Act.9-1__In Search of Lost Memory
ミスリット国
絃罪島
2107年6月2日
絃罪執行官
レイ・ハーフメルナ
白い雲が空を埋め尽くし、空から小さな雪の結晶が地上に降り落ちる。やがてそれは時間の経過と共に積み重なり、幾つもの層を形成する。どんどん降り積もり、もうしばらく経てば子供たちが待ちに待った雪遊びができる頃合いだろう。どこからか聞こえるジングルベルの合唱。ベルが鳴り、幸せな時間の訪れを予感させる。
しかし、そんな予感は見事に外れ、心躍る時間は唐突に別れを告げた。空から降り落ちる白い雪は次第に雲と共に色を変え、血を連想させる深紅に染まった。雪が止み、入れ替わるように地上に降り注ぐものは血の雨。人々の恐怖を孕んだ悲鳴が四方八方から鼓膜を震わせ、爆音と共に炎上する車輌に驚きを隠さずにはいられなかった。
どこか見慣れない道路の中心に立っていたレイ・ハーフメルナは、周囲の状況を把握するよりも早く、足にしがみつく何かに視線を下ろした。そこには手があった。力が籠もり、徐々にキツくなる感覚に顔をしかめたのもつかの間、レイの足にしがみついていた男性がゆっくりとその顔を上げた。
「生きろ、奏……大切な人を守れなかった俺の分まで……」
血に濡れた男性の顔には黒い靄がかかっており、耳に届く声は酷く荒れていた。今ここで何が起こっているのか、確かめる術はない。レイが言葉を発そうとしゃがみ込んだ刹那、意識が何の前触れもなく暗転した。
「起きろ、レイ!」
「……リアス?」
肩を強く揺すられる独特な感覚で意識が覚醒し、窓から差し込む太陽の光に目映さを覚えたレイは、右隣で自身を揺すっていたリアス・ハーフメルナを見上げた。眉を顰め、心配そうな視線を向けてくるリアスの頬を撫でる。
「どうかしたか?」
「どうかしたか? それはこっちの台詞だ。随分とうなされていたみたいだが……」
「うなされていた? 俺が?」
「ああ」
首肯し、横になっているレイの額に自身の額を当て、熱があるかを確かめる。特に異常は見られず、怪訝な表情を浮かべたリアスは、レイの頬を伝う雫の軌跡に指を這わせた。身体を起こしたレイに水を渡してやる。
「どうして泣いていたんだ? 怖い夢でも見たのか?」
「え?」
そう指摘されて、初めて気がついた。視界が僅かに霞んでいる。目尻を拭ったリアスの指先に浮かぶ雫。それが涙であると認識するまでに時間は掛からなかった。とどのつまり、今の夢はレイ・ハーフメルナではなく、心の奥底に眠る結城奏に宛てたものだったのだろう。その証拠に夢の中の男性はレイのことを奏と呼んだ。ああそうか、と苦笑する。
「十中八九、結城奏の記憶の一部を覗いたからだろうな」
「……そうか。やはりレイは元の記憶を取り戻したいのか?」
「俺自身は別に戻らなくとも構わないと思っている。今の生活に文句はないからな。しかし結城奏という人間は記憶を取り戻したいと切に願うだろう。元々この身体は結城奏のもので、俺は眠っているこいつの人格が目覚めるまでの繋ぎの人格でしかない。それに何より、持ち主が生きているなら返すのが道理だろう」
浄化の炎で身体を清め、全身に陽射しを浴びる。いつもと変わらぬ朝の景色。それらを堪能していたレイの背中を見つめ、リアスは何かを心に決めたのか、口を開いた。
「ならば島の奥の祠に行くといい」
「祠と言うと、年中無休で精霊が飛び交っているあの祠か?」
「ああ。あの祠は外界の環境を遮断した一種の異空間だ。話によれば自分の深層世界に存在する過去の出来事を見ることができるらしい」
「……ふむ、そうか、ありがとう」
振り返らず、礼を述べる。絃罪島の奥地にぽつんと存在する洞窟の最奥に古びた祠があることは知っていたが、そこがどのような場所であるかは初めて知った。黒のアンダーシャツに砂漠迷彩のパンツというラフな姿で寝室の扉を開けたレイは、ふと背中に衝撃を感じた。
「どうした?」
「……また、ここに戻ってきてくれるか?」
世界を恐怖のどん底に突き落とした真祖の吸血鬼とは到底思えない弱々しい声音はどこか震えていた。仮にレイが結城奏の記憶を取り戻した時、そこにレイ・ハーフメルナとして過ごした記憶が残っている保証はない。仮に記憶が消えればまた孤独になってしまう。リアスはそれが不安で仕方がないのだろう。
「もちろん、と即答できたらどれだけよかっただろうな。リアスには申し訳ないと思うが、記憶を取り戻した後のことは俺にも想像がつかない」
腰に回された腕に力が籠もる。
「それでもリアスが俺のことを想ってくれている限り、俺はどのような形であれ、必ずこの場所に帰ってくる。例え結城奏が元の世界に帰る手段を見つけ、帰りたいと願ったとしても。結城奏には結城奏の帰るべき場所があり、そしてレイ・ハーフメルナにはレイ・ハーフメルナの帰る場所がある。ゆえに俺はここに帰ってくる。それだけは約束しよう」
「……そうか」
腰に回されたか細い腕が離れ、やれやれと振り返ったレイは、リアスの太陽の光を浴びて煌めく金髪を手櫛で梳いた。その手に触れ、嬉々とした笑みを浮かべるリアス。
「なあ、レイ。お前は私のことが好きか?」
「ああ、大好きだよ」
「面と向かって言われると案外恥ずかしいものだな。だがしかし……うん。私も大好きだ」
そうか、と微笑み、リアスの額に触れるだけのキスをする。意地でもこの場に帰ってこなければ、とそう決心した。
*
「この数は鬱陶しいな……」
洞窟の最奥に存在する祠を目指し、涼しげな道を歩くレイは腹立たしさの籠もった威圧的な視線を周囲に振りまいた。レイの周囲を旋回するゴルフボール大の光。それは精霊と呼ばれる種族だ。精霊は滅多に人前に現れないことで有名で、それゆえに目にした者は幸運に恵まれると言い伝えられている。
実際、精霊は臆病な者が多い。しかし精霊が滅多に人前に出ることがない理由として挙げられる点は、そもそもの話、普通の人が見ることができないことにある。精霊を見ることができる者は以下の二点に限られる。
一つは先天的、または後天的に魔力保有量及び質が一定のラインを越えている者。二つ目は精霊眼と呼ばれる特殊な眼を持っている者である。後者の精霊眼を生まれつき持っている種族として、エルフが挙げられる。
「ええい、散れ!」
「吸血鬼さん、怒ってるです?」
「お兄さん、一緒にあそびーましょー!」
「ははは、怒ると老けるぞー!」
洞窟に足を踏み入れてからこの調子で周囲に群がる色とりどりの精霊に苛立ちを覚えるのは仕方がないとしか言いようがない。ある者は頭に乗っかり、髪を操縦桿のように弄る。ある者は服の中に侵入しては激しく動き回る。殺気を飛ばしても返ってくるのは無邪気な笑い声。出てくるものは溜息ばかり。
「魔力をやるからしばらく黙ってくれないか?」
『よきにはからえ!』
火水風雷土光闇の基本七属性の魔力を球体にして精霊に渡す。精霊の主な主食は魔力であり、人とは異なる。ゆえにレイのような質の高い魔力は精霊のご馳走と言っても過言ではない。その証拠に周囲はこれでもかと言うほどに静かになった。やれやれ、と一息吐いたところで、終点である古めかしい祠が見えてきた。
ふと、祠の横に視線を移す。そこには白髪蒼眼の儀礼服を身に纏った女性が真っ直ぐにレイを見つめていた。訝しむような視線を女性に送る。すると女性はにこり、と笑みを浮かべた。それと同時にレイの周囲に群がっていた精霊が一斉に女性の周りに移動した。女性は愛おしそうに精霊を撫でる。
「……精霊王か?」
ぽつり、と呟いたその言葉に一瞬、驚いたような表情を浮かべる女性。精霊王とは読んで字の如く、精霊を束ねる王のことである。
「ご明察です。この子たちがご迷惑を掛けたようで申し訳ありません。何しろ久方ぶりのお客様でしたので。どうかお許しを」
「構わない」
「貴方様の寛大な御心に感謝を」
聖女を連想させる微笑みを浮かべる精霊王。レイは精霊王に近づくと手を差し出した。意図を理解した精霊王がその手を握り、レイは表情を柔らかくした。
「レイ・ハーフメルナだ。よろしく頼む」
「サフィーナ・ルー・フォント・フェアリーラインと申します。どうぞよろしくお願い致します、レイ様」
自己紹介を終えたところで、またもや精霊がレイに群がり始めた。最早何も言うまい。
「挨拶を交わしたばかりで申し訳ないが、これからやらなければならないことがある」
「承知しております。私も微力ながらお手伝いさせていただきます」
「そうか。では頼んでもいいか?」
「お任せください」
レイは祠の前で胡座をかき、二、三度深呼吸をして心を落ち着かせた。途端にサフィーナを中心に膨れ上がる魔力。
「精霊を統べる王たるサフィーナ・ルー・フォント・フェアリーラインが願い申し上げ奉る」
水晶のような透き通った長剣を地に突き立て、その刹那にレイの周囲が半透明の結界に覆われた。さらに床全体に展開される魔法陣。
「古より永久に刻まれゆく星々の記憶。星海より掬われし記憶は等しく闇の帳に包まれる。刻まれし記憶の先に生まれくる次代の刻は光か闇か。祈れよ、祈れ。鏡よ写せ……クロノス・トレイル!」
詠唱の終わり、レイの意識が暗転した。