城門
「あーっ、司書さん!元気になったの?」
夕食を食べ、食堂から出た廊下で声をかけられて振り返ると、栗色の巻き毛を揺らしたジュリーがこちらへ駆けて来た。
彼女に向き直り、セシリアはぺこりと頭を下げる。
「おかげさまで。この間はありがとうございました」
「気にしなくて良いよ。元気になって良かった。司書さんが寝込んでると、エルドが怖いのよね」
その仲の良さそうな様子に、やっぱり少し心が疼く。自分はどれだけ嫉妬深いのだろう。
「堅物で融通きかないこともあるかもしれないけど、捨てないでやって。司書さんが来てからエルド、すごく優しく笑うようになったのよ」
セシリアが何も言えないでいるうちにジュリーは勝手に話を進める。
「あたし、エルドと学校の同期なの。カイルもだけどね。あの二人はそれなりにモテるくせに同期の中でも抜きん出て難攻不落でさ。理由は真逆なんだけど。エルドは硬派、カイルは軟派で。何であたしもあんな奴に惚れちゃったんだか」
「あ、あんな奴って?」
「カイルよ。もう十年ぐらい片思い」
セシリアは驚いて目を見開いた。まさかジュリーの想い人がエルドレットではなくカイルだったとは。
「エルドにいろいろ協力して貰おうと思ったんだけど、あいつはあいつで司書さんに夢中だし。司書さんに惚れてるのはわかるけど、過保護で相手するの大変じゃない?」
「そんなことないです。あたしも、ずっと前から好きだったから嬉しかったし」
セシリアの答えにジュリーは目をぱちくりしてから悪戯っぽく微笑んだ。
「‥だそうよ、エルド。良かったわね」
その言葉に驚いて振り返ると、すぐ後ろでエルドレットが腕組みをして壁にもたれていた。
「い、いつからいたの?」
「最初から。邪魔したら悪いと思って」
エルドレットは真っ赤になったセシリアの傍まで来て、赤い頬を軽く指でつまんだ。
「エルド、良い思いさせてあげたんだから頼んだわよ。カイルのこと、どうにかしてね」
「‥あいつが俺の言うことを聞くわけがないが、善処する」
エルドレットの堅苦しい答えに苦笑して、ジュリーは手を振りながら去って行った。
セシリアは、書類をあと数枚片付けると言うエルドレットにくっついて彼の執務室まで行った。そこで別れるつもりだったが、彼が不満そうな顔をするのでそのままお邪魔する。
彼が書類を片付ける間、セシリアはソファで執務室にあった本をめくっていた。
ふと雨の音が聞こえて顔を上げると、書類を仕上げたエルドレットも立ち上がって窓の外を窺っていた。
「今年は雨が多いな」
「村が畑の水に困らなくて済むね」
セシリアはそう言ったが、エルドレットは少し難しい顔をした。
その顔のままでセシリアの隣に腰を下ろし、ぐいっと肩を抱き寄せられる。セシリアは手を伸ばして彼の眉間に寄った皺を伸ばしてやった。
眉間の皺をなくしたエルドレットが、空いた手でセシリアの手を掴んで拘束する。そのまま深く口付けられて、セシリアの頭はすぐにぼーっとし出した。
いつの間にか、掴まれていた手は彼の手と握り合わされている。
キスの合間に言葉を紡ぐ声は低く掠れていて、それがまたセシリアの胸をぎゅっと締め付けた。
最初は気になっていた雨の音が、そのうち気にならなくなっていた。
雨は四日間降り続いた。各地での被害が懸念され、雨が激しくなった四日目の朝、騎士団は朝儀で近隣の村への災害派遣を決定した。
派遣されるのは人数の都合から第一分隊と第三分隊となり、昼にセシリアを呼びに来たエルドレットが教えてくれた。五日ほどの遠征なのですぐ帰って来ると言ったが、やっぱり少し寂しい。それがまた顔に出てしまい、エルドレットは困ったような嬉しいような複雑な顔をした。
第二分隊で残留になるサラは、セシリアとエルドレットの関係が変わったことに気付いているようで、セシリアの肩に手を載せて「セシリアは任せて下さい」と笑った。
エルドレットは少し微笑んで、「それよりおまえのとこの分隊長が書類溜めないように何とかしろ」と答えた。
派遣の前の晩、エルドレットはセシリアを部屋に呼んだ。分隊内の編成図を描きながら、セシリアにいろいろ頼みごとをしてくる。
遠征に持っていくシャツを畳んだり、予備の皮手袋を探したり、マントの綻びを繕ったりして、結局セシリアが彼の荷造りを半分以上手伝った。
完璧なように見えて意外と抜けているエルドレットが結構可愛い。
編成図を描き終えたエルドレットはバキバキと首を鳴らし、今度はシャツのボタンを縫い付けているセシリアに礼を言って、手ずからお茶を淹れてくれた。
「おまえは器用だな」
「母に仕込まれたんです。エルド、これ前は自分でつけたの?」
にやりと笑って必要以上にぐるぐる糸で縫い付けられたボタンを彼に見せると、彼はむっつりと顔をしかめた。
「‥下手で悪かったな」
やっぱり可愛い。
セシリアが頬を緩めてそう言うと、彼はカップを置いてセシリアにずいと顔を寄せてきた。
「俺、おまえの十個上だぞ」
「知ってます」
セシリアも頬を緩めたまま、応戦するように彼の方を見た。
不本意そうに眉をひそめたエルドレットが、セシリアの髪に武骨な手を差し込み、後頭部をぐいっと引き寄せた。
唇が重なる。
最初は緊張して身体が凍りついてしまっていたが、そろそろこの行為にも慣れてきた。
するりと腕を彼の首に絡めると、僅かに唇を離した彼がふっと表情を緩める。
彼はだいぶ手加減していたらしく、そこから容赦がなくなった。
息をつく暇も与えて貰えず、セシリアはしばらく彼に翻弄され続けた。
その日、エルドレットはセシリアを抱き枕にして眠った。その力加減もセシリアが眠りやすいように配慮されていて、つくづく自分は甘やかされていると思う。
キスだって、セシリアが恥ずかしくてすくんだり固まったりしている時は強引になるくせに、怯えるとすぐにやめて優しく抱き締めてくれる。
自分の顔のすぐ上で寝息をたて始めたエルドレットの胸にすがりつくようにして、セシリアもそっと目を閉じた。
翌朝、出発する二分隊の見送りにセシリアも顔を出した。
その時はもうエルドレットも騎士の顔で、居残りのアルヴィンにここ数日で何度目かになる「頼むから書類を溜めるな」という説教をしている。
「エルド、随分しつこいじゃねえか。そんなに俺が信用できねえの?」
アルヴィンの問いに、エルドレットとサラが揃って「できない」と答えた。
「ひでえな。俺よりあっちどうにかしろよ」
アルヴィンが顎で示した方では、カイルが町娘ににこにこ笑って手を振っている。
更にその向こうでは、ゲイルが雨に濡れるのも構わず可愛らしい娘と熱烈なキスをしており、まわりで仲間たちが囃し立てていた。
「カイル、ほどほどにしておけ。ゲイルもだ。たった数日で大袈裟になるな」
エルドレットが二人を切り捨て、きびきびと指示を出し始めるとようやく場の空気が引き締まってきた。
騎乗したエルドレットがふとこちらに視線を寄越す。もう声は聞こえないから手だけ振ると、彼は微かに笑んで馬の首をめぐらせた。
彼の号令で雨のなか隊列が進み出す。
彼らは城門を出て跳ね橋を渡り、雨の霞で見えなくなった。
遠征は五日ほどの予定だと聞いていたので、四日目あたりからセシリアはそわそわし出した。毎日時間を見つけては城門へ行き、騎士団が帰って来ないかと首を長くして待つのが日課になった。
そんなセシリアを見て、サラは微笑ましげに「早く帰って来るといいわね」と言った。
アルヴィンが案の定書類を溜めているので、本心ではエルドレットに会いたくないのだろうが。
八日目の昼、一人で昼食をとっていつものように城門へ行くと、トリスタンが外出から戻って来たところだった。傍らにミケルを伴っている。
セシリアを見ると、「ちょうど良かった」と目元を柔らかくした。
相変わらず年齢不詳で綺麗な顔をしている。娘から老婆まで虜にする碧眼で見つめられ、セシリアは思わず背筋を正した。
「あとで良いから、私の部屋へこの国の地誌を数冊持って来てくれないか。できるだけ専門的なものを見たい」
「はい、わかりました」
セシリアが答えると、トリスタンはふっと微笑んだ。
「毎日健気なことだ。エルドレットは幸せだな」
待って。どうして師団長が知っているの。
赤くなったセシリアを見てトリスタンが楽しそうに笑う。
「見ていればわかるよ。そろそろ帰って来るだろうから、楽しみに‥‥」
トリスタンが言葉を切った。
ミケルが視線を城門の外へ向ける。
跳ね橋の方から、激しい馬の蹄の音が近付いて来た。城門をくぐり、城の前で馬から崩れ落ちるように降りた人影がトリスタンの姿をみとめて彼の前で敬礼する。彼のマントも顔も泥だらけだった。
「師団長、第一分隊所属エドワードです。アドルフ副隊長の伝令で参りました」
「聞こう」
はっ、とエドワードが敬礼を解く。
「我らが村へ到着する一日前、長雨により村の傍を流れる川が氾濫し、我らが到着した頃には村の半分が水没しておりました。それにより村人の避難が難航し、更に土砂崩れが起きて負傷者が出ております。村人は無傷ですが‥」
エドワードが一度言葉を切った。
「村人のなかに先日王都で捕らえ損ねた政治犯がいたようで、我々が自分たちを捕らえに来たと思ったらしく、村長の家を包囲し捕らえられた彼らの仲間を解放するよう要求しております」
「その家には誰かいるのか」
エドワードがちらりとセシリアを見た。
「村長の家が高台にあるため、そこに避難していた村人と村長がいます。あと、彼らを守ろうとしたエルドレット分隊長とカイル分隊長、トラヴィス副隊長、ジュリー班長がいます。指揮権はアドルフ副隊長に。状況は膠着状態でしたが、裏の山がいつ崩れるかわかりません。彼らは仲間を解放しなければ爆薬で裏山を崩すつもりではないかと思われます」
セシリアは思わず息を呑んだが、トリスタンは動じずにしばし考え込んでいた。
「エドワード、おまえはただの伝令か」
「は。アドルフ副隊長が師団長に状況をお伝えせよと」
「そうか、ご苦労。私がすることは何もなさそうだな」
てっきり援軍を送るか何かだと思っていたセシリアは、呆気にとられて「師団長」と呟いた。
しかし振り返った彼はにっこり笑い、
「エルドレットとカイルなら大丈夫。放っておいても切り抜けるだろう。信じてあげなさい」と言った。
エドワードも何も言わない。
セシリアは泣きそうになるのを堪え、エルドレットの無事を祈った。