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涙花のクッキー

 冷たい雨が空から降り落ちて、木の葉に跳ね返る。

 強くなり弱くなり、いつまでも降り続く雨の滴を見上げて、リンは「まもなく冬が来るぞ」と、腹の底にぐっと力を入れるのだ。

 天を貫く木々はいつでも鬱蒼と茂っている。葉は、まるで小さな子供が精一杯広げた掌のよう。

 愛らしい葉を持つこの木の名前をリンは知らない。正確には、発音を聞き取れない。

 この、名前を知らない木が生い茂っているせいで、この森は季節を問わずに薄暗い。しかし雨や風の音を聞くだけで何となく、季節は分かる。

(冬が来るわ、半年の間、雪と雨が降る冬が)

 元々この森に訪れる季節は、ほんの少しの春ともっと少ない夏、心地良い秋が少々、そのあとはずっとずっと冬である。

 本格的に雪が降る前に暖炉の掃除をしなくちゃいけないし、小麦や薬草をたんと用意しておかなくちゃいけない。

 何十年も繰り返してきた、秋から冬へと向かう大切な儀式。

 ほんの少しの重労働を思い浮かべて、リンは小さくくしゃみをした。老いて皺の寄ってきた手に、秋の風が染みたのだ。



「リン、お別れ会しよ!」

「お別れ?」

 暖かな台所で夕食の献立などを考えていたリンは、明るい声に思わず振りかえった。

 彼女の足下で子供が三人、リンを見上げて笑っている。

 まだ10歳程度の、幼い少年たちだ。

 リンは一人一人見渡して、にっこり笑った。そして腰を下ろして、彼らと目線をあわせる。

「キャッツ」

 光る瞳がいかにもいたずら坊主めいた子供にはその名を。

「クロウ」

 泣き濡れたようにみえる、黒い瞳を持つ子供にはその名を。

「バット」

 大きな目をきょときょと動かし、落ち着きのない子供には、その名を。

「面白い事を思いついたのね。でも、あなたたちが騒ぐと、また台所が大変なことになってしまうから、まずはこれを飲んで落ち着いて」

 三人の手に、大きなミルクカップを渡してそこに暖かいミルクを注いでやる。砂糖を一振り。子供たちはみな、目を輝かせる。

「で、お別れ会って何のこと?」

 彼らはミルクに夢中になり、台所の椅子に大人しく腰を落とす。

 丸木でくまれた台所には火がともり、オレンジ色に揺れている。壁は頑丈にできていて、外の雨音も冷気も家の中まで入ってこない。

 リンも自分のカップにミルクを注いで飲み込む。と、喉にかすかな違和感があった。これは、風邪だ。風邪なんてもう、何十年もひかなかったのに。

「誰のお別れ会をするの?」

「リン! それとこの家の、お別れ会だよ」

 クロウが甘えたように言うと、キャッツがその頭を軽くたたいた。

「別に出ていってほしいってわけじゃないさ。昨日、あれ? 昨日だったかな。一昨日かもしれないけど、ともかく僕らは寝入りばなに話し合ったんだ」

「リンはニンゲンだから、いつか死んじゃうだろうってこと」

 キャッツとバットが顔を見合わせると、ぽん。とはねた。するとそこにいたのは、人の子ではない。黒猫と一匹のコウモリ。

 出遅れたクロウはあわあわと転げ落ちる……椅子の下からそっと顔をのぞかせたのは小さなカラスだった。

 飛ぶのが苦手な彼のため、リンはクロウの柔らかい体をそっと抱き上げ、放り投げてやる。ようやく飛べた喜びに小さな目がうれしそうに輝くのが愛らしかった。

「僕も撫でてよ、リン」

 キャッツはリンの膝に乗って額に頭をこすりつけながら、人の言葉を口にする。

 ふれた毛は暖かいのに、皮膚が冷たいのが不思議だった。その陶器のように冷たい皮膚に触れるたび、彼らとリンは別の生き物なのだと実感させられた。

「だって、リンの前にいたニンゲンは、みんな知らない間にいなくなったんだ。死んじゃってさ。別に僕らが何をしたわけでもないし、もちろんあいつが……」

 バットはリンの腕に逆さに捕まり、楽しげに笑う。

「そうそう。別に、伯爵がそのニンゲンたちに何かしたわけでもないさ」

「あら。ブッディはそんなことしないわ。いい人だもの」

「そう。だから僕ら調べたんだ。本をいっぱい読んでね。こっそり夜中に書庫に忍び込んでね。もちろん、クロウは鳥目で読めないから、僕が読んで聞かせてたったんだけど」

「えらいわね、キャッツ」

「そこで知ったんだ。ニンゲンには寿命があって、僕らより、ずっと早く死ぬんだ。リンだって、来た頃に比べたらシワシワだよ」

 キャッツは意地悪くそう宣言する。

「今でもじゅうぶん、かわいいけど」

 ……が、一言添えることを忘れない。天井をもたもたと飛んでいたクロウもあわててリンの肩に止まって、それに調和した。

「かわいい!」

「ありがとう。でもここに来た頃は、私だってまだほんの10歳くらい。あなたたちと同じか、それより下だったのに」

 彼らは人ではない。リンはそれを、出会った時から知っている。

 はじめてこの家にやって来たとき、彼らは意気揚々とリンに変化を見せつけた。愛らしい子供から愛らしい生き物に変化した瞬間、リンは悟ったのだ。ここは、人の住む家ではない。

 しかし、優しい声も、暖かな目線も、今となればリンにとって宝物である。

「すっかり追い抜いちゃった」

 リンはシワシワの手を光にかざす。

 壁にかけた鏡にうつるのは、白髪交じりの女。でも鼻筋は通ってるし、肌だって白いままだ。笑えばまだ愛らしい子供の頃の面影を持っている……と、リン自身はそう信じている。年寄りの妄言かもしれないが。

「リンほど長生きした人をみたのは僕ら、はじめてだよ。っていっても、僕らの生きてきた時代を思えば、ほんの一瞬だけど」

「これまでのニンゲンはみな、10年や20年、そこらで、急に冷たくなって、そしていなくなる」

 三人の声が、ふと寂しさに包まれた。

「きっと、リンもそうなるんだ」

「そんなとき、伯爵はまた僕らに黙って、リンをどこかにやるんだ」

「ずっとそうなんだ」

「伯爵は酷い」

 そんなことをいうものじゃない。と言い掛けて、リンは言葉に詰まる。

 長く生きたものの抱く寂しさを、リンは知らない。

 リンはまだ10歳やそこらでこの家に入った。その時に迎えてくれたのはリンをニンゲンと呼ぶ三匹の生き物と、リンを家族と呼ぶ一人の男である。

「ねえ、リン。聞いて」

 キャッツが小さな額をリンの顔に押しつけた。柔らかい毛が口元を包む。甘い香りがするのは、きっと隠れてお菓子でも食べていたのだろう。この無邪気な三人は、リンのつくるお菓子が大好きなのだ。

「これまでも多くのニンゲンがここにいたけど、みんな、何十年も経った頃、倒れてベッドから起きられなくなって」

「ある日冷たくなって」

「伯爵は一人で、どこかに隠しちゃう」

「ぐちゃぐちゃに泣いてね」

「悲しい思いをたくさんしたのね」

 リンは彼らを抱きしめて、その背をさすった。

「でも、お別れ会なんて変ね。ふつうは死んだら、お葬式をするのよ」

「いやだい。そんなの、リンはもう、しゃべれないだろう」

「だからその前に、お別れ会をしたいんだ。リンの焼いたおいしいケーキとおいしいスコーン、あったかい紅茶で」

 楽しいパーティを。とキャッツが言った瞬間、台所がしびれるような怒鳴り声が響いた。

「こらっ」

「伯爵だ!」

 低くよく、伸びる声だ。それは雨の音のようだった。その声を聞く度に、リンはうっとりとしてしまうのだ。

 その声をきいた途端、子供達が叫び人の姿に変わるなり台所から駆け出して行く。クロウだけ、やはり少し遅れて羽をしまい忘れていたけれど。

「……すみません。バカな子たちで」

 リンの隣に男が立つ。見上げれば、顔がリンの遙か上にある。その背の高さは外にある木を思わせる。

 まるで燕尾服のような黒の服に胸を飾る赤いリボン。絵に描いたような吸血鬼の装いだ。出会ってこのかた、この装い以外の彼を見た事がない。

「ブッディ」

 リンは大切なその名を呼んだ。

「私も、永遠の寿命だったらよかったのにって、そう思うことがあるわ。そうしたら、ずっとあなたたちと生きていられるものね」

 男は……ブッディは、リンの言葉に声を詰まらせる。その赤い瞳が、一瞬悲しみに覆われる。リンは慌てて彼の腕を取った。

「ごめんなさい。そんな顔をさせるつもりはなかったの」

 その腕は冷たく固い。脈も心臓も彼の体で音を立てることはない。それを、彼らが気にすることもきっとない。

「朝ご飯にしましょう」

「リン、声が少しおかしいですね」

 こん。とリンの声が震えたのをブッディは見逃さなかった。リンは喉を押さえて笑う。

「きっと、風邪ね。お粥を作りましょう」

「おかゆ?」

「私のふるさとで、風邪をひいたときに食べるの。この麦を使うと、簡単よ」

 リンが台所で手に取ったのは、瓶に詰められた小さな穀物だ。米粒のような楕円形をしているが、色は赤に緑に青のぎょっとするような極彩色。振るとさらさらと音を立てる。

 それを一握り、水とともに鍋にいれてかまどに置く。かまどの火は、一年を通して消されることがない。

 泡立たないようにゆっくり混ぜれば、とたんに麦は極彩色の灰汁と泡を放ちはじめる。すると、鍋底の麦本体は不思議と白くなるのだ。

「この灰汁は、ボウルに残しておきましょう。これをクリームに混ぜるときっと素敵だから」

 灰汁を丁寧にすくってやると、鍋底に残るのはそれこそお米のような柔らかな粒。そっと押してみると、角がとれてほろほろと崩れる。

 初めて目にした時はぎょっとしたものだが、食べると米粒の味がするのでリンはそれが大好きになった。この麦の名前もリンには発音できない名前だったので、勝手にキャンディライスと呼んでいる。

 子供達もそれを気に入り、この家ではキャンディライスが俗称である。

「それで、この根っこはショウガっぽい味がするでしょう?」

 続いて、壁に干していた茶色の固まりを手にして、軽く香りを嗅ぐ……つん、と鋭い匂いがした。リンはこの根の名前をしらない。この世界は不思議すぎて、いまだにリンの知らないものばかり。

 名前なんて知らなくても、食べることはできる。名前より先に味を知っているのが不思議でおかしかった。

「根っこの皮を剥いて……」

 固い根をナイフで丁寧に剥くと、美しい黄色の地肌が顔を出す。それを細かに切り刻んで鍋に放り込むと、鋭い香りはショウガの香りにかわった。

 へらで押すと簡単にほろほろ崩れるのですり下ろす手間が省けるのも助かった。

「それに塩を軽くふって」

 こんな森の中でも塩が手に入るのはありがたい。塩がなければ、リンだってこんなに長くは生きていれなかっただろう。

「完成。ブッディ、味を見て」

 鉄の鍋の中、ふつふつとクリーム色の泡がわき上がる。さわやかなにおいが、台所いっぱいに広がる。小さなお椀に移してブッディに渡すと彼は一口食べるなり、端正な眉を寄せた。

「苦い」

「吸血鬼にはショウガはいけないのかしら? ニンニクだけだとおもってたけど」

「ニンニクは大好きです」

「そうだったそうだった。ブッディの好物は、真っ赤な果実のジュースに、苦い紅茶に、ニンニクに」

 ブッディはそっとリンの手をとり、その甲に冷たい唇を寄せた。ひやりと当たる鋭い歯の感触に、ああ彼は吸血鬼だった。と思い出すのである。

「……リンの作る食べ物なら、何でも好きです」

 出会ったときは白くすべらかだった手の甲も、すっかり皺がよってしまった。それを恥ずかしいといえば、彼は不思議そうに首を傾げるのだ。そういう様を見ると、リンはたまらなくなってしまう。



 簡易ショウガ粥は、子供たちにも不評だった。

(根っこの量が多すぎるのかしら。それとも、別の隠し味をいれるとか……確かにちょっと苦かったけれど……あの苦みを消すには……)

 鍋や食器を片づけながらリンは首を傾げる。香りはショウガなのに、煮込むと苦みがでた。これを何とかクリアできれば、きっとショウガの代わりに使えるだろうに。

「……雨」 

 水に触れた指先にふるえが伝わり、リンは自分の体を抱きしめる。ぞくぞくと、足下からふるえが襲ってくる。

 かまどの火に手をかざしても、ちっとも暖かくならない。

「ああ。風邪が」

 冷たいくせに、頭の当たりだけが妙に暖かくふらふらするのである。

「酷くなって」

 あわててかまどに蓋をして、壁にかけてある暖かいショールで体を守る。

「いけない、いけない」

 自室に飛び込むと、ベッドの周囲に暖かな湯を張った鍋がいくつも置かれていた。

 子供たちの気遣いなのか、水に漬けると光る石がいくつも水底に沈んでいる。それは海中都市のように、きらきら輝き部屋の天井を明るく照らしていた。 

 柔らかなベッドに滑り込むと、とたんに熱が体をむしばんでいく。ふうっと遠くなる意識の中で、リンは天井に映る美しい光を見つめる。遙か昔、リンはこれと同じような光を見たことがある。

 それは、リンの涙が見せた光だった。



 もう、何十年も昔。昔昔の、昔話だ。

 でもたぶん、こんな風に時々思い出さないと、心が死んでしまう。

「……あなた、サズラン……ま……す」

 リンの目の前に大きな影が降り立ったのは、彼女がまだ10歳の時のこと。

 リンは腫れ上がった目を大きく見開いて、目の前の男を見上げる。まるで木のように大きな男で、顔はよく見えなかった。

 顔がよく見えなかったのは、夜の暗さとリンの涙のせいだろう。顔を上げると、きらきらとまばゆい極彩色の輝きが、リンの目を焼きつけた。それはハロウインの飾りである。

 リンの生まれた小さな街でも、10月が近づくとオレンジと茶色と赤色が支配した。かぼちゃに仮装に化け物たちが、空を飾り街や家を飾っていろいろな色を放つのだ。

 それは遠い国のお祭りなのだと聞いた。普段は出会えない化け物達が、ここぞとばかりにやってくるのだ。化け物でもいいから、会いたい。リンは幾度もそう思った。

 会いたいのは、父に母に祖母に祖父。みんな、リンを残して逝ってしまった。

「あなた、誰?」

 涙に濡れた目で見上げれば、ハロウインの町はまるで水の中で輝く光の渦だ。

 そんな光の中で、男は立っている。

「……ッディ、スズサル……最後のブラグ……」

 おごそかに彼は口を開けた。リンには理解できない言葉で語りかけてくる。

 けして作りものの声ではない。確かに彼は異国の人なのだろう。

 彼は柔らかそうな黒い髪を照れたように、かき乱す。まるでリンの国の言葉を思い出すように、必死に口の中で迷い、一つ一つの言葉を紡ぎ出す。

「さ……最後の……ブ……吸血……鬼」

 吸血鬼。という言葉だけははっきりと聞こえた。最後の吸血鬼、彼はそう名乗った。

 リンはきょとんと目を丸くする。なるほど、彼の口には鋭い歯が見える。

 彼は必死に自分自身を指しながら、同じ言葉を繰り返した。

「ブッディ」

「ブッディっていうのね」

 リンは涙の膨らんだ目を拭う。小さくたって、淑女であれと父も母も口うるさく彼女に言ったものだ。見知らぬ男の前で、泣くのは淑女ではなかった。

「私の名前はカワヒガシ、リン。たくさんいる人間のうちの一人だけど、カワヒガシはこの世で、私が最後の一人」

 胸を張って、リンはいう。

「父も母も祖母も祖父も犬も猫も鳥も、みんな死んだわ」

 火事で。と言い掛けて、リンは言葉に詰まる。現実を口にすれば、泣いてしまいそうだった。

 ハロウインが近づく秋のはじめごろ。リンはすべてをなくした。細かいことは覚えていない。しかし小さな施設の隅っこに預けられたことは覚えている。

 毛布も布団もなく、ただ膝を抱えているだけでは寒い、と思ったことだけを鮮烈に覚えている。

 施設の中より外の方が暖かい。夜風に誘われ外に出て、ハロウインの飾りをみあげていたら、不思議な男に声をかけられたのだ。

「あなた、ハロウインの仮装? それとも本物? 本物なら、私を食べるの?」

「……リ」

 ブッディと名乗った男は膝を折り、リンと同じ目線の高さになる。

「カ……トゥリ」

 近くで見る男の顔は、端正であった。恐ろしいほど白い肌に、赤い瞳。口から見える鋭い歯。しかし、顔は幼い。そして、その赤い目はリン以上に泣きそうに歪んでいる。

「リ……これ……かなしい、の、こと」

 彼はリンの顔に恐る恐る、指を寄せる。その白い指先に、リンの涙が一滴垂れた。

「涙?」

「ナミダ」

 彼は繰り返した。大事そうに、その言葉を幾度も繰り返す。

「行き場……ない、あなた」

 指先についた涙を抱きしめるように握り締め、ブッディは続けるのだ。

「見ると、たまらない、かなしい、つらい……そう、つらい」

 美しい赤の目をみて、彼は本物の吸血鬼だ。とリンは不思議と納得した。

 同時に、目をあわせてくれる男の優しさに胸が打たれた。

 施設の職員も警察官も、誰一人リンの目線の高さまで頭を下げて、目を合わせてくれやしなかった。

「助けてくれるの?」

「私と一緒にいく、そう、それが許されるなら」

 思慮深い声は、雨の音に似ている。激しくふる雨ではない。しとしとと、優しく降る雨の音だ。

「………」

 彼は優しい声で、何事かをささやく。その言葉の意味は理解できなかったけれど、リンは静かに頭を下げる。

「……ありがとう」

 リンは、彼の手をとった。大きく柔らかく、異国の香りがするマントをつかみ、その黒の燕尾服に抱かれた。

 彼の大きな手は、遠慮がちにリンの手をとり甲に口づけた。

 それは、家族の契約である。



「……リン」

 どこか遠くから、優しい声と不思議な香りが届く。

 まるで夢の世界から泳ぎ出すように、リンはめざめた……赤い瞳がリンをのぞき込んでいる。

 その、泣き出しそうな子供のような顔。

「泣きそうな顔ね」

「リンの顔色が、どんどん悪くなって、ふるえて、それで」

 ブッディの声は震えていた。彼が今喋っている言葉は、彼の国の言葉である。そういえば、最初は意思疎通するだけでも大変だった。ブッディは日本語をカタコトでしか分からないし、子供達に至っては全く喋れなかった。

 結局、リンが彼らの言葉を覚えたのだ。当時は子供だったおかげで、随分早く覚えることができた。

 今となっては、時折単語で日本語を思い出すばかりである。

 思い出す単語は全て食べ物のことばかりで、食い意地の張ったそんな自分がおかしくなる。

「心配してくれたの、ブッディ」

 声を出すと、それはかすれたものになる。幾度か咳をして、リンは笑った。ベッドの脇、祈るような姿勢で自分をのぞき込むブッディの頬を撫でる。その体から、甘くてスパイシーな香りがした。

 見れば、ベッドの脇や上に切り花が散っている。

 まるでかすみそうのような白く可憐な花弁がついた、細い花である。

 ブッディが運んできたのだろう。一つつまんで、香りをかぐ。懐かしいにおいがした。

「この香り、覚えてる。私がここにきてすぐの頃、風邪で倒れたときに、誰かがこうして……ベッドの上に、沢山置いてくれたの。あなただったのね」

「あなたは風邪を引いても泣かない。涙は悪い物を吐き出します。この花は涙を誘う花です」

 ああ。だから自分は今、泣いているのだ。リンは目を拭う。風邪をひいた時の涙というのは独特な暖かさを持っている。力を入れなくても、ほろほろとそれは目の横をすり抜けて耳のそばで散る。

「ブッディ、一つお願いがあるのだけど」

「リン?」

 リンは腕を伸ばし、ブッディの首にからめた。

「私より前にいた子たちのお墓につれていって」

 力を入れるまでもない。ブッディは軽々と、リンをだきあげた。

 

 ブッディが駆けるとき、それは音もなければ気配もない。それが吸血鬼の常なのかブッディの技であるのかは知らない。

 ただリンを抱き上げたまま、彼はあくまでも静かに家を飛び出し、森を抜ける。やがて、森の真ん中のあたりで彼は足を止める。

 時刻は明け方前間近の朝ぼらけ。夜行性の生き物があくびをこらえて巣に駆け込み、逆に鳥は巣から顔を出している。

 一日を通して薄暗い森だというのに動物たちには時間の感覚があるのだ。

 リンもまた、闇になれた目で周囲を見れば靄の青さを確認できた。

 大地からわき上がる暖かい靄が、朝の冷たい空気に触れるとそれは途端、青の光を放つのだ。

 それは、ゆるやかに森をただよい、やがて周囲は青一色に染まる。

 吸い込めば、木々と大地の青い香りがした。

 雨はまだ降り止まないが、周囲の木々のおかげで雨粒はリンには届かない。それでもブッディは気にかけるように、リンの体をマントで包みこんだ。

「私もいつか死んだらここで眠るのね」

 リンの目の前にあるのは、数十の石の墓である。四角い日本然とした墓石もあるし十字架もある。石を積み上げただけのものもある。いずれも青い靄の中で粛然と並んでいる。

 石に彫られた不思議な文字はブッディの一族が持つ文字だろう。名を刻んであるのか、何か文章が刻んであるのか、リンには理解できない。

 初めて出会ったときに彼が口にした不思議な言葉をリンは思い出す。今なら、彼があのときリンに何を言いたかったか分かる。

「とてもいいところ」

 目前に広がる墓石の森を見つめて、リンは静かに呟く。

「ブッディは、こうして行き場をなくした子を拾って育てて見送って、そうして生きてきたのね」

 ここには何人、いるのだろう。彼は不死だ。最後の吸血鬼だと彼は名乗った。この森の奥、自分が作り出した三匹の動物たちと暮らしている。

「血を与えれば不死にできるのに、それをしなかったのはなんで?」

「ニンゲンは不死ではないから」

 ブッディは厳かに呟く。

「あなたは、ニンゲンだから」

「この世で最後の吸血鬼。ブッディは最初に私にいったわね。ひとりぼっちのものを見るとたまらない」

 幼いリンの耳にささやいた彼の言葉は、優しいものだった。


 ひとりぼっちの子供を見ると、たまらない。つらい。だからあなたを浚います。


 彼はそういって、リンをこの森に運んできた。

「ブッディはどれくらい、生きてきたの、この森で」

 リンはブッディをみる。真っ白な肌を持つこの男の年齢を彼女は知らない。

 とんでもなく長く生きているということしか知らない。

 吸血鬼といいながら、ニンニクもたべるし、十字架だって平気だ。血は飲まない。

 生肉はそれほど好きじゃない。太陽光はそれほど得意じゃないけど、溶けて無くなることはない。

 リンの想像する像とは異なるが、それでも彼は吸血鬼なのだ。

 生き物の血を一滴だけ吸えば、その犠牲者に不死を与えられる。そんな力を狙われて滅ぼされた、吸血鬼最後の末裔。

「きっとあなたは、遙か昔のあなた自身を救いたかったのね」

 リンはブッディの体から降り、柔らかい土を踏む。

 秋の湿気を吸い込んだ青い苔は柔らかく、素足の指に静かに絡む。

 墓の前には小さな花が、様々な種類の花が飾られているのがみえた。ブッディが、供えているのだ。おそらく、毎日。

「初めてあった日は、本当に大きくて顔も怖くて大人だと思っていたけれど、いつか私が追い抜いてしまったわね」

 リンは振り返って、笑った。

 森の中にたたずむその人は、青年然としている。少年と言ってもいい。かつては、大きな男に見えたのだけれど。

「背の高さはかなわないままだけど、見た目の年齢はとうに超えてしまった」

 この優しい人に見送られて死ぬのなら、怖いことはなにもない。そう思うのだ。

 かつて自分の身内をすべて奪った恐ろしい死がリンの現実に迫りつつある。あれほど恐ろしいと思っていた死も、ブッディに見送られることを思うと、恐怖が薄れるのだ。

「出会った時から、ブッディは優しい人だった」

「あなたは我慢強くて賢い人だった」

 顔を見合わせ、笑いあう。ブッディはまた軽々とリンを抱き上げた。

 顔に、一滴の水が落ちる。雨がまた強くなったのだろう。この森もブッディも、リンを悲しみから守ってくれる。

「みんな、私のことをリン、リンというけれど、どんな風に書くかを知ってる?」

「たしか……まるで文様のような、名でした」

「そうね、漢字っていうのよ」

 リンはブッディの手のひらに、指を這わせた。

「霖って書くの。雨が林に降っている様子」

 雨が林にふりつける。秋霖の霖。寂しいが優しい漢字で、リンはその名が大好きだった。

 ブッディの声が雨の音に似ていると思った瞬間から、よけいにこの名が好きになった。

「まるで今のようでしょう」

「あなたらしい、綺麗な名です……ああ、この木の名前も似ています、……といいますので」

 ブッディは木を見上げて言った。赤ちゃんの手のような、かわいい葉を見上げて口にしたその言葉はやはり、リンには聞き取れない言葉である。

「どういう意味なの?」

「悲しみを吸い取る木。私達の世界では、雨は悲しみと言われています。どこかの子供の涙が、雨を降らすのです」

 ブッディは木の幹を軽く剥ぐ。と、そこから水があふれ出した。

「だからこの木は雨を葉で吸い込んで、幹を伝わして大地に届けます。大地に届いた雨は、もう悲しみではなく……といいます。ああ、喜びの水です」

 その水は池になり大地に沈んで地下水となり、リンたちを潤すのである。

「この木の根本に、花が生えます」

 ブッディは腰を曲げて、根本の花をつむ。それは彼がリンのベッドに運んできた、涙を誘う花であった。

「雨に含まれる悲しみはこのように、花になります」

 涙の雨は涙を吸い取る木に守られ大地に落ちて、そして涙を誘う花となる。

 彼は続いて、花の根元を掘った。すると、そこには見覚えのある根が見える。細くて可憐な花に比べ、根は太く大きい。それを見て、リンはぱっと目を輝かせた。

「ああ、この根っこ。あのショウガの」

 ショウガに似た、あの根である。茶色の土に包まれて大人しい。顔を近づけようとすると、ブッディが慌ててリンの体を抱き留めた。

「気をつけて下さい。それは食肉ですから」

 すっと、根が動く。まるで生き物のように、それは口をぱくりと開けた。黄色の地肌からは、やはりショウガの香りがするのだ。

「この花の名前は?」

「……といいます」

「聞き取れないわ。もう一回」

 ブッディは、ゆっくりとまるで子供にするように口を開けた。

「……トゥリ」

 カトゥリ。彼は確かに、そういった。

「……涙」

 それはまだ幼いリンが、彼より聞いた言葉である。リンの涙を拭い、ブッディが囁いた言葉である。

「そうです。古い言葉で、涙の意味です。何故分かったのですか?」

 ブッディは、花を掴みナイフで根を小さく切り取る。と、切り取られた断面から雨が降り落ち大地に落ちた。

「この花を、涙花。と、いうのです」

これは、湿地に咲く綺麗な花のだが食肉植物なので、抜くときには注意が必要だ。この根っこは食べられた動物たちの悲鳴と涙が詰まっているのだ。だから、苦くてぴりりと辛いのだ。

「そう……カトゥリ」

 リンは幾度も呟く。目元に指を這わせた。それは、いつかブッディが優しく撫でてくれた場所である。

「ああ……雨が、あがる」

 ブッディはもうそんなこと、覚えてもいないのだろう。彼はリンの体を抱き寄せて、空を見上げた。

 木漏れ日のような朝日が、墓に差し込んでいる。湿気を含んだ石が、きらきらと輝いた。

 リンは墓に小さく手を合わせる。そして、ブッディの服を軽く引いた。

「帰りましょう。急に、皆に会いたくなったの。家でおいしいクッキーとケーキを焼いて、そして」

 リンは喉の軽さを覚え、ブッディをせかす。この木の香りと靄が、リンの風邪を少しばかり追い払ったらしい。

「パーティをしましょう。お別れ会じゃなくって、お葬式でもなくって快気祝い」

「カイキ?」

「元気になったお祝い」

「あなたの言葉は時々難しくて、時々優しい」

 ブッディは額をリンの顔に押しつけた。キャッツのあの癖は、ブッディの生き写しだ。そう思うとリンは笑えてしまう。

 笑えるということは、風邪に打ち勝てたのである。



「リン!」

 家に戻ると、三匹の子供たちが泣きそうな顔でリンを迎えた。

「もうお別れ会なんていわないから」

「こいつがお別れ会なんていうから、きっとそのせいでリンが倒れたんだって」

「いいだしたのはお前だろ」

 きゃんきゃんと騒ぐ子供たちは、手にスコップを握ってさんざん泣き濡れた顔をしている。

 朝目覚めれば、ブッディとリンが消えていた。またブッディがリンをどこかへ隠したに違いない、そんな風に考えたのだ。

「きっとリンはどこかに埋められたから、探して掘りださなきゃって」

「すぐに掘り出せばきっと大丈夫って」

「だから僕たち」

「うるさいぞ」

 ブッディが眉を寄せて、子供たちの手からスコップを取り上げる。

「落ち着きなさい。おまえたちは、いつもそれだ。リンは無事だし、何も言わずにいなくなったり、しない」

「私を心配してくれたのよね」

 リンが目の前にたち、ほほえんでみせると子供たちはとたん、瞳いっぱいに涙を浮かべた。

 カトゥリだ。と、リンは思う。なんと美しい響きだろう。

「ごめんなさい」

「これはね、ただの風邪。でも大丈夫、もう治ったわ。さっきは、ブッディとお散歩にいったのよ」

 体の軽さは嘘ではなかった。飛び跳ねることはできないけれど、昨夜よりもずいぶん軽い。

「だから、今日は、おいしい物を作りましょう」

 腕をまくって、台所を見渡す。

 冬に向けての支度はまだ進まないが、小麦も、乾かしたフルーツも、薬草も、牛乳もたんとある。

 柔らかい木の皮で作った袋に牛乳を入れて干しておくと、よけいな水分が抜け落ちて、クリームのような物体ができあがる。これにキャンディライスの灰汁を入れて混ぜれば、鮮やかなクリームになる。

 そんな用意も、そろそろ整っている。

「準備するわね」

 木の皮をさいて、クリームを指につけて舐めると、甘い香りが口の中いっぱいに広がった。

 子供たちにもスプーンいっぱいずつ与えると、彼らの顔がほころんだ。

「秋の長雨もそろそろやむから、ケーキとスコーンを焼いて外にいきましょう」

 わ。と子供たちの顔が沸き立つ。

「ブッディには、渋くて暖かい、紅い紅茶をね。乾燥の紅い実を、沈ませてあるものよ」

 ブッディも、少しうれしそうに口角をゆるめた。

「昨日の、ショウガ代わりの薬草を、クッキー生地に練り込んで焼くわ」

 ……と、4人の顔が一瞬、ひきつる。しかし、かまわずにリンは準備をととのえた。たっぷりの砂糖に薬草を混ぜ込み、小麦とクリーム、牛乳を少々。混ぜ込んで香ると、優しい匂いに変わっていく。

「さあ、どうかしら」

 かまどの蓋をあけて、炎の近くに置かれた鉄板をそっと引き抜く。

 その上に生地丸めていくつも並べ、鉄板ごと再び炎のそばへ。

 こぶし大の塊は、炎に当てられ蕩けて広がる。その生地が端がかりりと焼ける頃をねらって取り出せば、ふんわりと優しい香りが鼻をくすぐる。

 手にもつと、ほろほろと崩れた。割ると甘い湯気がわき上がり、まるで熟したかぼちゃのような香りである。

 たっぷりのクリームを乗せて、挟む。熱でとろけたクリームが生地にしみこんでいくのも好ましかった。

「喉にいいのよ」

 おそるおそる口にした子供たちの目がぱっと輝く。やはり、想像通りだ。この手の味は、砂糖を入れてやると苦みが消える。

「おいしい」

「でしょう?」

「リン、天才」

「任せて。さあどんどん作るわよ」

 忙しくなるぞ。とリンは次々と道具の用意を調える。隣に立つブッディの、少し心配そうな瞳に笑顔で返して軽快にクリームを混ぜていく。

「……晴れて来た」

 やがて、窓から小さな光が差し込んだ。

 使い古した調理器具と食べ物が積み上げられたこの台所は、リンの聖地だった。

 秋が来て冬がくる。一年の営みはすべて、この台所から。

「じゃあ、次は大きなパンケーキと、紅茶と、それと」

「リン、サンドイッチも」

「そうね、卵のサンドイッチも」

 外にテーブルをだして、たっぷりのミルクと紅茶も用意しよう。

 この季節を惜しむパーティをするのだ。

 リンの風邪は、いつかどこかへと消えていた。

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