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秘密の黄金きのこグラタン

 その朝、ようやく雨が上がった。

 雨の降る日が段々と少なくなるのは、秋が終わって冬が近づく合図だ。けして喜ばしいことではないのだけれど、久々に雨音に悩まされることなく目覚めたリンは爽やかな伸びをした……が、台所を覗いて眉を寄せる。

 最近、保存瓶に詰めたお菓子の減りが激しいのだった。

「……また、無い」

 今朝もまた、大きな瓶に詰めておいたはずの蜜あめ玉がごっそりと減っている。残り少ない花の蜜を丁寧に絞って練って丸めた渾身のあめ玉だ。

 黙って持って行かなくても、子供たちには今日のおやつで配るつもりだったのに。


「……ねえ、リン」


 リンの足下から遠慮がちな声が聞こえてきたのは、リンが腕を組み頬を膨らませた瞬間のこと。

 下を覗けば、台所の机の下。黒い髪が揺れている。耳のあたりで綺麗に切り揃えられた濡れたような黒い髪。きっちり襟まで詰まった真っ白なシャツ、ほか二人よりいくぶんか小さいその体。 

 机のカバー下に隠れていた彼は、潤んだ瞳でリンを見上げる。

 リンが眉を寄せる様が怖かったのか、一瞬頭を引っ込ませ再びおそるおそる顔を出した。

「リン、おはよう……いま、いい?」

 その顔を見て、リンは思わず吹き出した。先ほどまでの一瞬の怒りは、その顔をみてとろける。

 三人の子供のうち、この子だけは一番遠慮しいで、そして一番甘えん坊だ。

 いつかの自分もそうだった。それを思い出すせいか、リンはこの目に見つめられるとつい、口元がゆるんでしまう。

「なあに、クロウ、かくれんぼ?」

 リンは膝を折り、テーブルクロスの下に潜り込む。そこは意外にも温かい。昨日食べた晩ご飯の残り香が丸ごと閉じこめられているようだ。

 リンは座り込むクロウの腕を引き、その冷たい頬にそっと顔を寄せる。

「……つかまえた」

 子供たちがリンに話しかけてくることはさして珍しいことではない。しかしクロウがたった一人で話しかけてくるのは、ちょっと珍しい。

 元の姿に戻り羽根を広げれば、ほかの二人より彼は大きい。それでも、クロウは誰よりも気が弱いのだ。

「どうしたの、いつもは一番ねぼすけなのに、今朝は早いのね」

「……うん」

 テーブルクロスの端をつかんだまま、クロウは言いにくそうに口をもごもご動かした。

「……リン。秘密を守れる?」

 秘密、という響きはどこか甘美だ。人の心に小さなさざ波をたてる。リンの頭から眠気が吹き飛んだ。

「秘密?」

「みんなには内緒で助けてほしいことがあるの」

「クロウ、お菓子を隠れて食べたこと?」

「ち、ちがうよ。僕じゃないよ、キャッツだよ」

 彼は素早くテーブルの下から飛び出すと、リンの手をつかむ。

「違うの。リン、こっち」

 そして、まるで羽根でも生えたように、彼はリンを掴んだまま素早く飛び出した。

 そうだ、彼はカラスの子である。捕まれた手は意外に強く、足はバネのように動く。リンはついていくだけでも必死だ。ストールが地面に落ちたのを拾う暇さえ与えず、クロウはリンをあっという間に森の真ん中まで運んだ。


「……まあ」


 リンは息を切らし、顔をあげる。今朝まで降っていた雨の名残が、葉の隙間から滑り落ちて顔をぬらす。早朝の青の風を吸い込んだ爽やかな滴だ。

「いい天気、少し寒くて、空気がきれい」

 生き返ったようにリンは深い息を吐く。冷たい空気は吸い込むと肺まで冷える。ゆっくり吐き出せば白い息が目前にあふれた。

 雨上がりの森はたまらなく魅力的だ。大地から吹き上がる朝露を含んだ靄のおかげで空気は青い。地面の草には雨滴。儚い霜となり、淡い光を浴びて美しく輝くのだ。

「森じゃないんだよ、リン。こっち、こっち」

「どうしたのクロウ……」

「……あそこ、みて。みえる?」

 クロウが小さな指を差し向けているのは、巨大な切り株である。

 それは大人が数人輪になって、囲んでもまだ足りない。背丈はリンの三倍はあるだろう。ごつごつと荒れた木肌を持ち、すっかり枯れた切り株に見える。

 切り株の周りにはほかの木は生えていない。ただ朦々とした下草が切り株を守るように生えている。そこだけが妙に湿地のような湿り気を帯びていた。

 リンは目を丸めて、切り株に近づく。すぐそばから見上げて、しみじみとため息をついた。

「まあ、なんて大きなタテの寝床」

 これは木ではない。巨大なキノコの苗床なのだ。

 この森には不思議な生き物がたんといる。キノコだって例外ではない。この種のキノコは、大地を這って獲物をねらう。大きく成長した木をねらいを定めると、彼らは根から滑り込みじょじょに木を乗っ取るのだ。

 彼らの菌糸は木肌を腐らせ葉を散らせ、邪魔な枝をすべて落とす。太陽光の当たる上部を腐らせ、じっくりと木の成分を食い尽くす。

 数百年という気が遠くなりそうな期間を経て、それは切り株の形をした巨大なキノコとなる。

 周囲の木は浸食をおそれてタテの周囲には根をはらない。その結果、雑草が密集し、タテの周りだけ湿地のようになる。

 タテの表面は木肌のように固いが、皮をめくると中に雪のように白い実が詰まっていた。

 そして、それは非常に美味なのだ。

「これほど大きな寝床なら、たくさんキノコがとれるわ。今日はキノコ料理でいい?」

 そして、こんなに大物には滅多に出会えない。せいぜい大きくてもリンの背丈ほどだというのに、このタテはなんと大きい。

 大きなキノコはおいしくないと言われるが、このタテだけは別だ。大きければ大きいほど、甘くなる。

 おいしそうだな。とリンは素直に思う。それともここまで大きく育ったタテは、おいしくなくなるのだろうか?

「リン、違うよ。そうじゃないの。上みて、もっと上だよ」

 よだれでも垂らさんばかりのリンを見て、あわててクロウが腕を引く。

「この上に、黒ツグミの雛が……落ちたんだ。巣立ったのに、雨に打たれて、この上に……この上に、小さな穴があって、その中に落ちて、動けなくなって」

 クロウの声が泣きそうに震える。耳を澄ませてみれば、確かに小鳥の悲鳴に似たさえずりが聞こえた。

 その瞬間、リンの食欲はあっという間に消滅する。

「……大変」

 息を止めて耳をすませる。声は、かすれた声は、雨上がりの森に必死に響いていた。

「もう、巣立たないと冬は越せない」

「もう、霜がおりるような季節よ」

 黒ツグミは、この森の夏の象徴だ。彼らは冬になる前に、どこか温かい世界に向かって飛んでいく。つい一週間ほど前だろうか、雨のカーテンを突き破って飛んでいく黒ツグミの集団をリンはみた。

 もうこの森には黒ツグミは一匹も残っていない。そう思っていたのに。

「僕のせいなんだ」

 はらりとクロウの目から涙がこぼれ落ちた。

 黒く大きな目が潤み、大粒の涙がこぼれる様子は、まるで花から朝露が落ちるようだ。瞳の色を写した涙がひとつふたつと大地に落ちる。

「……クロウには、秘密があるのね」

「ずっと昔、僕はここで生まれたの。タテに寄生される前の……これが、まだ大きな木だった頃だけど」

 クロウは冷たい地べたに座り込み、膝をかかえた。膝の隙間に顔を押し込み、両手を強く結ぶ。小さな指先が震えていた。

「生まれたときのことは、あんまり覚えてないの。ずっと昔のことだし……でも、兄弟がいて、みんな巣立っていった、僕だけ残して」

 まだ雛だったクロウは巣立ちに失敗した。

「木の枝に大きな穴があってね、勇気を振り絞って飛んだら、そこに落ちたの。たった一人で」

 そこで彼は口を閉ざす。顔色が悪い。リンはその頭をそっとなでた。

 きっと、彼はそこで仲間においていかれたのだ……そして、死にかけた。こんな冷える、森の中で。

「結局僕はブッディに助けられたけど」 

 リンはクロウの隣に腰を落として、その小さな体に身を寄せる。足下から、霜の冷たさが広がった。

 クロウの体はこの霜より冷たい。彼はブッディに救われたのだ。それは不死を意味する。きっと、ブッディに血を取られた。おそらく、そうするしか彼を生き返らせる方法がなかったのだろう。

 クロウの小さな手がタテの寝床をなでた。

「この木のことはずっと忘れられなくって、秋になるたびのぞきにきたんだよ。タテに浸食されても、僕の落ちた穴は、ずっとそこにあった。絶対、埋まらないんだよ。だって……」

 クロウの言葉は歯切れが悪い。

「僕が、その穴が埋まらないように、掘って」

 雨の残り滴が、二人の上に降り注いだ。

「……リン、僕ね、僕は……あの穴が埋まらないように、ずっと掘り続けてたんだ」

 それは血を振り絞るような声だった。

 自分の命を奪いかけたこの穴を彼は許さなかった。そして、同じ目に、誰かが遭えばいい。そんなどろりとした暗さを彼は抱いてしまった。

 この気弱な少年は、胸の奥にこんな苦みを抱えて生きてきた。

「でも、みんなに会って、リンに会って、こんなんじゃだめだって思ったから、だから、僕は……毎日は無理だけど……今度はできるだけ、穴を埋めたんだ。空から、木の枝とか、石を落としてね、もう、何年も何十年も」

 この泣き虫で気の弱い少年が、気が遠くなるほど長い時間、抱いていた苦しみをリンは知った。

「あとすこしで、埋まるはずだったんだ」

 きっとそれはブッディやほかの子たちも知らないことだろう。

「でも……でも、あと少しなのに……あの子はひっかかった」

 葉の間から日が射し込んだ。しかし、ちょうど切り株の場所は木の影になる。葉から漏れる淡い光しか差し込まない。強く暖かい日差しは届かない。

 上から聞こえる鳥の声はどんどんと弱くなるようだ。震えるように兄弟を、親を、仲間を呼ぶ声が響く。

「毎日、僕は鳥の姿で餌を運んでる。雨が当たらないように、布も運んだし、温かい草も運んだ……でも僕の体じゃ、それが限界で……でも、人の姿じゃ、僕は、この壁を」

 クロウは切り株をきつく、殴る。小さな手が痛々しいほど赤く染まっていた。いくつもの切り傷の跡がみえた。きっと、幾度もこの木肌を越えようとして、失敗したのだろう。

「越えられないんだ。リン、僕は高いところが苦手なんだ……鳥のくせに」

 切り株はいまや、小さな山のようだ。崖のようにぴんと切り立ってそこにある。

 隆起はあるものの、上まで行くのは一苦労だろ。特にこの小さな少年には、とうてい無理だ。

 震えたクロウの体をリンは優しく抱きしめる。包んだ手の内側から、聞こえないはずの鼓動が聞こえた。それは、クロウの嗚咽だった。

「立派よ」

 リンは立ち上がり、スカートをきゅっと縛ってみせた。すっかり老いた足だが、まだまだ力強い。

「大丈夫、私がいくわ……昔から、木登りも山登りも得意だったこと、クロウなら知ってるでしょう?」

 まだリンが幼かった頃、子供たちと4人でよく森を舞台に遊び回った。リンは少女だったが、山登りだって木登りだって、三人にはけしてひけをとらなかったのだ。

 よく泥まみれになって、ブッディに叱られた。そんな懐かしい思い出も、数十年昔の話。

 でもまだ、上るコツだけは覚えているはずだ。


 そんな根拠のない自信は、まもなく頂上という瞬間に覆された。


「……あっ」

 菌に包まれたこの切り株は、木と違って滑りやすい。まもなくで頂上という気のゆるみが手を滑らせた。

 ふんばった足が滑り、あわてて近場をつかもうとした指が滑る。小さな悲鳴は、固い腕に抱き留められた。

「リン!」

 それは、熱の通った、温かい手!

「……誰?」

 おそるおそると目を開ければ、タテの寝床の上に、一人の人間がいた。頂上から突き出された大きな手は、リンの腕をしっかとつかんでいる。なれた様子で背中から抱えるようにつかみ、落ちかけたリンの体を支える。

 ゆっくりと淡い光が天からさしこむ。それは霧のような青い光だ。その光が、一人の顔をくっきりと浮かび上がらせた時、リンはうれしい悲鳴を上げた。

「ウルマ!」

 それは、巨躯を持つ一人の女性。毛皮のコートに革のズボン、そしてブーツ。背はリンよりもずっと高く、肩幅だってすばらしい。

 顔こそすっかり皺に覆われているが、精悍に角張った額は年齢を感じさせなかった。

 短く借り上げた銀色の髪を紫のバンダナできつく結び、背には弓、腰にはナイフ。そして様々なものが詰められた、不思議な腰の鞄。その腰の後ろから、巨大な羽根が広がる。

 ウルマの腰ごしにひょいっと顔を覗かせたのは、大きなくちばしを持つ鷹である。黄色の瞳をめいっぱい広げたその鷹は、リンを見上げてうれしそうにくるくると鳴いた。

「キタカも! まあ、元気そう!」

「口を開けるな、舌を噛むぞ」

 ウルマは太い唇に苦笑を浮かべて、リンの背をつかむなり寝床の上へと引き上げる……足が柔らかい寝床を踏んだ。

 その柔らかさに思わずたたらを踏めば、ウルマの腕がリンを支える。大きな手のひらだ。関節がしっかりっとしている。よく日に焼け、古傷も多い。生きている手のひらだ。

「怪我はないか」

「ええ、ウルマは?」

 切り株然とした見た目に反して、上部は柔らかな産毛に覆われている……菌糸だ。と、リンは気が付く。なるほど、タテはキノコなのである。

「すごい、金色……中は白いのに、菌糸は金色なのね」

「熟した内側は白いが、新しい菌糸は黄色に近い。特にこの季節は、黄金色に輝くんだ。もちろん、人が目にする機会は滅多に無いだろうけどな」

 金色の光を放って、産毛がゆれる。きいきいと小さな音が響くのは、キノコの菌糸がふれあって起こる音だ。

 外からではわからない。巨大キノコの上部は、まるで高級なベッドのようだった。

 上から降り落ちる淡い光と、青い靄が菌糸の舞う様を浮かび上がらせる。リンの足まで、金色に染まった。

「リン……」

 ウルマは体を折り曲げて、リンの肩にそっと額を押しつけた。

 それが彼女の礼の仕方である。懐かしさに、リンの喉が鳴る。

「久しいな」

「……ウルマ」

 煮染めたバンダナの冷たさに触れて、リンは子供のようにその体に抱きつく。

 懐かしい、草の香りがする。ウルマの体からはいつも、土と獣と草の香りがした。

「ウルマ、ウルマ! もう、十年ぶりかしら、お互いすっかり年を取ってしまったわね」

 ウルマは、森の外で暮らす狩人である。

 森の外の世界をリンはあまり知らない。森の外に大きな町があるが、そのはずれに彼女の家はある。古く伝統のある狩人の家だ。

「そうさ。出会ったのはうんと小さな頃だからな。あのころから比べると二人ともすっかり老けた」

 それはまだ幼い頃。森の奥でブッディらと暮らしはじめてまもなく、リンはウルマと出会った。

 厳しい師匠の元で狩りの練習をするウルマは毎日血塗れだったし、けがばかりしていた。

 はじめてウルマをみたリンは彼女を怖がり、彼女はリンは軟弱ものと罵ったものである。

 しかし、そうやって避け合っていたのは最初の数日。やがて年の近い二人は一息に仲良くなり、リンは彼女から様々なことを学んだ。

 ウルマになら、どんなことでも相談できたし、聞くことができた。

 ……もちろん、ブッディと三人の子供たちのことは秘密だったが、今も、昔も。

「このバンダナをまだつけているのね。懐かしい、どれもこれも、懐かしい」

 リンは懐かしいウルマの顔に、手を置いた。ウルマの顔にはいくつもの皺が刻まれていた。それはリンだって同じだ。彼女とリンは、さほど年齢が変わらない。彼女もリンと同じく、年齢という概念に縛られた存在だ。

 血の通った暖かさの代償に、人間は年を取る。

「リンの声は、相変わらず明るい。懐かしいな、年を取っても、ちっとも変わらないその声は」

 少女から女へ成長した彼女は、弓矢をとって狩人になった。同じように年を取ったリンは相変わらず森の奥で料理ばかり作っている。

「ウルマの目は、まだよくならない?」

 その皺の刻まれた目は、先ほどからぴくりとも動かない。リンを助ける時から、一度も開かれていない。きっと美しい瞳なのだろう。しかしリンはいまだかつて一度も、この目が開いた様を見たことがない。

 ウルマは笑って、リンの手をなでる。

「これは一生だ。仕方がない。でも目の代わりに鼻もきくし耳もいい。目のことはこうして、キタカが代わりにしてくれる。おまえを助けることだってできるだろ?……ところで、リンこそこの森にまだ住んでいるとは驚きだ、リン。黒の彼、はまだ一緒にいるのか?」 

 意地悪をいうように、ウルマはリンをつつく。 

「子供の頃からずっとずっと、もう何十年も聞かされた思いが成就したかどうか、俺は遠くの町にいてもずっとそれが気になって」

「ま、まって、まって。違うの、やだ、こんないい年になってそんな」

 ブッディのことは秘密だ。しかしその思いまでは秘密にはできなかった。

 この森の奥に住む変わり者の男の元に、養子に出された少女。ウルマに語ったリンの人生は、そんな平坦なものである。

 育ててくれるお礼に、毎日の食事と掃除を。少女は大人になる前より、養い主を思っている……。

「その調子じゃ、まだ駄目みたいだな。早く伝えないと、思いが通じる前に死んでしまうぞ」

 リンは首まで赤く染めてウルマの口を押さえる。下にはクロウがいるのだ。

「で、でも、よく私がここで足を滑らせるってわかったわね」

「ああ……それは、キタカに感謝しろ。この森に入ったとたん、突然まっすぐにこっちに向かって来たんだ」

 キタカが誇らしげに胸を張った。指を差し出すと、その小さな額をリンの指に押し当ててくるくると鳴く。

 小さく固く、暖かな羽毛が指に絡んだ。

「音で、誰かがタテを上ってるのが聞こえた。まさかおまえとは思わないが、キタカがせかすのでな。先に上って息づかいを聞いた。すぐにわかったよ、リンは緊張すると唇をかみしめる癖がある。その間だけ、息が変わる」

「すごい」

「小さな頃から、リンの声と息ばかり聞いていたからな。ところで、なぜここに? キノコ狩りか?」

 ウルマの一言で、リンはいま自分がここにいる理由を思い出した。懐かしさに浸っている場合ではないのだ。

 声は、まだ聞こえるか。耳を澄ます、目を閉じる。菌糸のたてる音の向こうに、小さな声が聞こえた。

「ちがうの、あそこに、おいていかれた黒ツグミの……」

「ああ。声が聞こえていたな……待っていろ。キタカは、リンのそばに」

 キタカはおとなしく主から離れて、リンの肩に止まる。

 そして彼はリンの髪に頭を押しつけた。

 キタカは懐かしげに、リンの香りを嗅いだ。

 勘のいい彼だけは、リンが不思議なものたちと暮らしていることを、とうの昔に知っているはずだ。しかし優しい彼は、ウルマにはけして告げ口をしない。

「この鳥だな。長くここにいたようだ……ん、木の実か? このあたりには実らない木の実があちこちに、落ちてる……布もあるな。不思議なことだ」

 ウルマは不思議そうに、つぶやく。感触だけでそれが何かがわかるのだろう。

「ああ、羽根が凍ってるせいで飛べないのか。幸い、まだ弱ってないようだが」

 ウルマはすぐに戻ってきた。狩人として毎日獣を追いかけている彼女にとって、小さな鳥を見つけるくらいお手の物だ。

 彼女の手は獣を狩り、皮もはぐ。肉もとる。しかしその手で小さな雛をそっと抱くこともする。

 ウルマの大きな手のひらが布を包んでいた。その中に、小さな雛の顔が見える。

「怪我を?」

「なでてはだめだ」

 リンが触れようとすると、彼女は雛をそっと隠した。

「人の匂いがつくと、この手の生き物は仲間からはずされる。掟だ。理不尽と思うかもしれないが」

「……いいえ」

 ウルマの口から漏れた理不尽、という言葉にリンは胸の奥が苦しくなる。

 幼い頃、ウルマはリンを理不尽だといってなじったことがある。

 同じくらいの年頃の女の子。なのにリンはウルマと違ってスカートをはける。獣を追わなくていい。手を血に染めることも、獣の命をその手で奪うことも、しなくていい。理不尽だ。

 幼いリンは、その言葉になんといって返したのか。もう覚えてはいないけれど。

 思えばあの時、はじめてウルマの心にふれた。

「私の知らない世界はたくさんあって、そこにはきっと生きていくための掟があるって、やっとこの年になってわかったわ」

「リンは強くなった」

「ウルマは、なんだか優しくなったみたい」

 ウルマは雛を布で優しく包むとキタカの首にくくりつける。背負った弓を前に抱え直すと、代わりにリンを軽々と背負った。

「まずはここから降りよう……最近は人助けをしていたからな。遠くの町に、巨大なイノシシがでてね。ああ、飛ぶぞ。口は閉じて」

 彼女はリンを背負ったまま、軽々と苗木から飛び降りる。ぽん、と菌糸が宙をはねる。数メートル、一瞬だ。緑の木々と、茶色の木肌が目の前を通り過ぎる。

 ウルマはなんてこともないように大地にふわりと降り立つと、リンをそっとおろした。

 衝撃など、ひとつもない。その大きな体からは想像も付かない、軽やかさだ。

「すごい」

「狩人の一族はもうこの世界でも残り少なくなってしまった。もう、私とあと数名の年寄りが残るばかりだ。おかげで、この老体でも役に立つらしい」

 彼女は軽く伸びをして、弓を背負い直す。そしてキタカから、雛をそっとおろすとリンの手に渡した。

「温かくして水をあたえて、羽根の水を乾かしてやれば夕方にでも飛べる。もし元気になったのなら、一刻も早く飛ばすほうがいい。いまなら、まだ仲間に追いつけるはずだ。明日はまだ暖かそうだ、この気候ならまだこの雛でも弱らない」

「ありがとう」

 タテの寝床の下にいたはずのクロウは、今はもう姿がない。どこか、木の枝の隅っこで震えているのかもしれない。昔からクロウはウルマとキタカを怖がっていた。

「ところでウルマは、仕事が終わって戻ってきた? それならまた前みたいに……」

「いや」

 ウルマの声が、低く響いた。

「吸血鬼がでたと、噂に聞いた。それで俺は、戻ってきたんだ」

 ウルマの足が、大地の霜を踏み抜いた。

 かしゃん、と何かが壊れる音がする。

「すまん、リン。怖がらせるつもりはないんだ。しかし、この森で吸血鬼をみたという人間が複数人いる。もしかすると、俺の宿敵かもしれない」

 冷たい風が二人の顔を、ひやす。冬に向かう風だ。暖かくなるとウルマは言った。しかし風はこんなにも冷たい。

「覚えているだろう、リン。狩人とは古来、吸血鬼を狩るものだ。そして俺の仇敵だ。この……この目を奪った」

 ウルマの声は獣のようだ。穏やかだった顔に、血が走る。憎しみが、彼女の顔をゆがめた。

 ……まだリンと出会う前、彼女は吸血鬼におそわれて家族を殺された。自身も殺されかけたところを、通りすがりの狩人に救われたという。

 目を爪でえぐられたウルマは半年、寝付いたのだという。目が覚めれば家族はみな、死んでいた。

 名家と呼ばれた狩人の一家はウルマを残して全員死んだのだ。目の見えないウルマを残して……いや、キタカの母鷹だけは生き残った。一人と一匹。それだけだ。

 狩人とはもともと、吸血鬼を狩るために生まれた一族。しかしウルマが生まれるずっと前に吸血鬼は姿を見せなくなっていた。

 狩るものを失った狩人はただの狩人となった。しかし吸血鬼はまだ、いたのだ。ウルマの両親の死によって、その事実が明るみにでた。

 そこから彼女は、真の狩人として厳しく育てられた。そんな頃、彼女とリンは出会ったのである。

「だから俺は仕事を切り上げて戻ってきた……といっても、本格的な探索をするほどの時間はない。とりあえずは偵察だ。明日には一度、町の外へでなくてはいけないが……」

 彼女は悔しそうにつぶやいて、懐をつかむ。その中に、石のナイフがあることを、リンは知っている。それは不死の吸血鬼を殺すことのできる唯一の武器だという。

「一ヶ月もすれば、この森に戻るつもりだ。もちろん……狩りのために」

 彼女は狩人からナイフを与えられ、幼い頃から肌身離さず持っている。

 その手つきをみるたびにリンはぞっと震えてしまうのだ。

 ブッディを殺す武器が、目の前にある。

「リン。一つ頼みがある。いや、きっとリンは断るだろうが」

 ウルマはリンの肩をつかんだ。

「俺とともに、森をでて町に暮らす気はないか。森は危険だ。吸血鬼だけじゃない、獰猛な獅子がでたという噂もあるし、化けガラスや、吸血コウモリの噂も……」

 彼女の必死な声には、リンを案ずる優しい響きしかない。そうだ、昔からウルマはリンのことをまるで妹のようにかわいがってくれた。

 だからこそ、リンの秘密はけして漏らしてはならない。

 けして、気づかれてはならない。

「……平気よ」

「おまえの保護者という男も、いいかげんいい年だろう。一緒に暮らそう……」

「も……もし」

 リンは震える声を必死に押さえた。勘のいい彼女には、震え声一つ隠せないのだ。

「吸血鬼が、犯人ではなかったら? だって吸血鬼なんて、ずっと誰も見ていなかったのだし……吸血鬼が悪いって、書いてあるのは古い本ばかりだし」

「リンは昔から、そういっていたな」

 ウルマは聞き分けのない子を諭すようにいう。

「しかし、俺の目が、証拠だ。吸血鬼に傷つけられた傷は、直らない。絶対に」

「で、でも吸血鬼がいたとして、彼らは彼らの掟の中で暮らしているのだとすれば……」

「それでも俺は」

 彼女の手が、懐をまた、強くつかんだ。

「両親を殺し俺の目を奪った吸血鬼を、けして、けして許せない」

 ぴい、とリンの懐から愛らしい声が響く。は、と見れば黒ツグミの雛がリンの暖かさに包まれて寝ぼけたようだ。

 それに毒気を抜かれたか、ウルマは笑って、リンに手を差し出した。

「リン。これをやる」

 その手には、拳代の金色に輝くキノコが乗せられてた。

 タテの実だ。

 ふわりと独特の優しい香りが鼻に広がる。タテは切り取ると、とたんに香りがたつのだ。実も柔らかくかみしめるとトロリと溶ける。特にこんな、朝露のついたキノコなら絶品のはず。

「タテ! なんて綺麗な、金色」

「頂上のとりたてのタテは、旨い。この雛を取り出す時に邪魔な実を切り取ったんだ。ああ、あと乾燥肉も持って行け。一緒にスープにすると、味がよくなる」

 彼女の腰の鞄から茶色のかたまりが取り出された。それは、イノシシの肉を乾かしたもの。ウルマの乾燥肉はスパイスが刷り込まれ、ちっとも臭くない。リンの大好物だった。

 鼻を近づけ、思い切り吸い込む。それは懐かしい香りがする。

「ウルマお手製の乾燥肉、久しぶり」

「昔に比べると柔らかめだ。年を取ると固いものが苦手になるからな。だから早く食べちまってくれ」

 じゃあな。と、ウルマは軽く手を挙げる。

「また、森の近くにきたらキタカを飛ばす。今度は、一緒に飯を食おう。久しぶりにリンの飯が食いたい」

 彼女のさようならはいつも早い。現れた時と同じくらい唐突に、彼女は姿を消した。森の中の狩人を目で追うことは不可能に近い。彼らの動きは時に獣を越えるのだ。

 ただ、キタカの声だけが、名残のように響いている。

「……僕、あの人嫌い」

「好きになれとは言わないわ」

 気が付けば、クロウの姿がリンのそばにあった。どこかに隠れていたのだろう。鳴きそうな目で、ウルマの消えた先をにらむ。

 リンはたまらなくなり、クロウの頭をそっと抱き抱えた。

「でも、この子を救ってくれたことだけはおぼえていて」

 ぴいぴいと、懐の中で雛が鳴く。小さな翼をはためかせて、鳴く。

 クロウはうなだれるように小さく頷いた。

 日差しはまもなく天井。朝は、そろそろ終わろうとしていた。



「森の中で落っこちてた黒ツグミに仲間意識が芽生えるなんて、クロウはやっぱり子供だよ」

 あめ玉を3つ頬張りながらバットが冷笑する。

 朝からリンとクロウがこっそり秘密の散歩に出たことは、たっぷりのあめ玉で手を打つ。 

 と、バットとキャッツがそういったのである。おかげで小さな二人の口は、丸く大きく膨らんでいる。

 早く目覚めたリンとクロウはそろって散歩に出かけた。そこで、落ちていた黒ツグミを助けた……それが、キャッツたちに語った内容だ。本当のことは、リンとクロウの秘密である。

 雛は、台所の暖かい湯気で暖めて布でくるみ、湯でふやかした麦を与えるととたんに元気になった。

 クロウの手の上で、楽しげに歌をうたう。雛に顔をくっつけたクロウも、いつもより力強く笑っている。

「ところで、クロウはカラスじゃなくって、黒ツグミだったのね」

 夕ご飯の支度を整えながらリンはクロウをみた。

「名前」

「いいんだ。僕、クロウって名前大好きだから」

 はじめで三人の子供と出会ったとき、彼らにまだ名前はなかった。

 それでは不便なのでリンが名を与えたのだ。目の前で変化したこの子は、どうみてもカラスにしか見えなかった。

 数十年前の勘違いを謝ったが、クロウは気にもせず明るく笑う。

 こんなに明るく笑うクロウをみるのは久々だ。仲間がいると、こんなにも力強くなる。

「ねえ、クロウは一緒に……飛んでいきたい?」

「僕の家はここだよ、リン」

 僕も、とキャッツが明るく笑って手を差し出す。バットはニヒルに笑って同じく手を差し出す。

 これで終わり。と言い聞かせ、リンはその手のひらに紫のあめ玉を乗せてやる。

 綺麗な花の、名残のあめ玉だ。

 しかしそんなあめ玉に見向きもせずにクロウは雛に額をすり寄せる。

「この子は、いまからこの森を越えて冬を越すんだよリン」

 雛はすっかり元気に羽ばたいている。羽根もしっかり力強い。

 これならば、飛べる。

 だからもう、今からお別れだ。とクロウは平然という。

「……」

 リンにはわからない、きっとほかの子らにもわからない言葉でクロウは雛に話しかける。雛も鳴いてその声に応える。雛とクロウは見つめ合い、笑いあう。

 そして、ついに彼は外に飛び出すとひなを布ごと、宙に投げた。

 日がゆっくりと暮れていく森の空に、黒い影がふっとあがる。それは一瞬よろめくが、やがてしっかりと羽根をうごかした。

 クロウの上をくるりと飛ぶと、黒ツグミはまっすぐに森の中を駆けていく。

 それを見送ろうというのか、クロウがかけた。つられて、キャッツも遅れてバットも、三人ともが薄着のままで森の中に駆けだしていく。

 数十年前ならリンもそれに混じっただろう。しかし今はそれを見送る立場になってしまった。

 リンは腰に手をおき、大きく手を振る。

「晩ご飯までには帰ってね」

「晩ご飯、なぁに」

「グラタン!」

 やったあと叫んだのはどの子か。小さな影が森に消えていくのを見送って、リンは再び台所にたつ。

 まずはまな板にタテの実と猪肉。その隣に芋とにんじん、そしてたっぷりのミルクを用意した。あとは小さなスパイスの瓶をいくつか。

「あ。これも」

 一番大事なものを忘れていた。それは牛のミルクから作られたチーズだ。

 もちろん、こちらの世界ではチーズとはいわないが。どの世界似も似た食べ物があるのだ、と幼い頃のリンはそれが不思議だった。

 チーズだけではない。バターも、油も砂糖も塩もある。それ以外の不思議な食べものはもっとたくさんあるが。

「あとは、鍋ね」 

 そして大きな陶器の鍋を取り出す。その重さによろめくと、後ろから冷たい手がリンを支えた。

 きょうは、支えられてばかりいる。

「……ブッディ」

 リンの頭が、固く冷たい体に触れる。顔を上げれば、ブッディがそこにいた。先ほどまではどこにいたものやら。

 家にいることもあれば、部屋の奥で読書に熱中していることもある。森を散策していることもあるようだ。ブッディの生活は、リンにはよくわからない。きっと彼にも多くの秘密があるのだろう。

 しかし必ず、この家に帰ってくる。それだけでリンは満足だ。

「危ないですよ」

 低く、暖かい声がリンを包む。

 そして背に、柔らかくショールをかけた。行きしな、森に落としたショールである。

「あなたは、おてんばだから、こんな風に頭に木の葉をつけてかえってくる」

 ブッディは優しくほほえむと、リンの頭から小さな木の葉を取り上げた。森の中で、ついたものだ。それは綺麗な緑の色を持つ。

「そういえばこの森には紅葉がないのね」

「こうよう?」

「樹が黄色くなったり赤くなったり」

 この国に来てリンはそれが不思議だった。冬もくるし春もくる。しかし木は微動だにせず、緑に輝き続ける。 

「赤や……黄色。ああ、このタテですね。秋が深まると金色に輝くのですが、誰にも見えない、菌糸だけが輝くんです」

 ブッディはリンを後ろから抱きしめたまま、まな板の上のタテを手に取った。

「タテとは秘密、という意味です。私の国の言葉では」

「この森の言葉はほとんどがあなたの国の言葉ね……昔から、言葉を聞くのが楽しかった」

 リンは苦笑しながら、鍋にバターを落とす。昔は料理をするたびに執拗なほど、ブッディに食材の名前を教えてくれ、とねだったものだ。そのせいで幾度、食べ物を焦がしたことか。

 今はもう、そんなかわいい失敗をすることもない。

「タテに、人参、芋……スパイスの名前はまだちょっと発音できないけど、だいぶ、覚えたわ」

 手でタテを裂いて落とせば、甘くスパイシーな香りが一気に広がった。暖かい煙が台所いっぱいに広がる。熱が通る前に、人参。そしてイノシシの干肉。

 干肉はウルマのいうとおり、柔らかい。小さく切って、鍋に落とし、スパイスを一振り。ミルクを注げば、黄金色の油が一面に浮かび上がった。

「あとは、この芋を……」

 一抱えほどもある赤色の芋は、この森の奥でとれる不思議な食べ物だった。

 皮ごと熱湯に漬けてしばらく暖める。引き上げて皮を剥けばそれはとても柔らかいマッシュポテトになるのだ。

 つぶす手間など必要ない。固い皮を落とせば、とろりと柔らかいポテトの奔流が流れ出す。 

 それを大きな皿に敷き詰めて、再び鍋をのぞき込めば黄金色のあくがぷくぷくと浮いているところだった。

「リン、あなたの国のお話も面白くて興味深いですが、そんな風に料理をする様を眺めるのが一番うれしく、楽しい」

 ブッディはリンの姿を、まるで魔法を見つめる子供のような顔でみる。こんな顔をすると、彼は本当に子供のようだった。 

「ブッディの話もおもしろいわ。最近は、あまりいろいろなことを教えてくれなくなったけど」

 きれいなを灰汁はもったいないが捨ててしまう。そしてできるだけ具を崩さないように、塩に胡椒。スパイスももうすこし。やがて陶器の鍋からたまらない匂いが沸き立つ。

「……何でも聞いてください。教えられることなら、なんでも」

「たとえば」

 スープをしっかりと混ぜ、上からたっぷりのチーズを落とす。表面に浮かんでいたタテはチーズにまみれて沈んでいった。

 鍋一面に、どろりと重いチーズの蓋。

「……吸血鬼は……人を襲う?」

 間が、あった。

「……いえ」

 いつもは明確に答えを返すはずのブッディの声が、一瞬戸惑う。その戸惑いがなにを意味するのか、リンにはわからない。

 彼は赤い目でリンをみる。柔らかい前髪が、その目を暗くする。まるで泣きそうな顔だ。リンは、その前髪を優しくなでる。

「ブッディ」

 この顔に見つめられるのが、幼い頃からすきだった。この声も、空気もなにもかもが、リンを救った。そんなことを、今更思い出す。

 凍った空気をごまかすように、リンは笑う。

「あなたのズボンの裾になぜキノコのかけらがついていたのかしら」

 ふと下を見れば、いつも綺麗に整えているはずのブッディの靴が汚れている。折り曲げたズボンの裾には、金色の輝き。

 それはタテだ。

「そ、それは」

 あわてて隠そうとする手をつかみ、リンは彼の顔をのぞき込む。

「ありがとう」

 彼はきっと、あの場にいたのだろう。気配を消すことは狩人よりも吸血鬼の方が上だ。出かけたリンとクロウを案じて彼は追ってきた。そして落ちかけたリンを救おうと、したのだ。

「さっきの質問は忘れてね、ブッディ」

 目の前の鍋はいまやマグマのように黄色の泡が吹きだしている。

 それをリンはそっとすくいあげ、芋を敷き詰めた皿に広げた。

 とろけるマッシュポテトの上に一面広がるあつあつのチーズスープ。チーズを焼くグラタンもおいしいが、こんな風にとろけるチーズで蓋をするだけのグラタンも優しい味がする。

「ところで、ブッディはその……茸をつけてきた場所で、変なことを……そう、何か変なことを耳にしなかった?」

「さあ」

 とろけたチーズを整えるリンの耳が熱く染まった。ブッディはそれが彼の優しさなのか、平然とリンの肩に顔を埋めた。

 染まった耳が、ブッディの冷たさに癒される。

「私は、なにも」

「ブッディ、口を開けて」

 リンはミルクスープととろけたチーズを木のスプーンですくいあげた。そしてそれを、そっとブッディの口元に差し向ける。

「熱いから気をつけてね」

 注意をしたのに、ブッディの端正な眉が寄り、熱い。とつぶやく。が、やがてその口元がほほえみの形となった。おいしいと言葉にするよりもはっきりとリンに伝わった。

「じゃあこれは、あの子達には秘密のことですね」

 ブッディはうれしそうに笑う。その秘密の明るさは、リンの中に沈んだ暗さを払った。

(……今日は秘密がいっぱい……)

 人も吸血鬼もみな、秘密を持っている。裏の顔がある。しかし、どう考えてもこのブッディが人を襲い人を殺すような生き物には思えないのだ。

 それは幼い頃から確信していたことだ。リンは一度もブッディを疑っていない。しかし、ウルマが嘘を言うはずもない。

 ならば、

(……もう一人、吸血鬼がいるんだわ)

 と、思っている。しかしブッディは世界で最後の吸血鬼だ。おそらく、もう何十年も。

 ならば誰がウルマをおそったのか。その答えは、何度冬を越えても春を迎えても答えはでない。

「……黒ツグミがとんでいったら、もう冬」

「この森は冬は長い。昔は冬が嫌いでした」

「今は?」

「皆とすごす冬は、楽しいです」

 どこかから子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。そろそろ彼らも戻ってくる。

 グラタンをテーブルの真ん中に、豆のサラダに固い黒パン。大きな皿と小さな皿をたっぷり並べると、それは悲しいほどに暖かい食卓となる。

 リンはそのテーブルの隅に手をおいて、一度だけ目を閉じた。

(いつか……)

 いつかウルマがこの家で、この食卓を囲んで皆と一緒に食事ができますように。

 そんな夢をリンはもう何十年も見続けている。


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