはクロウの香りがする。

 そして何より、リンの香りが、森の香りがバットの体を包み込む。

「お帰り、バット」

「リン……」

 すっと空気が静まった。

「……ああ。本当ばっかみたい。なんで当てちゃうんだろうねえ」

 あれほどにぎやかだった声が、一つに集約される。5人のバットが3人に、3人が1人に。吸い込まれるように一つになって、残ったのは一人の少年であった。

「本当に人間なんて、馬鹿ばかりでいやになる」

 そこに立っていたのは、バットの姿ではない。見覚えの無い子供だ。

 氷よりも冷たい声で、冬の風より荒々しい声で彼はリンとバットを半眼のまま見下ろす。

 その少年の姿は、鏡には映らない。映らないのに、そこにはいる。

 バットの背筋に冷たい汗が流れた。

「おまえ誰だ! それ以上、近づくな!」

 バットはリンを守るべく腕を張るが、ちっとも格好がつかない。

「ねえ、リンもそう思うでしょう?」

 少年は、目を細めて笑った。

「だからさ。人間じゃなくなっちゃえば、いいのに」

 背はバットより少し低い。きれいに切りそろえられた黒い髪はさらさらと、肌は恐ろしいほどに白い。白いシャツに黒のジャケット。音もなく歩き始めた足には、汚れのひとつもない革の靴。

「あ。でも今から人間じゃなくなっても、ずうっとお婆ちゃんのままで、かわいそうかな」

 差し出した指は真っ白で鋭い爪が不気味だった。

「かわいそうなリン」

 ほほえむ目は、血の色を落とし込んだような深い赤。

「リン!」

「待って」

 少年の白い手がリンの首筋を掴むより早く、リンがその腕を掴んだ。

 バットが止める間もなく、リンはその腕を引く。少年にとっても予想外の動きだったのだろう。彼は目を丸めたまま容易く引き寄せられる。その隙に、リンが少年の口に小さな粒を押し込んだ。

「……はい。嘘つきキャンディ。もう悪態は付けないわね」

 少年の口に投げ込んだのはあの、恐ろしくまずい飴玉なのである。趣味の悪い紫の飴を放り込まれた少年は、先ほどまでの妖艶な表情をすっかり忘れて目を丸め固まるばかり。

 それをみて、リンは極上の笑みを浮かべた。 

「また、正直アイスを食べにいらっしゃい」

「……っ 僕を馬鹿に……」

 驚きは覚めれば怒りにすり替わる。深い驚きであればあるほど、怒りは深い。

「リン、危ない!」

「バット、伏せて!」

 少年は顔を真っ赤に染めて腕を振るった。その腕がまさにリンに当たるその瞬間。

「……」

 ふっと、リンの背後に影が揺れた。リンは気がつかなかっただろう。しかしリンに抱きしめられた格好の、バットには見えたのである。

 リンのコートが一瞬ゆがみ、そこから二本の腕が飛び出したのだ。その腕は、鋭い爪に白い肌。

 まるでリンを守るようにまっすぐに飛び出した腕は、少年の体を強く押した。

「……また、おまえか」

 少年は一つ突かれただけで、剣にでも触れたようにふるえる。一歩二歩、ふらふらと後ずさり、そして憎々しげに何かをつぶやいた。

 それは、聞いたこともない古い言葉。

 言葉を理解できなくても、それが憎しみであることはバットにも分かる。

 少年は名残惜しげにリンとバットを睨みつけていたが、やがて音もなく鏡に吸われた。そのあとに残るのは、大きな鏡にうつるバットと、そんなバットを抱きしめたまま離さないリンの姿だけである。

「……バット?」

「大丈夫?」

 クロウは、震えるリンの頭をそっと撫でる。先ほどリンの背より現れた二本の腕はもう気配もない。

(……出てくればいいのに、恥ずかしがり屋なのか僕に花を持たせるつもりか……)

 ブッディ。とバットは心の中で名を呼ぶ。

 かつて、凍てつく洞窟の奥深く。死にたくないと叫んだバットを助けたのもあの腕であった。

 恩人であり師であり父であるその男は、感情を露わにしない。しかし先ほどの腕には、確かな殺意があった。

 それはあの少年が見せた恐ろしさより、なお深くバットの心を震えさせる。

「バット……?」

「……行ったよ」 

 ようよう顔をあげたリンは、少しばかり顔色が悪い。あんなに堂々と飴を与えておきながら。と、バットは苦笑した。

 リンはいつだって思い切りだけはいい。

「何だったのかしら」

「さあね。ただの意地悪な子供だろ。ああいうのがいるから、町はいやなんだ」

 本当にただの子供だろうか。と、バットは自身に問いかける。

 一瞬触れた少年の腕は、ひどく冷たかったのだ。人間の体の温度ではない。自分たちと同じ温度だ。

(でも、不死の生き物なんて僕等以外、いるはずもないのに)

 この世界で不死を与えられるのは吸血鬼のみ。その吸血鬼は、ブッディが最後だ。だから他に、不死のものなど存在しない。

 だというのに、少年の体に鼓動はなかった。熱もなかった。まるで石のような冷たさだった。

 嫌な予感はバットの背をぞっと震わせる。が、敢えて彼はそれを押し隠した。

 ブッディが姿を見せなかったのは、この少年の正体をリンに気付かれたくなかった。ということだろう。 

(……僕はブッディには恩があるからね)

 ブッディが隠すというのであれば、バットもそれに従うばかりだ。

 リンに気付かれてはならない。リンは勘がいいのだ。

「ただの悪戯小僧だよ。金でもちょろまかすつもりだったんだろ。気にしなくて良いさ、リン」

 立ち上がり、落ちた帽子とマフラーをリンの体に付ける。改めて周囲をみれば、そこは埃まみれである。外に飛び出せば、そこに店員の姿はない。テントも朽ちかけて崩れかけている。すでに廃業したテントだ。 

 そんなテントから飛び出した二人をみて、周囲の人間がぎょっと目を丸める。

 二人とも、すっかり埃まみれなのである。

 外は中よりもずっと暖かい。光と音とにおいのシャワーが心地よく体に染み渡る。

「それより……なんで……僕のこと、迷わず分かったの?」

「分からないなんて、そんなことある?」

 リンは無邪気に笑って、ポケットから飴を一粒取り出した。

「はい。まだ食べてないでしょ」

「……リンのことなんて、大嫌いだ」

「ありがとう」

 口の中に広がるどろりと甘いその味は、バットの心の奥にある重苦しさを一緒に押し流して消えた。

「じゃ。助けてもらったお礼に、正直アイスを食べに行きましょう」

 バットの顔から緊張が解けたと分かるや、リンはパッと顔を輝かせる。

 あれほど恐ろしい目にあっても、この人間は懲りないのだ。帰ろう。と急かすバットのことなど気にもせず、混み合う道をどんどん奥へと進んでいく。

「礼なんてされる理由がないよ」

「追い払ってくれたじゃない?」

 何も気付いていない彼女は、そういってからからと笑う。

「バットが助けてくれたもの」

「……はいはい」

 目の前には人の集った巨大なテントがある。真っ白なテントは天から落ちた涙のような形で、それには緑色の蔦が巻き付いていた。赤や紫の花が蔦の合間に咲いている。

 触れるとそれは上質の毛糸のように柔らかい。テントの素材もふかふかと毛布のようで、中に一歩入ると冷えた頬が一瞬であたたまった。

「あったかい!」

 真ん中には巨大な暖炉に火が入り、上に乗せられた銅鍋がぐらぐらと湯気を上げている。

「ここが正直アイスのお店ね」

 小さな椅子や机に思い思いに集まった人々は、すっかり冬装備を解いて目の前のアイスに夢中になっていた。

 リンと二人、開いた椅子に腰掛ければすぐさま大きな皿に盛られた白いアイスクリームが手元に届く。

「嘘はここまで。さあどうぞ、初雪はお早めに。ここは春と夏の世界ですので」

 緑の蔦を巻き付けた店員がにこやかに笑って去って行く。

 二人の目の前にある皿は、一抱えもあるだろうか。そこに惜しげも無く白いアイスが山盛りとなっているのだ。ただ白いだけ。飾りもなにもない。ただ、艶やかに美しい。

 この熱に蕩けないうちにスプーンをアイスに差し込むと、柔らかく崩れた。ふわふわの柔らかな冷たさが喉の奥に滑り落ちる。優しい甘さに緊張が一気に溶けた。

「……暖かい部屋で食べる冷たいものって、最高」

 リンが蕩けるような笑顔でスプーンを握りこんだ。バットも思わず至福の息を飲み込む。

 雪に溶けた花の蜜はさらりとした優しい甘さ。口に入れるだけで溶けてしまう儚い冷たさと、喉を通る爽やかさ。

「美味しくない? バット」

「……まあまあじゃないの?」

「感動を隠すものじゃないわ」

 ひねた答えに苦笑を返し、リンは温かい手でバットの頭を撫でた。

 部屋の湿度のせいで、バットの顔も頭もくらくらと熱い。

「……美味しい」

 だから、ついつい本音が漏れてしまう。

 どんどんと溶けて行くアイスを、二人で必死にすくい上げる。

 蕩けてスープのようになれば、それはそれで優しい甘さとなるのである。

 あと一口を残すばかりとなった時、バットはちらりとリンを見上げた。

「……こんなに温まってすぐに外へ出ると風邪引いちゃうから、もう一杯だけお代わりしようか、リン」

「そうしましょ」

 二人は悪巧みをするように笑って、店員に向かって大きく腕をふる。

「みんなには内緒ね」

「当然」

 運ばれてくる真っ白な初雪は、もうバットの心を傷付けない。

 飲み込んだアイスの向こうに、冬の風景が見える。森の奥の雪に閉ざされた小さな家。

 これから半年以上、冬に閉じ込められる。それは不思議なくらい幸せな、幸福に満ちた未来である。

「また、来年も連れてきてあげてもいいよ、リン」

 拗ねたような口調で呟くバットを見て、リンが花開くように微笑んだ。

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