Act.0__Prologue
リアス大陸の南に広がるハリアント海の海水は世界でも有数の透明度を誇ることで有名だ。海上や空からでも海底を見ることが可能なこの海は珊瑚を初め、様々な海水魚が住処としており、大型の鯨やイルカも稀に見かける。また人々の憩いの場であり、観光スポットとしても人気のある海だ。そしてそれは戦火の渦に巻き込まれても変わらず、思わず夢を見ている錯覚に陥りそうになる。
低空を漂う雲の群れが海面に映し出されている。リアス大陸周辺には小さな島が点々と存在している。その多くは無人島となっているが、野生生物や植物、資源は豊富だ。無人島に移り住む者も一時期はいた。しかし野生生物の多くは気性が荒いということもあり、永住は困難だった。魔物の遠吠えを毎朝耳にしてノイローゼになってしまったり、不運なことに捕食されてしまうという事例も多々存在した。
大陸の三国以外にも国は存在する。リーンベルク王国、アタナシウス帝国、スメラギ皇国から成るリアス大陸からハリアント海を南東に進んだ位置に存在するミスリット国と呼ばれる島国だ。この国は大昔に罪を犯した人間や迫害によって大陸から追いやられた種族が建国した国であり、大陸の人々からは罪人の国とも呼ばれている。
その中の絃罪島と呼ばれる、太古から現在に至るまでにその名を世界に轟かせ人々の恐怖の象徴として君臨し続けている『戦紅の歌姫』の異名を持つ真祖の吸血鬼──リアス・ハーフメルナが城を構える島がある。
その絃罪島の海岸、ハリアント海に接する砂浜、サードルナビーチを暇潰しを兼ねて散歩をしていた戦紅の歌姫リアス・ハーフメルナは、見慣れた砂浜の一部分の色が普段と異なっていることに気づいた。
「久し振りの客人だ……って、死にかけだな。ふふっ!」
外見は十代後半から二十代前半を思わせる美しい女性。腰まで伸びる月を連想させる金の長髪に真紅の双眸に加えて身体はシミ一つ見当たらない玉のような白い肌。ぷっくらと膨らんだ口唇に艶めかしい舌をなぞらせたリアスは新しい玩具を見つけた子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「レストレーション」
玩具を与えられた子供のように歩を弾ませ、倒れ込んでいたそれを抱き起こし、同時に何かを唱えたリアスは再び頬を綻ばせた。美少女、美女。世間からは必ずそう言われるであろう彼女の仕草一つ一つには人々の心を惹き寄せる一種の魅力の魔法が込められているように感じてしまう。
「整った顔立ちをしている」
海水で濡れ、所々に砂が付着している髪の毛を払いのけ、露わになったその顔立ちを見つめるなりリアスは躊躇うことなく少年の唇と自身の唇を重ね合わせた。閉ざされた唇を自身の舌で無理矢理こじ開け、侵入。舌と舌を綿密に絡ませる深い、ディープなキス。しかしその行為事態は性的欲求を満たすものではなく、何か薬のようなものを飲ませているような医療的行為とも見て取れる。
「これくらいで良いのだろうか?」
絡ませていた舌同士を離して顔を遠ざける。透明な銀の糸が伸び、ある程度の距離を置くとプツンと途切れた。一呼吸置き、リアスは腕の中に眠る少年の首に掛けられた銀色の認識票を手に取った。
「ふむ……これはドッグタグか?」
ドッグタグを指先で軽く持ち上げ、打ち込まれた情報を読み上げる。
「古代文字か。名前は結城奏……おなごのような名だ。所属は日本国海兵隊。まあ見るからに軍人ではあるな」
読み上げ、興味を持ったのか、リアスはオペレーション・ナイトプリンセスにおいて行方不明の後、殉死と宣告された国連平和維持軍中東派遣団及び日本国海兵隊に所属する結城奏中尉を自身の住まう城へと運んだ。
しばらく歩けば見えてくる城。メルティア城と呼ばれるその城は太古に人間から拒絶された彼女が魔法の力によって建てた城だ。外装、内装は西洋の城と何ら変わりはない。そんなメルティア城の最上部に位置する、リアスが寝泊まりをする場所、いわゆる寝室。彼女はサードルナビーチに打ち上げられていた奏の衣服の砂を落とし、濡れていた髪や衣服を乾かすとベッドに横たわらせた。
「寒いな……」
季節は初春。しかし時折肌寒く感じる季節だ。リアスは天頂で地上をせわしなく照らしている太陽に感謝するなり、身につけていた衣服を全て脱ぎ去ると浴場に向かった。
身長は女性にしては長身に当たる部類だろう。リアスは衣服の上からでは判りにくいが美しい、それでいて豊満な双丘を持ち、そして腰のラインはスラッとした女性なら誰もが憧れる曲線美を有している。ヒップもそれなりに大きく、例えるなら安産型と言ったところだろう。そんな完璧な股体を惜しげなく晒した彼女は備え付けられてるシャワーのハンドルを回転させる。
魔力によって濾過、洗浄、加熱された海水が程良い温度のお湯となってシャワー口から雨のように降り注ぐ。
「はぁー、運動した後のシャワーは良いものだ。これだから止められない」
数分間シャワーを浴び、キュッとハンドルを回してお湯を止める。指を鳴らせば不思議と彼女の目の前の空間が小さく割れ、その中に手を入れるとタオルを取り出した。タオルを身体に巻き、再び指を鳴らせば全身の水分がゆっくりと宙に浮かび、一つの水球へと形を変えた。
「そろそろ起きたらどうだ?」
リアスは水球を魔力の力によって操作すると、ベッドで横たわっている奏の顔の上に配置した。小さく笑い、ゆっくりとそれを押しつけていく。気絶しているとはいえ、息をする鼻や口から侵入する異物の存在に僅かに働いている奏の脳が危険信号を全身に発する。
「ぐふっ、ごほっ! ごほっ!」
瞬間、眠りから覚醒した奏は勢いよく身体を起こすなり、体内に侵入した異物を吐き出すために咳き込んだ。落ち着いたところで部屋の中を見渡し、目の前で声を上げて笑っているリアスを捉えた。
「やっとお目覚めか?」
「誰、だ……っ!」
「リアス、リアス・ハーフメルナ。一応貴様の命の恩人だ」
「恩人だと?」
「ああ。まあ、それに関してはどうでもいい。貴様の名前はなんだ?」
ドッグタグでおおよその予想はついているが念のためにと尋ねた。しかし反応はない。それどころか辺りに視線を巡らせ、何かを探しているようにも見える。
「俺の名前、俺の名前は……なんだ?」
静寂が部屋全体を包む。リアスは溜息を吐き、顎に手を添えると一つの結論を導き出した。
「記憶喪失、か。厄介なものだな」
「だったらリアス・ハーフメルナ。俺に名前をくれ」
記憶喪失。その言葉に反応した奏はすかさずそう言い放った。長い刻を歩んできたリアスも目の前で混乱せず、なおかつ自身に名を要求する奏に驚きを隠せない。即答する奏はショックを受けている様子も見受けられない。不思議な男だ。リアスは心の中でそう呟いた。
「ほぅ、私に名を寄越せと言うか。そうだな……私の眷属となってくれるのであれば授けよう」
眷属。つまり、下僕。
「眷属か。リアス・ハーフメルナ、お前は一人なのか?」
奏の純粋なその問いにリアスの瞳が僅かに揺れる。そして自身の生涯を振り返る。
リアス・ハーフメルナとしてこの世に生を受け、家族と仲良く暮らしていた日々は今でも明確に覚えている。しかしそれはすぐに終わりを告げた。吸血鬼。更に真祖であるがゆえに人々からは恐れられ、家族は物心がついてしばらくして殺された。
その頃からだ。真祖の広大な力を手に入れ、その優越感に浸り、家族を殺した人間へ復讐しようと思い始めたのは。復讐は果たしたものの、結果的には全世界の人々から恐れられるようになった。大陸の三国が手を結んだ程だ。
そして人々から離れ、辿り着いた地がこの絃罪島。
「ああ。私は昔から今まで現在進行形で一人だ」
胸がチクチクと痛む感情に襲われるが苦笑を浮かべることで半ば無理矢理に気を紛らわそうと試みた。昔からそうだ。辛いことがあればいつも苦笑を浮かべて物事から目を逸らしてきた。相談する相手もいない。孤独だと。
「そうか。だったら俺と一緒だな。俺には記憶がない。つまり知り合いが誰かも判らない。孤独、今のお前と同じだ」
同情されているのだろうか。普段であれば斬り捨てたくなる衝動も、今だけはとても心地良く感じてしまう。長い間、人から離れすぎてしまったのかもしれない。リアスは目尻に溜まる何かを指で振り払う。
「貴様はバカだ。だがしかし、今確信した。私はいつしか一人でいることに慣れてしまったと思っていたが、実際には自分の感じた喜怒哀楽の全てを話せる家族のような相手を欲していたのかもしれない」
「そうか。では俺と契約してくれるか、リアス・ハーフメルナ?」
リアスは頷き、そして心に渦巻いていた靄が消えていることに気がついた。
「レイ、レイ・ハーフメルナ。それが貴様の名前だ」
「俺の名はレイ、レイ・ハーフメルナ。今日からアンタの家族だ」
奏、否、レイは微笑むと自身の首を差し出す。彼女はその首筋に鋭い八重歯を突き立て、ゆっくりとかぶりついた。肉を突き破る生々しい音が微かに鳴り響き、レイはその痛みに身を捩らせる。リアスはそれを押さえつけ、レイの血を啜ると、反対に自身の血液と魔力を流し込んでいく。しばらく動きを止め、突き立てた歯を抜くと、リアスは傷痕を舌で舐める。すると傷痕は綺麗さっぱり、跡形なく消え去っていた。
「契約完了だ、レイ」
「ああ。よろしく頼むぞ、リアス」
ここに真祖、リアス・ハーフメルナの眷属が誕生した。




