自室
仕事中に長時間固まることもなくなったセシリアを見て、まわりの騎士たちは安心したようだった。
しかし今度は、エルドレットに何かされるたび短時間固まるようになってしまった。
褒められて頭を撫でられた時。
転びそうになって支えられた時。
道を間違えて腕を引かれた時。
ネルの言っていたとおり、そうされるたび「好き」だという言葉が零れ落ちそうになり、しかしさすがに廊下や食堂で言うわけにもいかず、何も言えなくなって固まっていた。
それ以外は順調で、嵐で荒れた図書室も元に戻り、ゲイルが突発的に現れて恋文の依頼をしてくる以外は平和な日が過ぎていった。
ある朝目が覚めたセシリアは、ずんと頭が痛むのを感じた。
昨日また夜更かしして本を読んだせいだと思ったが、胃もむかむかして食欲がない。
風邪かな、休もうかな、と思ったが、今日はエルドレットが読みたがっていた本を午前中に買いに行く予定だった。早く渡してあげたい。
具合が悪くなれば午後から休もうと思い、身支度をして朝食は抜いて城を出た。
一軒目の本屋でエルドレットの希望していた本を入手し、二軒目で他の数冊を購入する。
五冊ほど抱えて店を出た時、足元がふらついてたたらを踏み、そのまましゃがみこんでしまった。頭がふらふらする。
「もしもし、貴方大丈夫?」
そっと肩に手を置かれ、重い頭を上げると栗色の巻き毛が目に入った。ジュリーだ。
ジュリーもセシリアには見覚えがあったらしく、ちょっと目を丸くした。
「あれ、貴方図書室の人だよね?具合悪いの?」
セシリアが驚きと気持ち悪さで答えられずにいると、彼女は自分のマントを脱いでセシリアをくるんでくれてから立ち上がり、「エルド!」と大きな声を出した。
すると、路地から「何だ」と声だけ返ってくる。
「何だじゃない。ちょっと来てよ。あんたのお姫様が大変よ」
今のは揶揄?皮肉?
律動的な足音が近付いてきて、セシリアの頭に大きな手が載った。
「どうした」
「具合悪いみたい。あんた、城まで送ってあげなよ。どうせ午後から書類に忙殺される予定でしょ?」
「何で知ってる」
「カイルが言ってたの。アルヴィンの分がエルドに行って、エルドは大変だねーって」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、エルドレットはセシリアの荷物をジュリーに持たせ、セシリアを背中におぶった。それから荷物を受け取り、「じゃああとは任せる。何かあればアドルフに」と副隊長の名前を挙げて歩き出した。「お大事に!」とジュリーの声が追いかけてきた。
セシリアの記憶はそこで途絶えた。
目を覚ますと、額に濡れたタオルが置かれ、首まで毛布にくるまれていた。天井の染みから、自分の部屋だということがわかる。
横を向くと、エルドレットが机に向かってがりがり羽ペンを走らせていた。午後は書類に忙殺されるってジュリーが言ってたっけ。
セシリアが身じろぎしたのに気付き、エルドレットが顔を上げてこちらを見た。セシリアの目が開いているのがわかると、彼は立ち上がって傍らまで来る。
「気分はどうだ」
「あんま良くないです‥」
「熱があるからな。ネルが薬を置いていった。スープがあるが少し食えそうか」
エルドレットが持ってきてくれたスープは、おいしかったが半分も食べられなかった。もういいと言うと、今度は薬が差し出される。苦い薬を飲むと、いつものように頭を撫でられて褒めてくれた。完全に子ども扱いである。
「何か欲しいものは?」
そう訊かれて、何もないと答えるとまた寝るように言われた。
椅子を枕元に移動させたエルドレットが、そっと手を握ってくれる。
「エルド様‥‥」
「様は要らないと言わなかったか」
エルドレットの声が不機嫌になった。
拗ねてるみたいでちょっと可愛い。
瞼が重くなって、目の前が見えなくなった。
「エルド‥」
エルドレットは答えず、手を握る力が少し強くなった。
「好き‥」
言葉が声になる前に、意識が再び途切れた。
バタンと扉の閉まる音がして、セシリアは目を覚ました。部屋はカンテラの灯りだけで、外は真っ暗だ。ベッドサイドにあった水を飲んで、セシリアはベッドから這い出した。汗をかいたので軽く身体を拭き、服を着替える。
廊下に出るとまだ人の気配がして、そんなに夜が更けていないことがわかった。汗をかいて熱が下がり、少しお腹もすいた。食堂に下りて果物を切って貰い、それを持って部屋に向かう。すると、階段を上ったところで眉間に深い皺を刻んだエルドレットと出くわした。
「どこに行ってたんだ」
「食堂に。ちょっとお腹すいたので」
問いに答えると、彼の顔はますます険しくなった。それから無言で、ひょいとセシリアを横抱きにする。驚いて食器を落としそうになり、小さく悲鳴をあげてしまった。
「エルド、歩けるから下ろして」
その懇願は無視され、彼はセシリアを抱えたまま部屋まで歩いて行った。セシリアをベッドに降ろし、不機嫌そうな顔のままで見下ろしてくる。
「病人がふらふら出歩くな。戻ったらベッドが空で驚いたこっちの身にもなれ」
「だってお腹すいたから‥。誰もいなかったし」
彼の眉間に皺がもう一本増えた。
一歩ベッドに近寄られ、思わず腰掛けていた足をベッドの上に引き上げ、後退りする体勢になってしまう。
「俺がおまえを一人にしてそんな長時間部屋を空けるわけないだろう」
「そ、そうなんですか?」
駄目だ。また地雷を踏んだ。
エルドレットが一歩進み、セシリアは少し後退した。
「俺がおまえを心配していないと思ったか」
「そうじゃなくて‥エルドは忙しいし、あたし大したことないし‥ちょっとぐらい放っておいてくれても‥」
言えば言うほど泥沼らしい。
エルドレットがベッドに片足を載せた。後退するセシリアの背中は壁にぶつかる。
「寝言で俺の名前を呼んでおいて、よくそんなことを言う」
「えっ、うそ!」
「本当だ」
エルドレットは右手を壁につき、セシリアに覆い被さるようにして逃げ場をなくした。
「あ、あの、あのあの、あたし、何て?」
「好き、と」
それは寝言じゃなくて、起きてる時に言ったかも。言えてないと思ってたけど。
真っ赤になったセシリアを間近で見下ろし、ようやくエルドレットの眉間から皺がなくなった。
「おまえはただの寝言かもしれないが、俺はおまえが好きだ」
エルドレットの低い声に、せっかく下がった体温が一気に上がった。
エルドレットの黒い瞳から目が逸らせない。見つめれば見つめるほど、顔が赤くなっていくのがわかった。
「エルド‥は、あたしのこと妹みたいに思ってると思ってた」
「俺もそう思おうと努力はした」
ぐっと壁についていたエルドレットの腕が曲がり、セシリアにさらに近付いた。
待って待って待って。
いつものエルドはどこいったの。
大人の余裕があって、優しくて紳士的なエルドはーー‥?
曲げた脚でエルドレットの身体を遠ざけながらそれを口に出すと、彼は珍しく口元に笑みを浮かべた。
「あれは分隊長の顔だ。残念だったな」
彼の左手が頬に触れ、唇の端にそっと口付けられた。
そこ、なんだ。
そう思ったのが顔に出たらしい。
彼はかさつく指でセシリアの唇をなぞり、思わずセシリアが目を閉じたのを見計らって今度は唇に口付けた。
予想はしていたものの実際にされると身体は驚いて、思わず両手で彼の厚い胸板を押し戻そうとしてしまう。
しかし分隊長まで務める騎士に力で敵うわけがない。
何度も何度も角度を変えて口付けられている間に、いつの間にか腕の力が抜けた。
それに気付いたエルドレットが、束の間唇を離す。
「それともおまえは、騎士の顔をした俺の方が良いか」
一瞬何のことかわからず、先ほどの会話の続きだと気付いた。
言えない。
普段の優しい彼よりも、強引に迫ってくるエルドの方が好きだなんて。
それも顔に出ていたらしく、エルドレットは満足そうに口角を上げて口付けを再開した。
あたし、ちゃんとエルドに好きって言ってない。
それに気付いたのは、散々彼に翻弄されて頭も身体もふらふらになり、苦笑した彼に謝られながら寝かしつけられた後だった。